無限定なるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落275頁11行目「意識が純粋作用と考えられるにも」から同段落276頁11行目「此に到達せざるを得ない」までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードは「意識作用が純粋作用と考へられるのも我々の意識と考へられるものがかかる矛盾の統一の場所なるが故である」(276, 4-5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、「われわれの意識と考えられるもの」が「矛盾の統一の場所」なるが故に、「意識作用が純粋作用と考へられる」という。しかし、ただ「生きる」、ただ「歩く」といった、その都度の「述語的なるもの」において矛盾はないように思われる。こうした「述語的なるもの」の中で、西田は、「意識する意識」に焦点を当てることによって、映されたものを対立させ、自ら矛盾をつくりだしているのではないか。「意識」に映されることによって、つくりだされた矛盾的関係が、矛盾の統一の場所なる「意識」におかれているとはどういうことだろうか」(251字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Wさんは、今日学会出席のためお休みです。私の方から皆さんにお聞きしたいのですが、「ただ「生きる」、ただ「歩く」といったその都度の「述語的なるもの」において矛盾はないように思われる」とありますね。たしかに通常はありませんね。Wさんも「思われる」と書いていますね。では「生きる」や「歩く」のどこに矛盾があるのでしょうか。

T

主語に矛盾があると思います。たとえば「私が生きる」「私が歩く」という場合、主語は移ろい行くものです。幅がある。「私は死ぬ」「私は止まる」にもなります。
佐野
瞬間はどうですか。そこには矛盾はないのですか?

T

瞬間は存在しません。しかし「今」しかないともいえるかもしれません。その場合は矛盾的になると思います。
佐野
死が近くなると実感されると思いますが、「生きる」ということは「死につつある」ということです。また私の父は現在、車椅子生活ですが、「歩く」ということもつねに「歩けなくなりつつある」ということと一つです。我々は生死を常に生の側から見て、生は生、死は死というように考え、死を自分でないものとして先に追いやります。病や老いもそうです。それで何の矛盾もないような顔をしている。しかし実は根柢にそうした矛盾を常に抱えている、そう言えると思います。

M

矛盾を「つくりだしている」という表現が気になります。
佐野
Wさんは私へのメールではそれは「人間」が作り出してしまうのだ、というように書いておられました。動物も含めて、人間以外のものに、生死はありません。老いも病もありません。彼らはただただ生死するのみです。ところが人間はそれができない。それは言葉をもつからだと思います。言葉は本質的に「分ける」。例えば生と死を分ける。しかしもともと分けることのできないものを分けているのですから、その矛盾に苦しむことになります。その意味ではこうした矛盾を人間は「つくりだしている」とも言えるかもしれません。プロトコルはこれくらいにして、本日の講読箇所に入りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(276頁11行目~15行目)
佐野
ここはアリストテレスの「物理学(自然学)」についての記述ですね。アリストテレスの「自然学」に関する資料がお手元にあると思います。207aですね。岩波の新しい全集第4巻の154頁(内山勝利訳)です。内山訳では「統括する(ペリエケイン)」となっているものを西田が「包む」と訳していますが、ほぼ忠実な要約になっていることが分かります。「全体」と「無限定なるもの」(内山訳では「無限なるもの」、量的質的な無限、無限定のこと)が「類似」しているから、パルメニデスたちは「無限定なるもの」に威厳をもたせて、「無限定なるもの」が「すべて(全体・万有)」を「包む」と言っているが、アリストテレスはこれに反対して、逆に「全体」が「無限定なるもの」を包むと主張している、ということです。その根拠は「全体」が形相(現実態・顕現(エネルゲイア)、終極実現態(エンテレケイア))であるのに対し、「無限定なるもの」は質料(素材、可能態・潜在)だから、というのです。アリストテレスにとっては形相が「全体」であり、これが質料を包むことによって、これを限定するのです。

T

無限なるものが限定される、というのがよく分かりません。例えば時空は限定されないのではないですか?
佐野
ここにはギリシャ哲学の特殊性を考慮しなければならないと思います。ギリシャ哲学にあっては完全・完結こそが神的なものの在り方です。例えば、パルメニデスは「有(存在)」を球体のように考えていた。パルメニデスはエレア派の祖です。その弟子筋にメリッソスというのがいて、存在は無限だ、と言い出したのですが、これはむしろ例外だということです。207aにも同趣旨の記述がありますね。

T

それでようやく分かりました。
佐野
このアリストテレスの考えに西田は反対するのです。次を読みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(276頁15行目~277頁6行目)
佐野
西田は場所論の根本テーゼ「有るものは何かに於てなければならぬ」(208頁)を持ち出します。アリストテレスの形相(エイドス)もプラトンのいわゆるイデアもその「於てある場所」がなければならない、そう言います。そうでなければ判断(認識)の成立を説明できない、そう考えます。文中、「量の分割作用によって潜在と顕現が分たれる」とありますが、これに関する記述もアリストテレスの「自然学」207aに見えますね。量は「無限定なるもの」です。それではそれを限定するもの、分割作用は何ですか?

C

形相です。
佐野
そうですね。そうだとしてもそうした「作用自身を見るものがなければならぬ」、西田はそう言います。これは判断(認識)の根本にある直観のことですね。西田は直観においてすら、「場所」を必要とすると考えます。次に「潜在として有に包まれた無」とありますね。この「有」とは?

C

形相のことです。
佐野
そうですね。形相こそが本当に「有」と言える(ウーシア、実体だ)とギリシャ人たちは考えます。そうすると「潜在として有に包まれた無」とは何のことですか?

C

無限定なるもの、ではないですか?
佐野
そうですね。それは「真の無」ではない、そう西田は主張します。そうして「真の無は有を包むものでなければならぬ」と言います。そうして「主知主義の希臘人はプロチンの一者に於てすら、真の無の意義に徹底することができなかった」と述べます。ここではじめてプロティノス批判が登場します。『働くものから見るものへ』前半ではプロティノス万歳でしたね。Dさん、お願いします。

D

読む(277頁6行目~10行目)
佐野
指示語がありますね。それを押さえておきましょうか。7行目に「それ」とありますが、何を指していますか?

E

「限定せられた一般者を越ゆる」こと、ではないですか?
佐野
私もそう思います。我々は限定された一般者があるから、通常の判断を行うことができます。限定された一般者がなければ、判断(知識)が成り立たないと思われますが、西田はそうではない、それを越えることこそが「知識成立に欠くべからざる約束」だ、と言います。「約束」とは条件のことですね。これがなければ知識が成り立たない、ということです。我々は通常限定された一般者のもとで判断を行っており、それで矛盾なく分かった気でいますが、実はその根柢に「真の無」がある、それは矛盾的関係が於てある場所だ、そう考えます。「単に一般と特殊との包摂的関係に於ても、既に此両者を包むものがなければならぬ」とありますが、「人間は動物である」という命題において、特殊と一般はどうなりますか?

F

人間が特殊で、動物が一般です。
佐野
そうですね。その命題を意識した時に、すでに特殊と一般をさらに包むものが意識されている、ということです。この「意識」が「真の無」だというのです。次に「判断的知識の極致と考えられる矛盾的関係に於ては、明に之を見ることができる」とありますが、「之」は何を指していますか?

G

「真の一般者」です。
佐野
そうですね。「真の無」のことです。「判断的知識の極致」とありますね。通常の判断ではありません。そうした判断が行き詰って、破れたところです。直観するほかないところです。そこが「真の無」の場所だと。「矛盾的関係」が出てきましたね。次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(277頁10行目~278頁4行目)
佐野
「矛盾的関係」とありますね。我々は通常、矛盾は考えられません。相異と対立までです。犬と人間は違う。相異ですね。それが考えられるのはその根柢に「動物」という一般者を置くからです。塩の白さと辛さも相異です。それが成り立つのは両者の根柢に「塩」という「物」を置くからです。相異は対立に発展します。例えば犬と人間の相異は、犬と犬ならざるものと考えることもできますが、こうなると対立です。この場合でも根柢に一般者を置けば思考可能です。またAとAでないものは同時には成り立ちませんが、時間の経過を考えれば矛盾なく理解できます。木の葉が緑から緑ならざるものに変化した、というように。この場合でも「木の葉」というものが一般者になっています。しかし、こうした一般者がないとなると、対立したものが直接ぶつかり合います。これが矛盾です。そうした関係として、これまで「生と死」「有と無」が例に挙がっていました。テキストではこうした「矛盾的関係に於ては、少くも知るものと知られるものとが相接触して居なければならない、主語の面と述語の面とが或範囲に於て合同して居なければならない」とあります。「知るもの」は主語、述語、どちらの面に来ますか?

G

述語です。
佐野
そうですね。主語は対象ですから、「知られるもの」に側に来ます。「少くも」「或範囲に於て」という言葉がありますが、西田は直観が成立する真の無の場所においても、主語と述語が単に合一するとは考えません。そこに於てあるものと場所を区別します。そうしたことが念頭に置かれていると思います。そうして「矛盾的統一の知識の対象も、対象其者として矛盾を含んで居るのではない、否寧ろ厳密に統一せられたもの、豪末も異他性を容れないものと云い得るであろう、最勝義に於て客観的と云わねばならぬ。矛盾するとは述語のことである、矛盾的関係というのは判断の述語面に映されたものの間に於て云い得るのである」と来ます。ここは以前取り上げましたね。人間以外の言葉をもたないすべてのものは、生即死、有即無をそのまま生死、有無します。そこには老いも病もありません。言葉をもたないからです。しかし人間は言葉をもつ。言葉は本質的に分ける、ということです。そうして我々は自らを生や有の側に置き、死、無、老い、病を向うに置き、それで矛盾のない世界を生きている気になっています。しかしもともと一体なのですから、こうしたものに煩わされ、苦悩することになります。こうした苦悩の中に矛盾が現れているのです。我々は自らの力でこうした矛盾を直視することはできず、それから目を逸らします。しかし何らかの機縁で判断が破れるよう体験が起こる。そこが「真の無」の場所、ということになります。要するに本来矛盾のない主語(対象)が述語に映されることで「矛盾的関係」が生ずるということです。

G

人間じゃない方がよかったかもしれませんね。
佐野
そうかもしれませんね。次を見てみましょう。「所謂主語面に於ては、是か非是かの対立性を成す」とありますね。「所謂」とありますように、ここは通常の判断です。通常の判断ではAか、Aでないかはっきりしていないといけません。生も死も同様です。しかしそれが「矛盾的統一の対象にまで行き詰る」。そこでは「判断的知識の立場からしては、もはやそれ(是)と他(非是)とを更に包含する一般者を見ることはできない」。まさに判断が破れたところですね。分かりきった言葉を失うところです。しかし「併しかかる対象といえども、述語可能性を脱することはできぬ。然らざれば、判断の対象となることはできない」。通常の言葉を失ったところ、絶句、沈黙のところから、言葉が、やはり判断という形を取りながらも、出て来るということです。ここにおいて「我々は単なる述語面、純なる主観性というものに撞着せざるを得ない」とされます。「真の無」ないし「意識」が述語面として捉えられていることが分かります。今日はここまでとします。
(第64回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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