真の自己同一――述語面自身が主語面になる

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第3段落、282頁2行目「判断は自己同一なるものに至ってその極限に達する」から282頁14行目「判断的意識の面からその背後に於ける意思面に於ける自己同一なるものを見た時、それは個体となるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードは「述語面に於ける自己同一が即ち我々の意志我の自己同一である(282,11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「未知の個物に対する意志(好奇心、探求心)はどのように生じるのか。対象が未知の物であるとき述語面は乏しく意志が起こりにくいように思えるが、未知の物に対する好奇心、探求心は自己同一でどのように説明できるか。また既知であっても対象が山、海、風、雲、空のような場合、それほど豊富な述語面を持っているとは思えないがどうか。にもかかわらず、わたしたちは易々と輪郭線を越えてはいないか。述語面は「主語面を越えて深く広くな」(281.15)るとされるが、それは対象に応じて違ってくるのか、対象が何であっても深く広くなるのか。テキストは後者のように思えるが、深まり広がる述語面のありさまをもうすこし議論してみたい」(292字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
前回、『善の研究』52頁(岩波文庫改版)の叙述をもとに目下のテキストの箇所を考察しましたが、それに対する疑問ですね。ここに一本のペンがある、ということをまずは知識として捉える。ついで「ペンは文字を書くものだ」という連想が起り、この意識が独立的となる時に、欲求・意志になる、ということでした。そうして真にペンを知るということはそれを意識せずに自在に用いるということで、それには深まりというものがあって、どこまでも自由になり得る、果ては雪舟のようにもなり得る(才能は別として)ことも確認しました。ここで意志は「このペン」という個物を意志していますが、〈未知の物〉の場合、つまり意志が〈好奇心・探究心〉として働いているような場合はどう考えたらよいのか、これが第一の疑問ですね。第二の疑問は〈山、海、風、雲、空〉のような既知のものであっても、「この山」というような個物の輪郭線を〈易々と越えていないか〉という疑問です。後の方の疑問についてSさん、もう少し説明してください。

S

例えば山ですが、麓から山を見ると、まず圧倒されるんです。ですが実際にその山を登るとテクニカルなことだけが前景に出て来るんです。
佐野
なるほど。西田は無心で山に登る、そこで山の呼吸と一体になるというような、行為の中に純粋経験の究極的な統一状態を見ていますが、そうではないと。(後で考えたことですが、「実在」との出会いがどのようなものであるかが、その人の思索を決定的に規定するというように言えるかもしれません。山との出会いを崇高な畏れ多いものとして経験した者は、実在とは容易に近づくことのできないものである、ということが実在を思索をする場合の根本的な気分になるのかもしれません。)

T

第一の疑問についてですが、好奇心は人間の根源的な欲求ではないでしょうか。小さな子供をサークルの中に入れてもすぐに出てしまう。柵を越えることで自分を確認しているようなところがあります。ぶつかっていくことで自他を認識していきます。対象を認識する以前に行動しています。その意味で未知の物に向う好奇心は衝動に近いと思います。つまり、我々は認識以前にすでに未知に開かれていて、認識による線引きは後で行われるということです。こうした好奇心は大人になっても残っていて、例えばここでこうして西田を読むということもそうしたものじゃないでしょうか。向かっていこうとする意志によって顕わになって来るのであって、深まりはこうした好奇心によってもたらされるのだと思います。漫画の『進撃の巨人』もそんな感じでした。

K

私も飛び出したくなりますね。

S

僕も知識や認識より、〈すごみ〉が先だと思うんです。
佐野
なるほど。Wさんはどう思われますか。こうした認識より以前の実在を立てることに違和感はありませんか?

W

すごい振り方ですね。違和感ですか?そうですね。昔子供のころに竹藪の中で〈ケー泥〉という鬼ごっこのような遊びをやっていたことを思い出します。竹藪の中を、来るものを反射的によけながら、転ばないように滑り落ちるんです。その時〈予期〉するというのではなくて、直面したものに身を任せるんです。竹藪を滑り落ちることと一体化して、ただ滑り落ちるんです。そこに不安とかはありません。上手に滑ろうなんて思えば、そうはいかないし、そのことが目的になると思います。もちろんそうすることで、深まりとか広がりとかはあると思いますが。

S

やはり、〈すごみ〉が先だと思います。僕はそれを言葉や認識に帰着させようという感覚はありません。言葉では決して腑には落ちませんから。
佐野
なるほど。(これも後で考えたことですが、そうした好奇心の対象である〈未知の物〉も、圧倒的な経験における〈すごみ〉も、〈ケー泥体験〉といった直観も、言語に表さ(判断し)なければ顕わにならないでしょうし、そこから「知りたい」と思ったり、山を見たい、山に登りたいと思ったり、〈ケー泥〉をもう一度やりたいと思えば、意志するしかありませんし、具体的には「この柵」を越え、「この本」を読み、「この山」に登り、「この〈ケー泥〉」を行う外はない、と西田の立場からは言えるだろうと思います。ここにはどこまでも深まり行くプロセスがあるでしょうが、西田からすれば、その極限=転換点というものがあり、それが「主語と述語の対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる」(284,10-11)のでしょう。そうしておそらく、そこに根源的な開けのようなものがあって、それを知りたい、概念的な言葉で把握したいという哲学的な好奇心・欲求や、圧倒されるような〈すごみ〉の経験や、予期せずに直面するものに身を任せる〈自由〉が関わっているのでしょう。)プロトコルはこれくらいにして、テキストに移りましょう。Aさんお願いします。

A

読む(282頁14行目~283頁7行目)
佐野
「判断的意識」が出て来ましたね。「意志は勝義に於て述語を主語とした判断」ですから、意志が主語である「個体」を目的とする時、そこに勝義の判断が成り立つことになります。それを通常の「判断的意識」の面から見ると、やはり「個体」となるのですが、それは自らの「背後に於ける〈意志面に於ける自己同一なるもの〉」を見る、という形を取ることになります。こうした通常の「判断的意識」(対立的無の場所)においては主客が分かれていますから、「対象と意味とは区別せられる」ことになります。「対象」とは「無対立の対象」、つまり判断以前の主語のことで、「意味」とは判断の主語となる分別的な「対立的対象」のことでしたから、「無対立の対象と対立的対象とも区別せられる」ことになります。ここまでは大丈夫ですか?

A

はい。大丈夫です。
佐野
ここでは、無対立と対立が対立していることに注意したいと思います。判断が分別意識だからこういうことになります。「併し」と来て、「自己同一の極限を越えて単なる述語面に出た時」とあります。「自己同一」とは無対立の対象、直覚的なるもののことですね。判断以前の主語と言ってもいい。その場合、主語面と述語面がピタッと重なって「単なる述語面」となります。その時、「自己同一の主語面を囲繞して居た意味は、述語面に於ける自己同一の中に吸収せられる」(282,10-11)ために「対象と意味」、「無対立の対象と対立的対象」といった「此等の区別は消滅して同等となる」ことになります。こうして出来上がっているのが「個体」です。そうしてこれを「意志我」が主語(対象)とすることになります。〈このミカンを食べる〉という状態です。〈このミカン〉という「個体」には「対象と意味」が一つになっています。ここまで、いかがですか?

A

はい。分かります。
佐野
これに対して「単なる意識我の立場に於ては」、「単なる」とありますから「反省的意識」に限定された「意識我」のことでしょう。そうした「意識我の立場に於ては、直覚的なるものも、思惟的なるものも同位的に意識せられる」とありますね。この「同位的」というのはどういう意味でしょうか?すぐ前に出て来た「同等となる」と同じ意味でしょうか?

A

いいえ。むしろ対等、同格的という意味のような気がします。
佐野
そうですね。次に「作用の意識に於ては、感覚作用も思惟作用も同様に意識せられる」とありますが、これも「同様に〔同位的に〕意識せられる」ということでしょう。そこで「ここに随意的意識の世界が開かれる」ということになるのでしょう。随意としての自由は特に思惟の場合に見られますね。西田も『善の研究』(岩波文庫改版)32頁で「我々が或る問題について考える時、種々の方向があってその取捨が自由である様に思われる」けれども、こういうことは「知覚」の場合にもあって、「例えば一幀の画を見るにしても、形に注意することもできまた色彩に注意することもできる」とされています。

B

ここは「随意的意識の世界が開ける」ということで、意志の世界が開けるということを言っているのではないでしょうか。
佐野
なるほど。そうかもしれませんね。しかし随意的「意識」と言っているのが気になりますし、「随意的意識の世界が開かれると共に意味と対象との直接なる結合も可能となるのである」とあって、この「直接なる結合」とはさしあたり主客同一の「直観」と考えられますから、ここで「意志」を持ち出すのはやはり早いのではないでしょうか。

B

その場合、どのようにして「単なる意識我の立場」から「意味と対象との直接なる結合」である直観が可能となるのですか?
佐野
やはり単なる意識我の立場からの、何らかの転換が必要だと思います。例えば英国にいて、完全なる英国の地図を描く際に、描くべきものがすでに直観されている、というような。読みにくい箇所ですが、とりあえずそのように押さえておきましょう。次を読みます。Cさん、お願いします。

C

読む(283頁4行目~7行目)
佐野
ここは問いの提出ですね。「斯く一旦述語面に於て意味と対象が両ながら直接となった後」とあります。「一旦」とありますので、やはりこれは「直観」のことを言っているのでしょうね。そうして次に「意志」に移行する、ということです。また「両ながら」とあるのは、意味と対象が両者の区別を失わずにピタッと重なった状態を言うのでしょう。以前にも「何處までも両面が重り合っている」(282,9)という表現がありました。さてこうした直観が成立した後、「述語面に於て対立的対象と無対立的対象とは如何なる関係に於て立つか、述語面に於ての統一とは何を意味するか、述語面に移されたる自己同一とは如何なるものであろうか」と立て続きに問いが提出されます。これらはすべて「直観」成立後の「意志」に関することであると考えられます。次を読んで見ましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(283頁7行目~10行目)
佐野
「単に知識的に云えば」とありますから、これに対するものが想定されています。おそらく、〈意志的に云えば〉ということが念頭に置かれているはずです。次を読んで見ます。「単に知識的に云えば、既に主客合一であって、更にそれ以上のものを考えることはできない」。これはいいですね。「併し所謂主客合一とは主語面に於て見られた自己同一であって、更に述語面に於て見られる自己同一というものがなければならぬ」とされます。「主語面に於て見られた自己同一」が知識的な直観です。これに対し「述語面に於て見られる自己同一」とは282頁11行目にあったように、「意志我の統一」です。かくしてピタッと重なっていた主語面と述語面とが両面に即して見られることになります。そうして「主語面に於て見られる自己同一」は「単なる同一」であって、「述語面に於て見られる自己同一」こそが「真の自己同一」であるとされます。次に参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(283頁10行目~284頁2行目)
佐野
いよいよ難しくなってきました。「直観とは一つの場所の面がそれが於てある場所の面に合一すること」とありますが、「一つの場所の面」とは?

E

主語面だと思います。
佐野
「それが於てある場所の面」とは?

E

述語面です。
佐野
そうですね。続いて「斯く二つの面が合一すると云うことは単に主語面と述語面とが合一すると云うことではなく」、つまり知識的な直観に過ぎないのではなく、ということですね。「主語面が深く述語面の底に落ち込んでいくことである、述語面が何處までも自己自身の中に於て主語面を有することである、述語面自身が主語面となることである」とされています。

M

先生、図に書いてください。
佐野
それはMさんにお任せします(乞う、次回ご期待)。「主語面が深く述語面の底に落ち込んで行」きながら、「述語面が何處までも自己自身に於て主語面を有する」、とありますね。そうして述語面が主語面を有する、とは「述語面自身が主語面になること」で、それがまた「述語面が自己自身を無にすること」、「単なる場所となること」だと。これを一体どのように解釈しましょうか。

E

難しいですね。
佐野
「意志は勝義に於て述語を主語とした判断である」(282,1)という表現がすでに見られました。以前この箇所を講読した時には、主語を目的とする、というように解釈しました。そうしてこの主語面を囲繞していた述語面が、述語面における主語面の中に吸収されて個体になっている、そのように解釈しました。そうすると「主語面が深く述語面の底に落ち込む」とは、判断的意識が意志になる、例えばこのペンは書くためのものだ、という知識が意志に転じる、ということを言っているのではなく、叙述はすべて「述語面における自己同一」つまり意志について言われていることになります。つまり、外に立てた目的としての主語面が深く述語面の底に落ち込んでいく、という読みになります。その間にあっても「述語面が何處までも自己自身の中に於て主語面を有すること」になります。外にペンを見ている場合にはこういうことにはなりません。ここでは〈このペンを用いること〉を意志している段階のことを言っているのだと考えられます。ここまでで何か質問はありませんか?

E

とりあえずもう少し聞いてみます。
佐野
では「主語面が深く述語面の底に落ち込んでいく」ということ、あるいは「述語面自身が主語面となる」ということがさらにどういうことになるか、それが次に述べられていると考えられます。それは「述語面が自己自身を無にすること」、「単なる場所となること」だとされています。ということはそれまでにすでに主語面に述語面が吸収されて「個体」となっているとされましたが、そこではなお述語面は無になってはいない、まだ主語と述語の対立が残っている、ということです。つまり目的がいまだ外に立てられている在り方です。まだ自分とペンが一体になっていない。〈このペン〉が真に〈このペン〉になる、そのためには、「特殊が何處までも特殊になって行」き、その極致に達するということがなければなりません。それは同時に「一般が何處までも一般となって行」き、「一般の極致」に達するということがなければなりませんが、それが、「すべての特殊的内容を超越して無なる場所となること」です。いわば自らを無にして〈このペン〉に成り切ってこのペンを用いることです。ここで「無の場所」とありますが、後で「真の無の場所」が出て来ますから、この「無の場所」はなお「一般概念(限定せられた有の場所)」内での「無の場所」であると考えられます。我々がペンを自在に用いるのと、雪舟が自在に筆を用いるのとでは雲泥の差があり、ここから我々は『善の研究』の言葉を用いるならば「更に一層大なる統一」に向わなければならないことになります。ここまではいかがでしょうか。

E

続けてください。
佐野
それではFさん、次をお願いします。

F

読む(284頁2行目~8行目)
佐野
「主語と述語との判断的関係から云えば」とありますが、これは直覚も含めた「単に知識的に云えば」(283,7)と同義でしょう。そうした立場から言えば、之を単に主客合一の直観と云うのである」とありますね。「之」とは?

F

「無の場所となること」を指していると思います。
佐野
そうですね。特殊が真に特殊になり、一般が真に一般、つまり「無の場所」となることですね。「是故に無対立なる対象の意識は意識が意識自身を超越するのではなく、意識が深く意識自身の中に入るのである」とありますが、「無対立なる対象の意識」が「意識が意識自身を超越する」と考えたのは誰だと思いますか?

F

分かりません。
佐野
おそらくラスクのことを念頭に置いていると思います。ラスクにとって無対立なる対象(超対立的対象)は判断(意識)を超越したものと考えられていました。それに対し西田は、それは意識を判断に限定している(「対象的関係のみを見て意識自身の本質を考えない」)からそうなるのだ、と考えます。西田は意識ということで判断や直観、さらには意志をも含めて考えています。ここでは目的を外に置いた意志の在り方から、自らを無にする在り方が念頭に置かれていると考えられますが、それは「意識が深く意識自身の中に入る」ことだ、そのように西田は考えます。そうして「意識の本質を主語面を包んで広がる述語面に求めるならば、此方向に進むことが純な意識に到達することである」と述べられます。述語面が無になることと同じことを言っています。その「極致」はどうなるか。西田は「述語面が無になる共に対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身に於て働くものとなる、無限に働くもの、純なる作用とも考えられる」とされています。ペンそのものに成り切る、ということですね。ただここではまだ「真の無の場所」にはなっていません。今日はここまでとしましょう。
(第69回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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