知覚的なものと思惟的なもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第3段落、284頁8行目「此故に意志はいつも自己の中に」から285頁5行目「此の如き述語面でなければならない」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「而してその極、主語と述語との対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる」(284,10-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「キーセンテンスには主語がありませんが、直前に「意志が」とありますので「而してその〔述語方向の彼方の〕極、主語と述語との対立をも超越して真の無の場所〔=極〕に〔意志が〕到る時、それが〔意志が真の無の場所において〕自己自身を見る直観となる」と〔〕部分を補い、文中の「それ」=真の無の場所における意志=自己自身を見る直観、と考えました。この「自己」とは何でしょうか。「自己」=「自己自身を見る直観」という無限仕掛けがある気がします」(212字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
厳密に読まれましたね。少し前から読んで見ましょうか。「此故に意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱くと云うことができる」(285,8-9)とあります。主語は「意志」ですね。意志は例えば、〈このペン〉を見る(知る)とか、それでこの文章を書くといった〈個々の目的(善)〉を抱いていますね。この場合〈このペン〉とか〈個々の目的(善)〉が「知的自己同一」で、これが「主語」になっています。そうしてこの「主語の方向に於て無限に達することのできない本体が見られる如く」(同9)とあります。この本体が〈このペン〉自体とか〈ペン〉のイデア、あるいは〈善〉のイデアだと考えられます。「意志」がはるかかなたに自分の目的を見ている場合ですね。これに対し反対方向の「述語の方向に於て無限に達することのできない意志が見られるのである」(同9-10)とあります。これは「意志」が自らの根柢を見ている場合ですね。その根柢はどこまでも達することができない、どこまでも分からない、と。こうして意志は主語と述語の方向において無限に引き裂かれることになります。そうしてキーセンテンスの「而してその極」と来るのですが、Tさんは「その極」とは、述語方向の彼方の極の方だとお考えになる。

T

そうです。「その極、主語と述語との対立をも超越して」(同10)とありますが、次の行で「斯く述語をも超越する」(同11)とありますから、そう判断しました。
佐野
なるほど。(後で考えたのですが、「述語「をも」」とありますから、「その極」はやはり主述の無限の対立の「極」と考えた方がよいかもしれません。)テキストでは「その極」で「主語と述語との対立をも(ここも「をも」となっていますね。主語をも超越し、述語をも超越し、さらに主述の対立をも超越する、と読めると思います。)超越して真の無の場所に到る時」(同10-11)とありますが、この「到る」のは「意志」だと。

T

そうです。
佐野
なるほど。文の流れからすると、至極妥当だと思います。そうなると「それが自己自身を見る直観となる」(同11)の「それ」は「意志」だということになりますが。

T

「意志」ですが「真の無の場所における」という限定付きです。今までの意志のままではありません。
佐野
なるほど。ここまではよく分かるのですが、そうした「意志」が「自己自身を見る直観」となる時に、「この「自己」とは何でしょうか」ということが問題になるのがまずよく分かりません。意志が自己自身を見るわけですから、自己は意志自身でいいのでは?

T

そうなんですが、真の無の場所における意志は、これまでの意志と違っていて、「自己自身を見る直観」になっているんだと思います。
佐野
なるほど。それはよく分かります。そうだとして「「自己」=「自己自身を見る直観」という無限仕掛け」というのはどういうことですか?

T

それまでの意志は、主語の方向でも、述語の方向でも無限に到達できないものを持っていたと思います。ところが真の無の場所における意志は「自己自身を見る直観」になっています。しかしこの二つのことは別のことを言っているのではないと思います。これまでの意志の側から言えば、主語の方向でも述語の方向でも、無限に自己自身を見るということが続いていると思います。ちょうど英国にいて完全なる英国の地図を描く時と同じような無限進行です。
佐野
それが「無限仕掛け」だと。

T

そうです。ですがそれはこれまでの意志のレベルでの在り方です。そうした立場が真の無の場所における意志に高まることによって、「自己自身を見る直観」になる、見る自分と見られる自分が同一であるような直観が成り立っている。
佐野
なるほど。よく分かりました。ここには意志から直観への飛躍的な超入がありますね。これは私の解釈では『善の研究』における第3編から第4編への移行、つまり「宗教的覚悟」と同じ事態を言っているのだと思います。他に何かご質問はありませんか?

R

「自己自身を見る直観」では主語と述語の区別はなくなってしまうのでしょうか?

T

そうなると思います。見る自分が同時に見られる自分です。

K

テキストではその後、ヘーゲル批判があってヘーゲルの弁証法的な転化の「背後」に「肯定否定を超越した無の場所、独立した述語面」がなければならないとされ、「無限なる弁証法的発展を照らすもの」が「述語面」だとされています。主語面と述語面の区別はやはりあるのでないでしょうか?
佐野
難しいですね。ちょっと先になるのですが、これに関連した叙述がありますので見て置きしょう。「併し述語面が自己を主語面に於て見るということは述語面自身が真の無の場所となることであり、意志が意志自身を滅することであり、すべて之に於てあるものが直観となることである。述語面が無限大となると共に場所自身が真の無となり、之に於てあるものは単に自己自身を直観するものとなる」(258,12-15)。

M

たしかに重要な箇所ですね。
佐野
ええ。まず注意すべき点は直観において「意志が意志自身を滅する」ということが起っている、ということです。この点は、先程のTさんも、意志を「真の無の場所における意志」とそれ以前の意志を明確に区別していましたね。滅せられる意志は「それ以前の意志」だということになります。以前の区別では「作用としての意志」と「状態としての意志」というのがありましたが、滅せられる意志は「作用としての意志」で、「真の無の場所における意志」は「状態としての意志」だということになるでしょう。ここは大丈夫でしょうか?

K

はい。よく分かります。
佐野
もう一つ注意すべき点は、述語面が真の無になることで、この真の無の場所に於てあるものが、「単に自己自身を直観するもの」となるとされていることです。自己を無にして見ることで、見る自己と見られる自己が同一になる、ということです。こういう在り方において、主述の区別はあるといえるのか、それともないというべきか、難しいところですね。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(285頁6行目~11行目)
佐野
「包摂的関係を何處までも述語の方向に押し進めて、その極限に於て意識面に到達する、主語面を越えて之を包むものが意識面である」とありますが、この「意識面」が「真の無の場所」であると即断しない方がよいでしょう。「一般概念」の可能性があります。ここでは両方を含意した意味で理解しておきましょう。

A

ここはまず主語の方から考え、意識面(述語面)に到達し、次にそれを意識面(述語面)の方から、主語面を包む、というように述べられていると考えてよいでしょうか?
佐野
たしかにそうなっていますね。続く叙述もそうした対比を念頭に置いていますね。まず「感覚的なもの」からその「背後」に「一般的なるもの」「述語的なるもの」がなければならないとされ、次いで「かかる述語的なるものが主語となる時、広い意味において働くものが考えられる」と、述語の方から考えられていますね。ところでこの「感覚的なるもの」の「背後」の「一般的なるもの」とはなんでしょう?例えば〈この木の葉は赤い〉の〈赤い〉は感覚的なるものですね。その背後にある「一般的なるもの」とは?

M

色一般です。
佐野
そうですね。しかし西田はこれまでもこうした「一般的なるもの」として〈色一般〉とともに〈物〉を考えていたと思います。この場合でしたら〈この木の葉〉がそれです。それが一般として、その内に〈この木の葉の赤〉を包むと考えるのです。少し先になりますが、「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する。主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものであろう」(287,15-288,3)という表現があります。この木の葉が緑から赤(緑ならざるもの)に変わる場合、そうした変化のもとには「個体」としては〈この木の葉〉があり、それは「最後の種」としては〈この木の葉の色〉だというように考えることができます。目下の講読箇所に戻ると、「感覚的なるもの」の「背後」の「一般的なるもの」は、今の例で言うと〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉ということになります。ここまでで分からないところはありますか。

A

大丈夫です。
佐野
次いで「かかる述語的なるものが主語になる時」とあります。例の三角錐で言えば、中ほどの一般概念の断面がみずからを無にしながら、つまり主語面の内に吸収されながら、頂点の主語面まで上がっていく時、その時「広い意味において働くものが考えられる」と言われます。主語面において〈この木の葉の赤〉を見ているだけでは「働くもの」は考えられませんね。しかしそこのところに〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉が吸収されると、緑から赤へと働くものが考えられる、ということです。ここまではどうでしょうか?

A

まだよく分からないところがあります。
佐野
少し先にある叙述を見て置きましょう。「変化するものを意識するには、相反するものを含む一般概念が与えられて居なければならない。かかる場合、一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ。唯、対象面が意識面に附着した時、即ち一般的なるものが直に特殊なるものの場所となった時、働くものが見られるのである」(287,7-11)とあります。

A

これで分かるようになりました。
佐野
では次を見て見ましょう。「而してかかる意味に於て働くものは我々の意識に最も直接なるものと云い得るのである」とありますね。これは「働くもの」が、「意識面」(「述語面」)が主語面になることによって成立しているからです。「此故に一般概念の限定なくして働くものを考えることはできない」とされます。〈この木の葉が赤くなった〉というのは〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉という一般概念が自らを限定したということです。そうして「我々は判断の方向を逆にすることによって働くものを考え得るのである」と言われます。この「判断の方向」とは?

A

主語から述語の方向です。
佐野
〈この赤〉から〈この木の葉の色〉へと行くことですね。〈物の判断〉では〈この木の葉の色〉が主語になりますが、包摂的判断としては〈この赤〉が主語になります。ですから「判断の方向を逆にする」とは、〈この木の葉の色〉から〈この赤〉へと行くことです。これによって「働くもの」を考えることができるのだと。次に行きましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(285頁11行目~286頁2行目)
佐野
「我々の経験内容が種々に分類せられ、概念的に統一せられるに従って、種々なる作用が区別せられる」とあります。私たちは無限に多くの変化を経験します。そうした内容が様々に分類されます。この分類は「概念的な統一」によってなされます。〈この木の葉の色〉の変化は〈木の葉一般の色〉へと概念的に統一されると共に、他の変化から区別されます。「而して種々なる一般概念が更にその上にも一般概念的に統一せられるに従って、作用の統一というものが考えられる」、例えば〈木の葉の色〉が〈落葉〉と結びつけられて、〈落葉樹〉の生命の作用というもののもとで統一的に考えられます。「かかる一般概念的統一の方向を何處までも推し進めて行けば、遂にすべての経験内容の統一的一般概念に到達するであろう」、例えば生命の作用が、化学的な作用、さらには物理学的な作用に還元される、というようなことが考えられます。そこで「此の如きものが物理的性質でなければならぬ」と言われます。

T

この「物理的性質」に還元されることによって、赤は波長になるということですか?
佐野
そうはならないと思います。西田が考えている「物理的性質」はあくまで「感覚的なもの」です。『善の研究』にも、「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」(岩波文庫改版10頁)とありました。ここでも同じ見方が取られていると思います。ですからここでも「物理的性質」は「共通感覚の内容とも云うべきものであろう」と言われているのだと思います。

B

共通感覚って何ですか?
佐野
以前にも出て来ましたが、アリストテレスの『魂について(デ・アニマ)』に出て来るものです。視覚や聴覚などの個別の感覚を超えた感覚です。私たちは赤という時、それは青から区別して感じていますが、同時に辛いからも区別していますね。ということは個別感覚を超えた感覚の領域というものがそこになければならない。これが「共通感覚」です。進化論的にいえば、視覚や聴覚などの個別感覚に分れる以前の感覚です。

T

それはゾウリムシの感覚やな。
佐野
そうかもしれませんね。テキストではついで「フッサールの知覚的直覚というのは此の如き意味に於て一般概念によって限定せられたる直観に過ぎない」とあります。志向対象を充実するとされる直観も「知覚」という「一般概念」によって限定されたものにすぎない、ということです。それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(286頁2行目~5行目)
佐野
これまでは「感覚的なもの」ないし「知覚」という「一般概念」の範囲での話でしたが、今度は「思惟の場所」に入ることになります。「更にかかる限定を越えて述語的方向を押し進めれば、知覚的なるものを越えて思惟の場所に入る」とあります。「思惟」の対象は感覚されるものではありません。数学的なものや論理的なもの、時空、カテゴリーなどが考えられます。三角形が感覚を超えた概念でありながら、感覚的なものを離れないのと同様に、西田はここで「此場合に於ても意識は知覚的なるものを離れるのではない、知覚的なるものは直観的なるものとして之に於てあるのである」という注意を与えています。そうして「唯その剰余面に於て単なる思惟の対象という如きものが見られるのである」としています。具体的な経験においては知覚的なもののうちに思惟的なものが吸収され、それが対象(主語)となるのですが、この剰余面に注目することで、思惟の対象というものが考えられるというのです。ですがその場合でも、三角形を純粋に考える場合でも具体的な三角形を思い浮かべなければ考えることができないというように、その対象はやはり知覚的なものから離れないだろう、というのが西田の考えだと思われます。次をDさん、お願いします。

D

読む(286頁5行目~7行目)
佐野
我々の経験は感覚ないし知覚的なものと思惟的なものによって構成され、判断もそれによって成立しますが、こうした判断がまさに私の判断であることが自覚されると、「自覚的意識」となります。テキストでは「所謂自覚的意識とは、此の如く知覚的なるものも、思惟的なるものも直接に之に於てある場所である」と述べられています。「自覚的意識」とは〈私は考える(ich denke)〉 ということです。経験ないし判断内容が図であるとすれば、この「自覚的意識」は地に当たります。両者は対立した関係にあります。テキストでは「自覚的意識面とは恰も対立的無の場所に当たるであろう、我々が普通に意識面と考えて居るものは是である」と述べられています。客観(対象)と主観(所謂意識)ないし有と無が対立している在り方です。それ故この所謂意識は「対立的無の場所」と言われていました。ここまでで円錐形に、知覚面を頂点とすれば、二つの断面(思惟面、自覚的意識面)ができていますね。次をEさん、お願いします。

E

読む(286頁7行目~11行目)
佐野
「併し我々は尚一層深く広く、有も無も之に於てある真の無の場所というものを考えることができる」と、最後の場所が登場しました。「有」とは図、「無」とは地のことですね。続いて「真の直観」が出て来ましたね。これは先程の「自己自身を見る直観」と同じものでしょう。その「真の直観は所謂意識の場所(対立的無の場所)を破って直にかかる場所に於てあるのである」とされています。この「破って」のところに転換、ないし飛躍がありますが、この転換は最後の「真の無の場所」が開けるものとして、先程の意志から直観への飛躍的転入、つまり『善の研究』で「宗教的覚悟」と言われたものを必要とするでしょう。ここまではいかがですか?

E

大丈夫です。
佐野
そうして次に「対立的無の場所は限定せられた場所として、尚主語的意味を脱することができないから、すべて超越的なるものを内に包摂することはできぬ、真に直観的なるものはかかる場所をも越えたものでなければならぬ」とあります。

E

「対立的無の場所」が「限定せられた場所」だというのはどうしてですか?
佐野
有つまり客観(対象)と対立しているからだと思います。有でない、という限定を伴っているということです。

E

分かりました。
佐野
「主語的意味を脱することができない」とは、外に主語を必要とする、ということでしょう。そのように外に有るものは「超越的なるもの」ということになります。こうしたものを内に包摂して、そこに「真の直観」が成り立つためには、「対立的無の場所」を越えて「真の無の場所」に至らなければならない、ということです。次をFさん、お願いします。

F

読む(286頁11行目~14行目)
佐野
ここで「感覚的なるもの」に話が戻りますが、今度はそれが於てある場所は「一般概念」ではなく「真の無の場所」です。「所謂意識面を破って」つまり主客の対立を破って「真の無の場所」に於てあるものは、「真に直観的なるもの」(自己自身を見る直観)であり、「芸術的対象」であるとされます。同じ「感覚的なもの」でも於てある場所が異なると、別の意味合いをもって来ることになります。感覚的なるものを〈理解する〉ためには「一般概念」によらなければなりませんが、芸術はそうした〈理解〉を破って立ち現れてくるもので、無限の深みをもったものが直接に立ち現れる、という形を取ります。「芸術的対象」は「無対立的対象」つまり判断以前の主語ですが、そこには「場所が無になる」ことに伴って、無限なる分別的内容、「対立的対象」がすべて吸収されており、こうした対象は無限の意味を以て充たされている、ということになります。しかもこの「芸術的対象」とは述語面(意識面)が自己を無にすることによって成立する、言い換えれば自己を無にして対象そのものに成り切ることによって成立するものであり、そのうちで対象が無限の意味を持った対象自身を直観するというような事態です。芸術に触れるというのはこうしたことだということでしょうね。今日はここまでにしましょう。
(第71回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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