読書会だより

自分らしさとは何か? ——対象化できない自己であるとき、わたしたちが口にする「自分らしさ」とはどのようなものでありうるか?

今回の哲学的問いは「自分らしさとは何か?―対象化できない自己であるとき、わたしたちが口にする『自分らしさ』とはどのようなものでありうるか?」でした。

A

(出題者)
西田は「自己」は対象化できないと言うのですが、「自分らしさ」とか「ありのままの自分」とかそれを肯定している風潮があると思います。そのあたりをみなさんに聞いてみたいと思います。

B

「自分らしさ」は自分では分からないから定義できません。周りから見て分かるものだと思います。私の場合否定的なイメージになることが多いのですが。

A

(出題者)
他人から言われて混乱した人がバランスをとる、あるいは開き直る時に「自分らしさ」を打ち立てることがないか、そのあたりを聞きたいのです。
佐野
「自分が自分である」というアイデンティティーの問題ですか?

A

(出題者)
というより、自分らしくしたいという願いの問題です。このことを人間は行動するときに必ず意識しているのではないか?

C

「自分らしさ」は自分を苦しめると思うんです。追求したりして固執すると、つまり「すぎる」と自分を苦しめます。昔は多様性がなかったからそれほどではなかったけれども、今は「らしさ」を出さなければならない、「らしさ」を演じるというか。
佐野
演技ですね。

B

何でも型が最初です。自分らしさもそこから入る。

D

私は自分が分からないんです。哲学を始めて分からないことがどんどん増えて、その中でも一番分からないのが自分なんです。絶対というのは死についてしか言えません。正しいとか間違っているとか、そういうものについて絶対はありません。この間他の人に「天然」と言われてずいぶんびっくりしたんですけれど、他者が見ている私も演じている一部でしかありません。だから先ほど「自分らしさ」は周りが見て分かるという意見がありましたが、私はそうは思いません。自分も分からなければ、相手も分かりません。
佐野
先程出題者は行動するときに人は皆「自分らしさ」を意識するとありましたね。自分らしさを意識して演じる。でも「自分」も「相手」も分からないということになると、日常生活に支障が出ませんか?どのように演じたらいいか分からないのであれば。

D

ええ、出ると思います。

A

(出題者)
若い人に聞いてみたいですね。

E

私も「自分らしさ」は分かりません。今まで好き嫌いの傾向で、勝手にあると思い込んでいたけど、それは違うと思います。周囲に言われて分かることもあるけど、それは一部分にすぎないと私も思います。だから「自分」は誰にも分かりません。
佐野
西田は『善の研究』第3編第12章で個人性ということを言っていますね。Eさん、読んでください。(一部を読む)。どうですか。なんかそんな気になるでしょ。個人性の実現こそが大切で、それはできるんだと。Gさん、どうですか。

G

自分らしさは分かりません。ですが自分の行動を決めているものは心理学でいうセルフ、自分自身です。無意識にスムーズにできる時が自分らしさ、西田の言う個人性です。その意味では今為すべきことだけが問題であり、こういう人間になりたいなどと考えても無駄だと考えています。

C

私、個人性に関する所で好きなところがあるんです。読んでもいいですか。
佐野
ぜひ読んでください。

C

「世人は往々善の本質と外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とによって定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし我々は如何に事業が異なっていても、同一の精神を以て働くことはできる。如何に小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人と言わねばならぬ。」(第3編第13章第4段落)
佐野
本当に元気が出ますね。ですが、よし俺も個人性を実現しよう、「自分らしく」生きよう、と考えたとすると、これは違うことになりそうですね。
 振り返りの考察です。人間が「自己」に目覚める。これは大変不思議なことである。動物にはおそらくこれがない。成長の過程で自我に目覚める。朝起きた時に目覚める。没頭状態やぼうっとしていた状態から我に返る。いろんな仕方で我々は「自己」に目覚める。しかしこの「自己」は対象化できないものである。対象化できないものに目覚めるというのだから、これは大変不思議なことだと言わざるを得ない。

 では目覚めた瞬間我々は何をするかと言えば、「自己」の確認を慌ててしている。自己存在の確認をその場の役割、記憶、身体感覚を通して行っている。しかし「自己」は対象化できないものであるから、これ等は「自己」自身、「自己」そのものではない。ここから人間について何が言えるか。

 対象化できない自我に目覚めるということは、我々がそれを対象化しない仕方で知っているということでなければならない。西田であればこれを直観と言うであろうし、ここにプラトンの想起説を読み取ることも可能であろう。

 それと共に目覚めると同時に慌てて自己(自我)の確認をするということは、目覚めと共に我々が自己を見失っているということを意味している。こうして我々は身体感覚や記憶、あるいは役割といった「自己ならぬもの」で「自己」を確認し、あるいは確立しようとする。このことを我々はやめられない。

 「自分らしさ」もこうした「自己ならぬもの」である。自分らしくあろうとするのは「自分らしさ」を失った者が「自己ならぬもの」で自分自身であろうとする試みである。「自分らしく」あろうとする試みを人間は決して手放さないし、諦めもしない。自分自身をどこかで(直観的に)知っているからである。それ故それは達成不可能な永遠の課題となる。

 一方で我々は自分らしくあろうとせざるを得ず、しかもこうした意識的な試みにおいて自己自身であることは決してないのであるが、他方でこうした試みを超えて自己は常に自分自身を直観し、如何なる行為も個人性(自分らしさ)でないものはないと言わなければならない。こうした矛盾の内に人間のあらゆる悲しみと深みの経験があるように思われる。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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