意識せられたもの、意識するもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 268頁3行目「有の場所が」から268頁8行目「私の所謂真の無の場所である」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーセンテンスは「最初の単なる有はすべてを含む場所でなければならぬ」(269,5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「最初の単なる有」とは西田にとっては最も大切な充実した「有」つまり純粋経験であったと思います。ヘーゲルの「絶対者」もそれに近い物だと私は理解しました。決定的に違うと西田が主張するのは「それが於てある場所」を考えたかどうか。私が分からないのは、確信の純粋経験から明白の純粋経験に至るために「場所に於てある」ということがどうして必要であったか。「場所に於てある」ということがどのような事態であるのかということです」(204字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
問いの核心部分だけを問題にしましょう。そうするとヘーゲルは「於てある場所」を問題にしなかったが、どうして西田はそれが必要であると考えたのか、また「場所に於てある」とはどのような事態であるのか、ということになりますね。たしかに西田の言うように、ヘーゲルは「於てある場所」と取り立てて問題にしているとは思えません。しかしヘーゲルの絶対者は主体(主観)でも実体(客観)でもなければ、主体でも実体でもあるというようなもので(「真なるものを、実体として把握し表現するのでなく、同様に主体(主観)として把握し表現すること」das Wahre nicht als Substanz, sondern ebensosehr als Subjekt aufzufassen und auszudrücken(『精神の現象学』「序文」第17段落の奇妙な句はそのように解釈すべきだと思います)、その意味では、西田が解釈するように、ヘーゲルの絶対者は主語の側に立つ実体とは言えません。それは主語でもなく、述語でもなく、主語でもあれば、述語でもない、そうしたものだと考えられます。西田は主語と述語を分けたうえで、こうしたヘーゲルの絶対者を主語(実体)の側に押しやり、自分は述語の側を押し詰めて「真の無の場所」を考えた、とも考えられます。こうしたやり方は不当なのか?それともこうしたことを踏まえた上でも述語の側に「於てある場所」を考えることは必要なのか?またそれはどのような事態なのか?そのようにMさんの問いを捉えてみたいと思います。このプロトコルは本日の講読箇所に深くかかわっていますので、まずその箇所を読んで見ましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(269頁8行目~12行目)
佐野
指示語が多いので確認しておきましょう。「前者」と「後者」はそれぞれ何ですか?

A

「前者」は「自己同一なるもの」あるいは「自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むもの」で、「後者」は「私の所謂真の無の場所」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると先程申し上げたことがはっきりしましたね。「或は前者の如きものに到達した上、更に於てある場所という如きものを考える要はないと云う」のはヘーゲルですね。たしかにヘーゲルは絶対者の於いてある場所というものを特に取り立てて問題にしませんでした。しかし西田はヘーゲルの絶対者は「判断の主語の方向に押し詰めたもの」で、自分の「真の無の場所」は「その述語の方向に押し詰めたもの」だとしています。その上で「内在的ということが述語的ということ」で、「主語となって述語とならない基体も、それが内在的なる限り知り得るとするならば」「後者」、つまり「真の無の場所」から出立せねばならぬ」と述べ、「後者が最も深いもの、もっとも根本的なるものと云い得るであろう」と結論付けています。

B

「内在的」とは何に内在的なのですか?人間に内在的ということですか?
佐野
「人間」とすると、人間が対象化され、主語に立ちますね。2行目に「判断の主語を外に見る」とありますが、主語に立ったものは外になります。そうすると何に内在的か、と言う問いに対しては、決して対象化されないもの(そう言えばまたしても対象化されますが、その点は措き)に内在的だ、ということになり、それが「真の無の場所」ということになりますね。

B

「内在的」ということが「述語的」だったら、「内在的なる限り」、つまり述語となる限り知り得る、となりますね。これはどういうことですか?
佐野
述語化する、ということが知るということ、例えば、これはバラである。このバラは赤い、というように述語化することで、主語を知ることができる、そのように考えることができるのではないでしょうか。そうすると、「知る」ということが主語を述語化するということだから、述語の方から「出発しなければならない」と言っていることになりますね。

B

主語をすべて述語化したら、主語も述語もなくなると思います。主語と述語の両方があるか、両方ともなくなるかのいずれかだと思います。
佐野
それは西田批判ですね。ヘーゲルに一票ということでしょうか?

B

そこまでは考えていませんでしたが。

C

私はそういうことだと思いました。述語の方面に「最も深いもの、もっとも根本的なもの」として「真の無の場所」があるとするのはどうかと。

D

我々日本人の空気からすると、述語だけの世界が根本だと思います。西洋は神という実体が根本で、ヘーゲルの絶対者も同様です。しかし根柢からすれば、「絶対無」こそが真の実在です。
佐野
それは日本の風土が根拠になっていませんか?

D

いえ。もともと「絶対無」が根柢であり、これから(の時代において)もそれが明らかになるのだと思います。このことは風土が根拠というのではなく、論理的な必然です。

C

「絶対無」ないし「真の無」の場所というのは知り得るのですか?

D

ええ。知り得ます。それは実感できるものです。そうしてそれを知的に構成することもできる。

C

私は知り得ないと思います。

D

「真の無の場所」がなければ生きることも、考えることもできない、そういう意味で「真の無の場所」は不可欠なものだと思います。ミカンの皮のようにそれを包むものです。それがなければ存在し得ません。しかもそれは究極的には無なのですが、東洋の人間には、言葉で言い表せなくても体で分かっているものだと思います。柔能く剛を制す、のような有とは別の原理です。これは西洋から言えば不可能という外ない。
佐野
それがなければならない、ということと、それが直観されているということとは別のように思われますが、Eさんはどうお考えですか?

E

私は西田が、述語の結果として主語が出てくる、と言おうとしているように感じられます。
佐野
たしかに、我々の常識の世界は有の場所の上に成り立っていて、その世界に出会われるものは有の場所の結果、つまり我々が前提としている世界のうちですでに理解されているとも言えますね。その場合、我々は対象的に理解することはできないにしても我々の常識がそのうちに成り立っている「有の場所」をすでに直観しつつ、それを前提して生活しているとも言えますね。ただそのことはその場所(ないし一般概念)の外に出て見ないと理解することはできません。ところで同様のことは「真の無の場所」についてはどうでしょうか?我々はどんな場合でも、ということはつまり日常的な生活の一々において、実は気がつかないだけですでに「真の無の場所」を直観している、と言えるのですか?

E

「真の無の場所」が直観の場であることは認めますが、場所自体は直観するものではない気がします。

F

「真の無の場所」は「矛盾の場所」だったと思います。これは我々が矛盾を感じる時に顕わになるものでしょうか?それとも我々が矛盾を感じていない、合理的だと思っているところに隠れている矛盾だということでしょうか?

G

後者だと思います。この花は赤い、ということの中にも実は言い尽くせない、という仕方で矛盾を含んでいると思います
佐野
そうした矛盾が、したがって「真の無の場所」が、我々はそうしたものを日常生活の一々において、取り立てて意識はしないけれど、実は根柢において開かれている、とお考えですか?それともそうしたものは我々に隠れているとお考えですか?

G

開かれていると思います。だから我々は日常的にも生活できますし、判断もできるのだと思います。
佐野
しかし、他面ではどこまでも隠れている、とも考えられますね。そうした立場からすると、「真の無の場所」が何故「最も深いもの、もっとも根本的なもの」として真実在となり得るのかが問題になりそうですね。そうした「場所」がなければならない、そのことは理解できるとしても、それが真実に「ある」、とは言えないと思うからです。プロトコルはこれくらいにして、講読に移りましょう。それではBさん、お願いします。

B

読む(269頁12行目~270頁8行目)
佐野
「判断の立場から意識を考えるならば、述語の方向に求めるの外はない」とありますね。この意識は「意識する」意識です。これが「包摂的一般者の方向」つまり「述語の極致」に求められなければならない、というのです。これはちょうど図に対する地のように決して対象化されないもので、これまでも意識現象に対する「意識の野」と呼ばれてきたものです。「我々は一切の対象を映すものを述語の極致に求めねばならぬ」、こうした「単に映す意識の鏡、私の無の場所というものも論理的意義を有するものでなければならぬ」と言われます。西田はこうした立場に相当自信を持っていたようで、「従来の哲学は意識の立場について十分に考えられてない」と言い切ります。次の論文「左右田博士に答う」の初めに、「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった高考に到達し得たかと思う」(290,3-4)と述べていますが、この「場所」の「終」とはこの辺りからを念頭に置いているのかもしれません。(因みに、「論理的意義」について言えば、西田は『善の研究』「版を新にするに当って」で「「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う」と述べ、また『働くものから見るものへ』の「序」でも「「場所」に於ては超越的述語という如きものを意識面と考えることによって、多少ともかかる論理的基礎附の端緒を開き得たかと思う」、とも述べています。この「論理化」「論理的基礎附」がどういう意味なのか、それらは今講読している箇所の「論理的意義」と関わっているのか、は大変興味深いところです。さらにこうした「論理化」ははたして十分になされているのか、はもっと興味深いと思います。仮にこの「論理化」が今講読している箇所の「論理的意義」に関わっているとするならば、少なくとも私には「私の所謂真の無の場所」が主語述語に分けた上で述語の方向へ徹底した方向に求められたというのは、「論理的に」大変気になるところです。主述の区別は「意識せられたもの」と「意識するもの」、つまり客観主観の区別、対象と自己の区別に重なりますから、そうした各区別の後者を根本としてとるということは、きわめて自己(真の自己)に強いアクセントが置かれることになります。必然的に、主語、客観、他者の契機が抜け落ちていくことになります。場所の論理の成立に関わるこうした根本問題については、さらに皆さんと考えていきたいと思います。)

F

アリストテレスに関する叙述の所で、「純粋作用」「純粋なる形相」というのが出てきますが、それがよく分かりません。
佐野
見て見ましょう。「アリストテレスは変ずるものはその根柢に一般的なるものがなければならぬと云ったが、かかる一般的なるものが、限定せられた有限の場所である限り変ずるものが見られ」とあります。「変ずるもの」の「根柢」にあるものは「質料」だと考えられます。それが「限定せられた有限の場所」だと。この「変ずるもの」の変化(運動)は「キーネーシス」ですね。ついで「それが極微である限り純粋作用というものが見られる」とありますね。「それ」とは「限定せられた有限の場所」つまり「質料」のことだと考えられます。それが「極微」になる。そうするとそこに「純粋作用」が見られるとありますから、この「純粋作用」は「純粋活動態(エネルゲイア)」のことであると解釈できます。アリストテレスの『自然学』が対象とする月下の世界では、すべての実体が形相と質料とから成り、すべての実体は質料から形相へ、可能態から現実態へと向かう運動(キーネーシス)の内にあります。しかし完全なる純粋な現実態に至ることはありません。それ故純粋な現実態は『自然学(physica)』を超えた『形而上学(metaphysica)』で扱われます。それが「不動の動者」としての「神」です。それは純粋な現実活動態であり、形相の形相として純粋形相です。それは美しい人が恋する人を惹きつけるように、それ自身は不動でありながら、すべてのものを動かす(不動の動者)。またそれは純粋な知の対象として、知性の活動とその対象とが一致しています(思惟の思惟)。しかし西田はこうした「純粋作用」においてすら「極微」に質料を残していると考えていることになります。したがってそれはさらに徹底して「唯全然無となった時、単に映す意識の鏡というものが、見られねばならぬ」とされます。この「鏡」は「単に映す意識の鏡」とありますが、それは「単に(外を)映す鏡」(231,8)ではなく、「自ら照らす鏡」(260,1)のことです。こうした「一層深き無の鏡」からすれば、「純なる作用」(エネルゲイア)の根柢をなす、「希臘人」(アリストテレス)の「所謂純粋なる形相」(神)も「遊離されたる抽象的一般概念」に過ぎない、ということになる、そのように解釈されるでしょう。今日はここまでとします。
(第59回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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