〈物自体〉vs.「物体」

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はYさんでした。キーワードは「物体」(253,3)、「物」(同8)、「物質」(同10)でした。また疑問ないし考えたことは「西田はカントの〈物自体〉に反対し、「物体」とは、感官(感覚器官)のうち「触覚筋覚」(同4)によって感受された性質を基礎とし、更に他の感官による性質を積み重ねたものであるとしている。そして「物体」の基体である性質を一般化するとき、「最も一般的なる感覚的性質」(同10)となり、「物質」が知覚的対象として成立する。ところで「物」(個物)について、「判断は自己の中に自己を超越する」(同8)とはどういうことを意味するのだろうか」(209字)でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
文章の解釈が問題になっています。まず意味を一つ一つ確定していきましょう。「判断は自己の中に自己を超越する」とありますが、この「自己」は判断ですね。「私」という意味ではない。つまり「判断は判断の中に判断を超越する」という意味です。その前に「かかる意味に於ては」とありますね。「かかる意味」とは何でしょう。その一つ前の文章を読んでみないと分かりませんね。「超越的なる物という考は、却って内在的性質を限定して之に他の性質を盛ろうとするより起るのである」、とまずあります。「超越なる物」というとすぐにカントの物自体のようなものを思い浮かべるのですが、西田はそう考えない。「却って」という言葉がそのことを示しています。ではどう考えるかというと、「内在的性質」、これは感覚ないし知覚に内在している性質、つまり視覚聴覚味覚嗅覚触覚のことです。それを「触覚筋覚」に「限定」する。これに他の性質、つまり視覚聴覚味覚嗅覚を「盛る」。この文章と次の文章は読点(、)で区切られていますね。一続きです。「限定せられた場所の中に、場所以外のものを入れようとするより起るのである」。これは先ほどの一文の言い換えですね。「超越的なる物」は「却って」、「限定せられた場所」、これは「触覚筋覚」のことです。これに「場所以外のもの」つまり触覚を除いた視覚聴覚味覚嗅覚を「入れる」。この文章を受けて「かかる意味」と、こうなるわけです。「かかる意味に於ては、物を考える場合でも」と来る。物を考えるとは「判断」する、主語述語関係にするということです。その場合でも「判断は自己の中に自己を超越するということができる」、こう述べているわけですが、これをどう考えるか。皆さん、どのように考えますか?

Y

何度読んでも皆目分かりません。

A

内在が超越、超越が内在というダイナミックな論理が言われているのでは?
佐野
そうですか?前の文章ではカントの物自体を念頭に置いて「超越的なる物」に超越という語が用いられていましたね。ここでも「超越」という語が用いられていますが、これはカントの物自体とは違った意味での超越でなければなりませんね。どう違いますか?そもそも「自己の中に自己を超越」するとはどういうことですか?私はこう思うんですけれど・・・。「判断」の中での超越とは、視覚聴覚等々の内在的性質から、触覚筋覚を主語として立てること、これが判断の中での超越です。これに対し、カントの物自体は判断を越えて、知り得ないものになっています。判断の外への超越です。どうでしょうか?

A

その解釈は分析的な感じがして、あまり西田的でないと感じます。

B

私はかっこいいと思います。
佐野
プロトコルはこのくらいにして、今日は253頁12行目から254頁6行目まで講読したいと思います。まず「知覚」が「限定せられた有の場所」ないし「限定せられた性質の一般概念」とされていること、これを押さえておきましょう。これが知覚の世界です。これに対立しているのが「力の世界」です。そうしてこれに「相異」「相反」「矛盾」が重ね合わされる。「相異」と「相反」が「知覚」、「矛盾」が「力の世界」です。そうして前者と後者の間に西田は「転回点」を見ていて、これが「最も考うべきである」、と言っている。以上は図式的な整理です。ところで「相異・相反・矛盾」と聞いて何か思い出す人はいませんか?

C

論文「働くもの」の中に出ていました。191頁11行目からです。
佐野
読んでみてください。

C

(テキスト音読)
佐野
ありがとうございます。例えば「塩は白く辛い」という場合の「白」と「辛」は「相異」ですね。その場合白と辛は同時に「物」を背後に考えることによって成り立つ。これに対し緑と緑ならざるもの、これは「相反」ですが、これは背後に物を入れても同時には成り立たないですね。「時の考」を入れないといけない。そうすると木の葉が緑から緑ならざるもの(赤)というように説明できます。ところが矛盾の場合はこうした「背後の物」を置くこともできない。物自身の消滅がそのまま生成、否定がそのまま肯定、死することがそのまま生きることであるような、そんな関係です。「相異・相反」の場合には背後に物がある。これに反し「矛盾」の場合は「物」がない。そこに「力の世界」が見られるというのです。

D

次の「矛盾的統一の対象界」というのがよく分かりません。
佐野
次の文章では「数学的真理」に置き換えられていますが、これも192頁に出てきますね。数理は矛盾的限定によって組織せられており、そこに「矛盾の統一」を見ることができる、そのように述べられています。この矛盾とは〈一般=特殊〉のことです。5は数である、三角形は図形である、などがそれです。一般者が特殊化の原理を具えること、西田はここに矛盾を見て、これが「直覚」によって見える、というのです。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第43回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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