市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 6

第5段落

ここから第5段落です。第5段落では思惟の根柢に知的直観があることが述べられます。思惟とは「表象間の関係を定めこれを統一する作用(第1編第2章第1段落)」のことですが、この関係の本にどこまでも説明のできない、神秘的或者の直覚がある、と西田は言います。それは小にしては主語述語の関係としての判断の根柢に働く直覚であり、大にしてはプラトンやスピノザの如き体系的思想の背後に働く大なる直覚となります。

小の場合から考えていきましょう。「馬が走っている」でも「カルタの一束が机上にある」でもいいですが、そういう判断が起こる本に説明のできない直覚があるわけです。それにピッタリとした言葉を与えようとしてまず主語から語り起こす。しかしその時すでに客語が暗に含まれており、その客語が発せられた時にも、そこに主語が暗に含まれているということになります。こうして語り終えた時、ようやく自分が何を言いたかったかが顕わになります。先程の言葉で言えば、一般的なるものが個体となるわけですが、それはピッタリとした言葉を与え、過不足なく説明し尽くしているにもかかわらず、どこまでも説明のできないものの説明という性格を帯びます。

この点は大なる場合も同様ですし、芸術作品でも同様でしょう。「芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わす」と西田は述べていますが、どこまでも形にできないものを形にできないままに形にしているということだと思います。「画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない」、とありますから画の精神は個々の事物と一つでありながら、それとはあくまで異なるのです。こうして語られた「思想の根柢にはいつでも神秘的或者が潜んでいる」「我々が如何に縦横に思想を馳せるとも、根本的直覚を超出することはできぬ、思想はこの上に成立する」などと言われることになります。しかも芸術家の場合同様、この神秘的或者が我々の「思惟の力」となり、我々の思惟と言葉を導くのです。

ここでも大と小、しかもこれまでの叙述からすればプラトンやスピノザ哲学の背後に働いている直覚の大は極大ですが、そうした大と小が区別されつつ、「思想において天才の直覚と言うも、普通の思惟と言うもただ量において異なるので、質において異なるのではない、前者は新たにして深遠なる統一にすぎない」というように、大と小の区別が量的差異に還元されています。しかもすでに指摘しましたが、第2段落ではモーツァルトの例が持ち出されて、この違いは単に数量的でなく、性質的だとされています。つまり単に大小の量的差別では済まない、ということです。第2段落の記述と第5段落の記述には明らかに齟齬があるように思われるのです。

つまりここでも凡人の見ているものをどこまでも発展させれば偉大なる思想家の見ているものに行き着く、あるいは大思想家の見ている神秘的或者が凡人の見ているものにまで逆に拡大されて適用されている、というような印象があります。西田は「幾何学の公理の如きものすらこの(神秘的或者:引用者)の一種」と言っています。たとえば〈2点を直線でつなぐことができる〉などという公理は誰でも直観できるでしょう。このような直観が大思想家の直観とどのような仕方で直結していると言えるのでしょうか。

次回は第6段落についてお話しします。更新は13日を予定しています。

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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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