読書会だより

主観を離れた客観は可能か

今回の哲学的問いは「主観を離れた客観は可能か」でした。それについて出題者は次のように述べています。「前回の哲学的問いの中で『赤』は主観ではないかという意見があった。純粋経験の立場からすれば無限の内容があると考えられる。しかし、言葉あるいは判断など分節化する途端主観的な視点が入り込んでくる。すると、当然主観を離れた客観は成立するのかという疑問を強く抱いたため。もちろん同様の哲学的問いははされていると思われるが、この場において検討したい。」

それでは討論を開始しましょう。
 
佐野
まず問いを仕上げましょう。問いの中にある「客観」とは前回読んだテキストにある「客観」ですよね。つまり知識の確実性と同じ意味での客観性で、これを与えるのが直接経験だという意味での。

A

(出題者)
そうです。
 
佐野
そうすると「主観」とは直接経験を外から一定の立場から、その前提のもとに判断するという意味ですね。そこに主観が入ると。

A

(出題者)
そうです。
 
佐野
客観性を与えるのが「内から見る」ないし「直観」で、主観的であるのが「外から見る」ないし「反省」と言っていいですか。

A

(出題者)
はい。
 
佐野
ならば今回の哲学的問いは「反省を離れた直観は可能か」という問いに書き直すことができますが、それでいいですか。

A

(出題者)
はい。
 
佐野
それでは皆さん、問が仕上がりましたので言葉が出てきた人は御発言をよろしくお願いいたします。
 
(しばらく沈黙)
 

B

いいですか。反省のないのが純粋経験で、それには真我が関係しています。考える余地もないほどにスムーズで、身体は知っている、宇宙と一体の状態です。人間はそれを求めなければなりません。そのためにはエゴを滅却しなければなりません。
 

C

それは「我をなくす」ということですか?

B

はい。近代以降人間は分節化を進めてきました。そうせざるを得ない面もありますが、そういう方向は転じなければならないと思います。

C

でも、「我をなくす」ことは人間にはできないと思います。
 
佐野
何か、本を取り出していますね。それは何ですか?

C

これ図書館で借りて来たんです。もう返さないといけないんですが、綱島梁川です。西田も感銘を受けたという。私は純粋経験を信じています。信仰に近いと思います。我の苦しみを救うための虚構かもしれません。この本には「悲哀」ということが書いてあって、無にはなれないことを悟った、神と自分との距離を知ることが悲哀で、神は悲哀の姿で来る、とあるんです。

D

やはり窮するということがあるのでは?

E

純粋経験は主客未分で、しかもすべては純粋経験と言えるものです。反省と直観は離れることはないと思います。同じものの両側面です。
 
佐野
確かに西田もそう言っているが、それをどのような立場で言っているかが問題だと思うよ。
 

D

純粋経験を物ではなく、性質と考えるとよいと思います。窮するときに出て来る性質と。
 
佐野
実体化しないということですね。それで性質と考えると。ですが性質と呼んだ途端そこに何らかの実体化が起こっていませんか?

C

直観したから「有る」と言えると思うんですが…
 
佐野
そこなんですね。「有る」と言ったとたんもう直観していない。判断している。確実性から離れるんです。テレビに夢中になっているときはテレビを見ているということは意識されませんが、我に返ると「私はテレビを見ていた」となる。ですがその時はもうテレビを見てはいません。それと同じです。ですが「私はテレビを見ていた」と思い出すことができるためには、夢中でテレビを見ていた時にテレビを見ていることに気付いていなければなりません。気を失っていたわけではありませんから。ここには大きな矛盾があります。

C

直観と反省を考えることは神と自分のことを考えることですね。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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