「自由意志」の消滅

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はTさんでした。キーワードは「叡智的実在(状態としての自由)、自由意志」でした。それについての問いは「西田は、一方で「我々は、(中略)真の無の場所に入る時、自由意志の如きものも消滅せねばならない」(250,9-10)と論じながら、他方で「真の無の場所に於てのみ、自由(状態としての自由:T記)を見ることができる。(中略)絶対的無の場所に於て真の自由を見ることができる」(232,3-5)と論じる。ここでの、状態としての自由と自由意志、真の無の場所と絶対的無の場所との関係性とその意義を問いたい」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
「真の無の場所」と「絶対的無の場所」の関係はいつも一致するとは限りませんが、232頁では同義に用いられていると見てよさそうです。また「状態としての自由」と「自由意志」との関係ですが、「状態としての自由」が「真の無の場所」ないし「絶対的無の場所」に於てあるもの、それが対立的無の場所に映されたものが「作用」としての「自由意志」ということは押さえておきましょう。その上で一方(250頁)では「自由意志」は消滅する、と書かれ、他方(232頁)では見ることができる、と反対のことが書かれてあるように見える、ここが問題だということですね。これはどう考えましょう?

A

「真の無の場所」に入った時に消滅するのは作用としての自由意志で、そうして「真の無の場所」に於てあるのが状態としての自由意志だと思います。
佐野
そう読めますね。それではそれはどんな「意義」を持っているのでしょう?

A

前回、剣道の例が上がっていましたが、「自由でなければ」というように自由を意識したらそれはもう作用としての自由意志です。
佐野
なるほど、それでは「状態としての自由」とは?

B

240頁に「フィヒテの事行」も「真の無の場所に於ける自由意志」ではない、何故ならそれは方向が定まっているから、とあります。それに対し「真に」は「すべての作用の潜在的方向を超越して、而も之を内に包む」ものだとされています。
佐野
一定の方向が定まっていないと。そこから「意志の自由」は「行為の自由」(250,7)となるわけですが、もしそんなことができれば、剣道の場合、相手はさぞ困るでしょうね。一定の方向に狙いを定めて打ってくれば、定めた(意識した)段階で、相手はそれを察知して打ちを防ぐことができますが、そうでなければ大変苦しいことになる。古来それは「無心」の技と言われて来ました。そのあたりぜひお伺いしたい。

C

いくつか思いつくことがあります。一つは坂本龍馬と桂小五郎の立ち合い。桂は剣の達人ですが、それに対して竜馬は無防備に向かって行って勝ってしまった。薩長を一つにするには、こういう目的だの方向だのを捨てた人物が必要だった。今のロシアとウクライナの問題でもそういう人物が必要なのではないか。もう一つは「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉や小林秀雄の言葉なんかも浮かんできますね。いずれも「ねばならない」を捨てた所ですでに達成されているんです。
佐野
なるほど。迷いが晴れた所で気が付いた時にはすでに行為に出ている、ということですね。プロトコルはこの辺りまでとしておきましょう。今日は「四」の第2段落冒頭、251頁7行目から253頁2行目まで講読します。ここでは「有の場所」である「物体」からどのようにして「力の場」が成立するかが述べられていますね。物的実体(基体)は感覚的な性質(色や音など)に対しては超越的ですが、それをどこまでも空間に内在的として合理化しようとするところに力の場が成立します。

D

「空間そのものが性質的なものとならねばならない」(252,6)というのがよく分かりません。
佐野
もともと「空間」というのが「物の一般的性質」とされていました。そうすると色や音などは物の特殊な性質ということになります。もしこの一般的性質としての空間が「空虚なる空間」として、単に量的にのみ扱われるならば、感覚的なもの(色や音など:特殊な性質)は非合理的なものになる、西田はそのように考えます。確かに赤を波長で量化して定義することはできますが、そのように量的に表現されたものが何故感覚的に赤として我々に現れるのかは説明が付きません。その意味では空虚な空間(幾何学的空間)にとっては感覚的な(特殊な)性質は非合理的なものとなります。「空間そのものが性質的なものとなる」とは「色もなき音もなき空間がすべてを含む一般者」となる、ということです。これは物理学者の考える「物理的空間」とは異なっています(以前にも西田は「力の於てある場所」は「物理学者の所謂力の場」ではなく、「超越的意識の野」でなければならない、と言っていました(241,8-10))。そうして「色や音は空間の変化より生ずると考えられる」のです。この変化を引き起こすもの、それが「力」です。空間はすべてを潜在的に、implicitに含んでいます。それを現実化(発現)させるのが力です。その意味で「空間は力を以て満たされ」ているのです。力とはこの場所に於てあるものを「内面的に包摂しようとする過程に於て現れ来る一形相」ということになります。Implicitであったものを発現しつつ、これを包摂して、統一にもたらすのが力だということです。ここでは力を運動に即してその可能的潜在的な在り方と発現とに分けて考えています。

E

それが「判断や意志と同一の意義を有って居る」というのが分かりません。
佐野
判断は主語述語によって表現されますが、そうした表現以前には力同様にimplicitな状態にあります。我々は必ずしも言いたいことをはじめからはっきりと意識しているわけではないのです。それが主語から述語に至ってが表現し尽くされて、初めて自分が何が言いたかったかが分かるのです。意志の場合もそうですね。初めはなんだかよく分からない衝動しかない。それを言葉にして行動に移すわけです。水が飲みたければそれを目的にして目的手段の系列が成立し、それが実現して、目的が達成されれば、初めて自分がしたかったことの何かが分かる、というわけです。判断と意志の構造は力と同じですね。そういうわけで西田は「力の概念は意志の対象化によって生ずる」と言います。例えば、自然現象の原因を神の意志に求めれば、現代の自然科学はそれを一笑に付すでしょうが、そもそも力の概念とは我々の意志の投影だというのです。これは『善の研究』以来の考え方です。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第41回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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