読書会だより

純粋経験とはどのような概念か

本日の哲学的問は「三木清は、『西田先生の言葉』(1941)において、「先生の哲学は単なる非合理主義でないと同様、単なる直観主義でもない」と書いている。これを踏まえたとき、『善の研究』(1911)における「純粋経験」とは、どのような概念であると考えるべきであろうか」です。
佐野
これを考える時は「純粋経験は直観である」と言ったら、すでに反省であるということと、西田が純粋経験は「程度の差」であるといっていることに着目すると面白いかもしれませんね。

A

純粋経験には主客未分と主客分裂と主客合一の三つの立場があると思います。このように分析しつつ、それに囚われないのが純粋経験だと思います。「非合理を合理化する」というのがありますが、それが哲学だと思います。合理化、しかしそれでかたつかない。分からん部分が必ずあるというのが純粋経験です。神は理念とも言えませんね。定義不能です。純粋経験はそれと同じです。人間としては一生懸命に考えるしかない。

B

三つの立場があるとおっしゃいましたが、それらは総合できないのですか。

A

総合する立場があってもいいが、考え方の土俵というか、誰かが何かを言えば分裂が起り、また合一される。とにかく一生懸命考えるしかないのです。

C

三つの状態とおっしゃいましたが、それが「程度の差」に通じるのではないでしょうか。そうした動きが「程度の差」ということです。

A

ですが主客未分の方が最高だともいえるんじゃないか。
佐野
「程度の差」とは統一の厳密度についていわれています。全くの統一、全くの不統一もなかろう、ということです。

A

最高の境地があるということではないのですか。
佐野
西田は普通の知覚にも知的直観があるといいます。その理想的要素はどこまでも豊富深遠となると。その意味では普通の知覚と極致に至った知的直観とは量的にしか異なりません。その意味では「程度の差」ですね。そうなると「最高の境地」も「普通の知覚」も「程度の差」ということになります。問題はそう言い得る立場に立っているか、ということです。「平常心是道」とか「日日是好日」とか言いますね。本当にそういうことが言い得るのか、そういうことだと思います。

D

言葉にした段階で、言葉にできないものを言葉にしてしまう段階で、純粋経験ではなくなるのではないのですか。純粋経験はあくまで判断以前の瞬間・刹那ではないのですか。

E

私も、直観と純粋経験の違いが分からないのですが、例えばこれを飲むとして、うまいと感じる前にうまさを感じるというか、考えたり言葉にする以前にうまいということがあるじゃないですか。花を見るにしても目に留まった瞬間です。これが純粋経験だと思うんですが。
佐野
しかし西田は反省も純粋経験だという。反省もそれについて考えたり言葉にしたりしなければ直観と変わりません。ただ不統一な状態ですが。西田は純粋経験の立場を出ることはできないと言いますよね。そうなると厳密な統一の状態も反省という不統一な状態も程度の差ということになります。迷うときは迷う。それでいいということになる。これが純粋経験の最終的な立場、平常性の立場だと思います。

C

そのように立場を立てることがそうした立場を実体化し、純粋経験を離れることにはなりませんか。
佐野
それも平常性です。すでにそこに立っている。私たちは反省を一歩も出られませんが、そのことが同時に常に純粋経験の内にあるということを言い得る立場が平常性の立場です。古池に蛙が飛び込む音に思いが破れて、常に足下に届いていた静かさに目覚める、そんな感じです。

F

そういう境地を求めるということですか。
佐野
求めることは必要ですが、求めるという構造が到達を不可能にしています。思いが破れたところに気づく、それしかないと思います。なんかお説教みたいになってしまいましたが、西田は純粋経験の立場の究極相をこのようなものとして考えていたのではないかと思います。今日はこのくらいにしてテキストに移りましょう。
(第21回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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