読書会だより

善きサマリア人は神の促しに自由に応答したのか

今回の哲学的問いは「善きサマリア人は神の促しに自由に応答したのか」でした。「善きサマリア人の喩」は新約聖書のルカ伝にあるもので、「隣人とは誰か」という律法学者の問いにイエスが答えたものです。ユダヤ人が身ぐるみ剥がされ、ボコボコにされて道端に転がっている。それをユダヤ教の偉い宗教者が2人見てみぬふりをして通り過ぎた。そこへユダヤ人とは血で血を洗うような敵対関係にあったサマリア人が通りかかる。彼は「気の毒に思って」助ける。イエスはこの中で誰がユダヤ人の隣人であったか」と問う。律法学者はサマリア人だと答える。イエスは「あなたもそうしなさい」と言う。こういった内容です。ある偉いキリスト教の神学者(八木誠一)はこの「気の毒に思って」のところで神の促しがあったとするのです。それはユダヤ教の偉い宗教家にもあったんだけれども、彼らはそれに応えなかった。ところがサマリア人はそれに自由意志で決断し、応えた。ところが自由意志で決断してみたら、そうした決断が神の促しに由るものであることが分かった、とこういうのです。さて彼は神の促しに自由意志で従ったのでしょうか。

A

頭で考えるレベルではなく、言葉以前に身体レベルの応答だと思います。サマリア人は身体がそこまで解放されていたんだと思います。これに対し偉い宗教家は律法に囚われていて身体が死んでいたんです。

B

神の促しは身体レベルで応えるものだと。

A

そうです。神によって生かされているということが腹の底から分かっているということです。

B

常にそういう応答ができるような準備ができているということですか。
佐野
常日頃からの習慣ということになると、意識から入るということになりますね。

C

サマリア人には私心は全くなかったのですか。

A

私心はありません。

B

でもそうした応答に準備があって習慣化しているということであれば、そこには日頃の意識的な決断があるんじゃないですか。

D

西田の言う「意志の自由」には迷いはないと思うんですけど。救う時に瞬時にいろいろ考えると佐野先生は仰っていましたが、それは西田の意志の自由とは違うと思うんです。でもサマリア人の場合はこれを自由と言えるか。これはキリスト教の決断の自由ということで、選択意志の自由ですよね。これは西田の言う意志の自由とは違うと思います。

A

選択意志ということは迷っているということだと思いますが、迷うということ自体が不自由だと思います。

D

迷う、迷わないというのがすでに分別です。迷っていないのが神の促しへの応答だと言ってしまうところが胡散臭いと思います。

E

神の促しと言ったのは八木さんですよね。それを神の促しと言っていいのですか。
佐野
確かに如何なる行為についてもそれを神の促しだったと言うのは危険ですね。ところでFさん今日は静かですね。

F

キリスト教は全て神のおかげで仕舞いにする。でも人を助けるのはやはり余裕があってすること。それは瞬時に考える余裕があるとかいうことじゃなくて優越感の問題だと思います。「気の毒に思って」というところに優越感、上から目線を感じます。

G

私も「気の毒に思って」というところに優越感とは言えないまでも、やはり上から目線を感じます。
佐野
でもサマリア人が同じ苦しみを知っていて、うーん。この話でいいのかな。

A

それでいいと思います。サマリア人は虐げられてきたということは重要だと思います。
佐野
そうですね。サマリア人は虐げられていた。そのサマリア人もひどい目に遭ったことがある。その苦しみを知っている。それでほっておけなかった。これは上から目線ではないように思われます。

D

西田も「罪を知る」ということを言っています。これは共感の問題だと思います。

A

弱者が一番優しいというのはアタリマエのことです。それを権力者が利用するんです。
佐野
それは優越感のような上から目線ではなく自分もほっておかれる孤独の辛さを知っていたということになりますね。それは上から目線ではなく、自分もその辛さを知っているからほっておけなかったという「共感」ということになりますね。

G

それでもそこには問題があるように思います。
佐野
Gさんは如何なる共感にも人間の優越感、自己関心が入り込んでいるということを言おうとしているようです。今日はここまでにしましょう。
マザー・テレサは道端で半分腐って転がって死んでいく人に声をかけた。孤独を知っているからこそ、孤独のうちに死んでいく者を放ってはおけなかった。しかしそのマザー・テレサも純粋に人を愛することができないことで祈りをささげていた。どうしても自己関心に基づく思いが入り込んでしまうことを悲しんでいたのである。このどうしようもなく自己関心が入ってしまって、愛することができない。これが罪を知るということで、その悲しみが同時に人間の愛ではない神の愛、無条件にすでに赦している神の愛に触れることになるのではないか。こうした神の愛に照らされて同じ原罪を抱える人間同士の隣人愛が成り立つのではないか。もし神の愛に等しく罪人である「我等」が照らされることなく「気の毒に思って」親切な行いをしたとするならば、そこに隣人愛はないだろう。サマリア人は神の促しに自由に応答したか。この問いは「至誠にて悪事をなすことなきや」という西田の『倫理学草案第二』の問いと本質的に同じものを含んでいる。この問いに「イエス(然り)」を以て答えることができない、ということが人間と神、人間と人間の間を考える上で決定的に重要であるように思う。
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

年別アーカイブ

カテゴリー

場所
index

rss feed