読書会だより

私は今何を見ているのか

―今日の哲学的問いは「私は今何を見ているのか」です。
(沈黙)
佐野
こう聞かれると困るのよね。

A

質問の意図がよく分かりません。
佐野
今日読む所の内容に関係しているんですよ。例えば今目の前に青いマーカーがありますよね。でも「青を見ている」と言ってしまうと、もう青は見ていません。だって判断してますから。見てはいない。でも判断できるんだから、何も見ていなかったわけじゃない。何を見ていたのかな?「青を見ている」の「青」は言葉だから、言葉を見ていたの?

B

言葉じゃないと思います。
佐野
じゃあ、何を見ていたの?

C

何だかわからないものですよ。それが過去に見たものとの関係で青と判断されたんだと思います。
佐野
なるほど。

D

「私のことを見ていない」ということ有るじゃないですか。特に男女関係において。
佐野
どういうことです?

D

いや。見てはいるんですよ。ですが「見ている」というように言ってしまうと自分と相手の関係だとか、意識しまうんですよね。
佐野
それが見ていないと。確かにマーカーでも青だけ見ていることはありませんね。「青」と判断した時は、それは書くものだという連想が生じている。それで文字を書くと、次の言葉が連想されている。でもそれはもともと何かを書きたいということがあったわけで、そうすると見ていたものは書きたいことで、それを書いてしまうと、また別のしたいことが連想される。これが無限に続く、ということになりますね。

C

この問いは面白いなあ。目の前の注意に限られていない。禅のお坊さんに聞いてみたい。
読書会でではこの後、講読に入りました。その中で、例えば塩が白と辛いと結晶は立方体だというような性質を統一したものであるように、「物を見る」とはこの「統一点」を見ることだとされました。そうしてこの統一点が「意識の統一点、即ち注意の焦点」です。そこでそうした注意を「指導」するものが「統一的或るもの」、上の例で言えば「何かを書きたい」であることが確認されました。しかし「何かを書きたい」という衝動の根源を突き詰めて行って「本当にしたいこと」を考えると分からなくなります。それで「私たちは今何を見ているか」ということはどこまでも分からないものになります。こんなことが確認された後で——
5歳の娘さんがお父さんと一緒に来てお父さんが読書会に参加している間、静に遊んでいます。

E

(パパ)
お前は今何を見ているの?
(集中しているのでお返事がない)
佐野
統一力って言ったらびっくりするね。
(笑)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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