市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 4

第3段落

ここからは第3段落です。ここまでの本論の流れとしては、通説の第一、すなわち知的直観が「一種独特の神秘的能力」である、あるいは「空想」であるとする通説を批判して、知的直観が普通の知覚と同一種であって、両者の間にはっきりとした分界線を引くことはできない、真の直覚と空想の間にもはっきりとした分界線を引くことはできないということを示した、とこういうことになると思います。

これまでの議論は基本的に天才にせよ凡人にせよ、個人の中の直観に限られていました。その上で経験が進むと言えば時間が、他への効果と言えば空間が前提されていたと言えるでしょう。このように個人、時間、空間を前提とした議論ではどうしても相対的とならざるを得ません。どこまでが天才で、どこまでが凡人なのかははっきりしませんし、誰の言っていることが真の直覚で、誰の言っていることが空想なのかがはっきりしないのは当然と言えます。これに対し、あるいはこれまでの議論を受けてのことでしょうか、第3段落で扱われる第二の通説はもっとはっきりした基準を提示します。それは「知的直観がその時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直観する点において普通の知覚とその類を異にする」という説です。

例えば美しい音楽に心を奪われている状態を考えて見ましょう。そこでは時間が忘れ去られています。天地が音楽でいっぱいになっていますから空間も忘れ去られています。自分が聴いているということも忘れ去られています。ここで直観されているのは美そのものであって、ただの音ではありません。その意味で普通の知覚とは異なっています。そうしてこの美そのものこそがこの音楽において真にある(実在)と言えるものです。このような経験は今述べた「時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直観する点において普通の知覚とその類を異にする」「知的直観」の例に該当すると考えられます。

ところが実はこの音楽の例を西田は「純粋経験」の例として挙げています(第2編第3章第3段落)。「純粋経験」ということであれば、どのような経験も純粋経験の形をとり得る、ということになります。「一生懸命に断崖を攀ずる場合(第1編第1章第3段落)」のように、何かに没頭していればよい、我に返ってその経験について判断していなければよい、ということになります。これは極めて普通の知覚においても起こりえます。時間や空間を意識し、個人を意識するのは常にそうした経験から我に返った時です。そうであるならば我々が純粋経験の内にある時、それがどのような純粋経験であれ、それは同時に知的直観であることになります。普通の知覚でも知的直観でありうるのです。だから時間、空間、個人を超越しているという基準で知的直観が普通の知覚とは違う、とは言えないことになります。

テキストでの西田の反論は次のようになっています。反対論者は(1)知的直観が時間、空間、個人を超越している点において、また(2)実在の真相を直視する点において、普通の知覚と異なると主張していますので、西田の反論も二段構えになっています。まず第一の点について。

しかし前にも云った様に、厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、これ等の差別は反ってこれらを超越せる直覚によりて成立するものである。

「前にも云った様に」とあるのは、例えば第1編「純粋経験」第2章「思惟」第8~9段落のことを言っていると思われます。引用しておきます。

純粋経験の立脚地より見れば、経験を比較するにはその内容を以てすべき者である。時間空間という如きもののかかる内容に基づいてこれを統一するひとつの形式にすぎないのである。(第1編第2章第8段落)

経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのでなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。(第1編第2章第9段落)

難しいですね。少しずつ説明します。まず「純粋経験の立場より見れば」とか「純粋経験の立脚地より見れば」という表現が見られますが、それは「純粋経験を唯一の実在として凡てを説明する(序)」立場のことです。先程美しい音楽に心を奪われている状態を例に挙げて、純粋経験を具体的にイメージしていただきましたが、西田はこの純粋経験だけが真にあると言えるものであって、ここからすべてを説明しようとします。これは第2編「実在」第1章「考究の出立点」の内容となりますが、簡単に触れておきましょう。

西田は真にある(真の実在)と言えるものは「疑うにも疑いようのない直接の知識(第2編第1章第3段落)」であるとし、哲学はここから出立しなければならないと考えます。では「疑うにも疑いようのない直接の知識」とは何でしょうか。それが純粋経験です。音楽を夢中に聴いている時は聴いている自分も、聴かれている対象である音楽も意識されません。鳴っている音楽という「事実」ないし「意識現象」と、それを聴くという「知」とが一つになっています。「事実と認識の間に一毫の間隙もない。真に疑うに疑いようがない(同)」、西田はこのように言います。こうして西田は純粋経験を「考究の出立点」として、「純粋経験を唯一の実在として全てを説明」しようとするのです。これが「純粋経験の立場」ないし「純粋経験の立脚地」です。

一つだけ注意しておきたいことがあります。それは「純粋経験の立場」が「純粋経験」に立つ立場とイコールではない、「純粋経験の立脚地」が「純粋経験」そのものを立脚地にしているのではない、ということです。純粋経験の中にいる間は自分が純粋経験の中にいることすら気づかれません。ですから純粋経験に立っている限り、それについて何も語ることはできません。純粋経験について何かを語ろうとすれば、純粋経験の外に出てこれを対象化しなければなりません。また西田は純粋経験が自得すべきものであって、言語に言い表すべきものではないことを繰返し注意しますが、西田の立場は純粋経験が言語に言い表せないものである、という所に止まる立場でもありません。西田は「純粋経験はある」とはっきりと主張し、そこから我々のすべての差別的知識の成立を説明しようとします。これが「純粋経験を唯一の実在として全てを説明する」立場であり、「純粋経験の立場」です。それは対象化できないものを対象化し、言葉にならないものを言葉にしていくといったいわば矛盾した立場であり、この矛盾は人間存在に根差した矛盾と言えるでしょう。

本論に戻ります。知的直観が普通の知覚と異なることを主張する者は第一に知的直観が時間、空間、個人を超越していることを根拠に持ち出しますが、西田は通常の純粋経験がすでに時間、空間、個人を超えていることを純粋経験の立場から反論します。そうして時間空間は経験内容を比較しつつ統一する形式にすぎず、経験がこのような時間、空間、個人を知っているが故に経験は時間、空間、個人以上であると言います。普通の知覚ですら経験内容を統一的に直覚する際に、時間、空間、個人という形式を直覚していると言うのです。

これも我々の常識と大きく異なっていますので説明が必要でしょう。まず時間と空間について。我々は時間というものがまずあって、その上に様々な出来事が起こる、あるいは空間というものがまずあって、その中に様々な物が存在している、とこう考えるわけですが、それは時間や空間というものを独断的に設定している、と西田は批判するのです。そうして純粋経験の立場に帰って考えなさい、ということになるのです。「純粋経験の立場」とは「経験がある」ということは疑いたくても疑えないだろう、そこから出発すればいいんだよ、そうした立場です。そうした立場からすれば経験に先立って何かが存在するというのは独断ということになるのです。何しろ我々は決して経験(意識)の外に出られないのですから。時間、空間もそうです。経験に先立って時間や空間が実在としてあるというのは独断だということになります。純粋経験の立場からすれば、時間や空間は経験の内容を整頓する形式にすぎない、ということになります。私はよくあるのですが、お酒を飲みすぎると前後不覚になりますね。よろよろする。しっかりと前後や左右を確認しないと危ない。素面の時はこの作業を無意識のうちにちゃんとやっているのです。経験をしっかりと整頓しているのです。また酩酊すると時間的な前後も怪しくなります。このように考えると時間や空間は我々の経験の内容を整頓する形式であることが分かります。時間について西田は次のように述べています。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考えの起るには意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。しからざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用によって成立するのである。(第2編第6章第3段落)

時間が成り立つためにはまず経験の内容の統一ということがなくてはならない、ということです。この統一の形式、仕方の一つが時間というわけです。空間も同様です。

次に個人について。これも我々の常識とは大きく異なっています。我々の常識では意識というのは身体の内に、もっと言えば脳の中にあると思っています。そうしてその意識を所有しているのは心だと思っています。ところが西田は純粋経験の立場から、こうした常識を覆します。意識が脳の中にあるというのは、意識を離れて物(この場合は脳)が存在することを認める立場です。我々は決して意識の外に出ることはできませんから、意識を離れた物を仮定するのは独断だということになります。心も同様です。物や心が意識から独立に存在しているというのはそう考えた方が整合的だ、辻褄が合うというにすぎません。ですから物(身体)にせよ心にせよ、そのようなものが個人としてまずあって、その個人が経験する、と考えることは、それがどれほど常識的に見えようとも、哲学的には独断だということになります。少なくとも西田はそう考えます。それで西田は「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と言うのです。実際純粋経験において個人は意識されません。個人は純粋経験から我に返った時に意識されます。もっともこの個人性の概念は『善の研究』では両義的で、一方で先の引用にも見られたように、「特殊なる一小範囲」とされながら、他方で「完全なる真理は個人的(第1編第3章第6段落)」とされていて、これも容易ならない概念であることが分かります。我々は特殊な個人的な意識であることをどこまでもやめることはできないにもかかわらず、そうした個人性が最終的には一般的なもの、つまり神の発展の一部となる(第4篇第4章第4段落)のみならず、そうした一般的なるものの発展の極致と考えられてもいる(第1編第2章第8段落)のです。この点は措いておくとして、以上の説明で経験が時間、空間、個人を超えたものであることはご理解いただけたと思います。

さて、反対論者の第二の論点は、知的直観が実在の真相を直視している点で普通の知覚と異なる、というものでした。これに対する西田の反論は以下の通りです。

また実在を直視するというも、すべて純粋経験の状態に於いては主客の区別はない、実在と面々相対するのである、一人知的直観の場合に限ったわけではない。

そうしてシェリングの同一性やショーペンハウエルの純粋統覚の例を持ち出して、「天真爛漫なる嬰児の直覚は全てこの種に属するのである」とまで言います。

美術家が直覚しているのは美という理想です。普通の知覚が直覚しているのはそのつどの概念(画、女の人等)です。しかし言葉を知らぬ嬰児が見ているものはおそらくそのつどの概念ではありません。西田はこれ等のいずれをも純粋経験であるとし、どれも実在と直面していると考えます。たしかにこれ等のいずれも我に返った時に、自分が見たものを「本当にある」と言うでしょうから、当人にとっては実在ということになるのでしょうが、この三者の実在を同等に扱っていいのか、疑問が残ります。しかしこの点も残しておきましょう。

こうして嬰児の直覚も普通の知覚も美術家の直覚も同様に実在と面々相対している知的直観ということになるのですが、西田はやはりこれらの間に量的差異を設けようとして次のように言います。

それで知的直観とは我々の純粋経験の状態を一層大きくしたものにすぎない、すなわち意識体系の発展上における大なる統一の発現を言うのである。

それに先程「極致」とされた知的直観の記述が続きます。

学者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を得るのも、美術家の新理想を得るのも、宗教家の新覚醒を得るのもすべてかかる統一の発現に基づくのである[故にすべて神秘的直覚に基づくのである]。

嬰児の直覚から始まり、普通の知覚を経て、理想的要素が次第に量的に豊富深遠となり、ついに学者、道徳家、美術家、宗教家の直覚に至ってその頂点に達する、そんなイメージです。そうして次の文章を以てこの段落が締めくくられます。

我々の意識が単に感官的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態に止まるのであろう、しかし理想的なる精神は無限の統一を求める、しかしてこの統一はいわゆる知的直観の形において与えられたのである。知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である。

ここに至って第2段落を考察した際の疑問は一層明確な形をとることになります。第一に理想的なる精神が無限なる統一を求めるのならば、これで終わりということはないはずです。どこまでも豊富深遠となるはずです。だのになぜ「この統一はいわゆる知的直観の形において与えられた」と言えるのでしょうか。美術にせよ、学問にせよ、これで終わりということはありません。絶えずより大なる統一を求めます。これで頂点に達した、などというのはそれこそ妄想ではないか、そのように考えられます。以上が第一の疑問です。

引用文中の「知的直観」は脈絡から言って美術家などの極致の知的直観でしょう。最後の一文「知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である」の言わんとしていることは何でしょうか。「最も統一せる状態である」というようなことはここでとくに言う必要はありません。だとすればここでの主眼は神秘的な知的直観と知覚が同じだ、ということです。先程の言葉で言えば、どちらも「実在と面々相対している」ということが言いたいのだと思われます。そうだとすれば嬰児の直覚と普通の知覚と神秘的直覚は理想的要素の豊富さ、深遠さに関して量的に異なるとされながら、どれもが実在の直覚だということになります。ところで西田には意識統一の頂点が同時に意識本来の状態でもあるとする考えがあります(第4編第1章第4段落)。もともといたところに帰りたいと思う、と言うようなことです。これによりますと嬰児の直覚と美術家の直覚は同一ということになります。これ自体がとても不可解なことですが、仮にそうだとしますと極致でもあり本来でもある直覚と、普通の知覚における直覚の関係が問題になります。両者が区別されながらどちらも実在の直覚だというのは一体どういうことなのでしょうか。これが第二の疑問です。両者の区別をなくしてしまうならば、美術家や宗教家の直覚も、凡人がゲームに夢中になったり、孫の運動会の応援に我を忘れたりすることも、それどころか夢中で人殺しをするのも皆同じことになってしまいかねません。本当にそうなのでしょうか。知的直観と知覚との関係、言い換えるなら美術家や宗教家の直覚と我々の日常生活での没頭との関係はどのように考えたらよいのでしょうか。これが第二の疑問です。

もう一つ気になることがあります。ここでは学者、道徳家、美術家、宗教家の直覚が同列に扱われているのに、この章の終りには「学問道徳の本には宗教がなければならぬ」とされていることです。ここには明白な齟齬があるように見えますが、これをどのように考えたらよいのでしょうか。これが第三の疑問です。謎は深まるばかりです。

次回は第4段落についてお話しします。更新は9日を予定しています。

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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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