市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 5

第4段落

ここからは第4段落です。これまでの通説は知的直観と普通の知覚は違うということを主張していました。それに対する西田の反論は両者の違いは量的な差にすぎない、というものでした。いろいろ疑問はありますが、基本線はそういうことです。第4段落では知的直観についての通説が、普通の知覚との比較ということでなしに、もっと一般的に扱われています。この通説には三つあって、第一は知的直観が受動的だとする説、第二は主観的作用だとする説、第三は事実を離れた抽象的一般性の直覚だとする説です。

第一の通説は知的直観が普通の知覚同様受動的だとする説ですが、もともと普通の知覚ですらすでに申しました通り構成的です。我々は「モナリザ」を見て、「画」「女の人」という概念(理想)に基づいて、能動的に経験を構成しているのです。ですから知的直観が能動的であるというのは言うまでもないことですが、ここでの西田の反論の仕方が面白く、知的直観のあり方を具体的にイメージしやすいものにしています。西田は次のように言います。

真の知的直観とは純粋経験における統一作用そのものである、生命の捕捉である、すなわち技術の骨の如きもの、一層深く言えば美術の精神の如きものがそれである。たとえば画家の興来り筆自ら動くように複雑なる作用の背後に統一的或者が働いている。この一物の会得が知的直観であって、しかもかかる直覚は独り高尚なる芸術の場合のみではなく、すべて我々の熟練せる行動においても見る所の極めて普通の現象である。

最初の文の「純粋経験における統一作用そのものである」は「生命」にかけて読んだ方がよいと思います。知的直観とは直観として何らかのものの「捕捉」であり、「会得」だからです。またそう読まないと「生命」も漠然としたものになってしまうからです。ここでは「純粋経験における統一作用そのもの」が「生命」であると理解するのが自然だと思われます。それで知的直観とは純粋経験を統一している働きそのもの、純粋経験を生き生きとさせている生命を捕捉していることになります。よく「骨を摑んだ」と言いますが、その時には何かが見えているんですね。それは技術の表面ではなくて技術の本質のようなもの、それが見えているのでしょう。次に「一層深く言えば」と、「極致」の話が出てまいります。「美術の精神の如きもの」。画家の例が出ていますね。興来り筆自ら動くような複雑なる作用の背後に働いている「統一的或者」、この「一物」を会得することが知的直観だと。天才的な彫刻家は大理石の中にすでに完成された像を何らかの仕方で直観しており、後はいらない部分を削って像を取り出すだけだ、などと言われます。第1段落ではこれが「理想的なるもの」の直覚と呼ばれていました。こうして知的直観は普通に経験といっているものの「根柢」ないし「背後」に「理想的なるもの」を見ており、これが経験を統一している、とこういうことになるのです。

しかもこれが高尚なる芸術の場合だけではない、我々の熟練した行動に普通に見られるというのです。「モナリザ」をすぐに「画だ」と見るのも熟練と言えば熟練です。こうなれば何でもかでも知的直観です。だから西田も「極めて普通の現象」だと言うのでしょう。テキストではそれに続いて次のように述べられます。

普通の心理学は単に習慣であるとか、有機的現象であるとか言うであろうが、純粋経験説の立場より見れば、こは実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。

「普通の心理学」と「純粋経験説の立場」が対比されていますね。少し補足をしておきましょう。「心理学」は意識現象を原因結果の関係から考察する「理論的研究」に属します。科学の立場です。『善の研究』第3篇「善」第4章「価値的研究」では心理学が「理論的研究」に属することがはっきりとは述べられていませんが、『倫理学草案第一』でははっきりと心理学は物理学や化学と並んで「説明的学問」に分類されています(第16巻156頁)。「説明的学問」は「理論的研究」と同義と見てよいと思います。『倫理学草案第二』でも生理学、社会学と並んで心理学も「説明的学問」の属するとされていると見てよいと思います(第16巻204-205頁、207-208頁)。ですから心理学は『善の研究』でも「理論的研究」に属していると見てよいでしょう。この「理論的研究」に対し、『善の研究』では意識現象を目的の観点から考察するのが「価値的研究」です。真偽、美醜、善悪をその目的に照らして価値判断する立場で、論理学、美学、倫理学がこれに属するとされています。

目的には統一力が必要ですが、西田にとってこの統一力とは自然と精神とに同一の統一力です。ところで純粋経験を唯一の実在として全てを説明するというのが、「純粋経験(説)の立場」でした。純粋経験を統一的方面から見たのが、主観ないし精神で、統一される方面から見たのが客観ないし自然です。ですから当然自然と精神は同一の統一力によって成り立っている、ということになるのです。難しいでしょうか。西田の挙げている例で少し説明しておきましょう。(第2編第9章第段落)

ここに石があるとします。普通はこの石が自然の力によって存在している、と考えます。しかしこの石を視覚触覚などの感覚の結合と見ることもできます。そうするとそれらを結合しているのは我々の意志の統一力ということになります。しかしこの両面、つまり物体現象と精神現象はもともと純粋経験の事実という同一実在の両方面にすぎません。だとすれば統一力も同一だということになるのです。

こうして物体現象と精神現象は同一実在の両方面ということになったのですが、それを原因結果の観点から考察するのが「理論的研究」、目的すなわち統一力の観点から考察するのが「価値的研究」ということになります。西田のよく使う例で言えば(第3編第3章第5段落等)、ここに一つの銅像があるとします。銅としては物理化学の法則、つまり原因結果の法則に従いますが、それが現わす「理想」、ヘルメスであれ、観音菩薩であれ、それがこの像を統一しています。二つの説明が相犯す筈はなく、このように原因結果と目的の両方面から説明することで、言い換えれば「理論的研究」と「価値的研究」が相俟って実在の完全なる説明ができるというのが、『善の研究』における「純粋経験の立場」です(第3編第4章末、第2編第8章第4段落註の2)。そうして「心理学」はその内の「理論的研究」に属することになります。

ところで今述べたのは西田の考える哲学体系の中での「心理学」です。しかしテキストで問題になっているのは「普通の」心理学です。そのことで西田が念頭に置いているのはおそらく「現今科学の趨勢」に流された心理学のことでしょう。西田は次のように述べています。

現今科学の趨勢はできるだけ客観的ならんことを努めている。それで心理現象は生理的に、生理現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばならぬこととなる。(第2編第8章第2段落)

そうして我々は「普通に純機械的自然を真に客観的実在とな」している、と言うのです(第2編第8章第3段落註)。何度も言いましたが、意識現象を離れてそのような自然が実在するというのは独断です。ですからここで「普通の心理学」ということで西田が念頭に置いているのは独断的な科学的心理学ということになるでしょう。そうした科学的心理学は知的直観を単なる習慣に還元し、さらに生理学的に「有機的作用」に還元する、そういうことを言っているのでしょう。

それに対して西田は「純粋経験説の立場」を対置させます。その立場では酩酊して知らぬ間に家に帰っていたというのも、「実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすでもなく、我が物を動かすでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみ」ということになります。なんか大げさな気もしますが、そういうことになるのです。しかし本当にそれでいいのでしょうか。これも普通の知覚、ないし日常における没頭と、美術家、宗教家の直覚との関係を巡る問題ですね。

第二の通説は知的直観を主観的作用だとする説です。これについては簡単にそれが「主客を超越した状態」であるというように片づけられます。そうして「主客の対立はむしろこの統一によりて成立する」と言っていますが、統一が破れ、我に返った時に主客の対立が成立する、ということでしょう。ここでも「芸術の神来の如きものはみなこの境に達するのである」とあるように、芸術家の直観が念頭に置かれています。西田はこの「知的直観」の章では軸足を美術家、宗教家の直覚に置いたうえで、それを普通の知覚にまで拡大しているのではないか、そんな気もします。

第三の通説は知的直観が「事実を離れたる抽象的一般性の直覚」だとする説です。事実を離れて神や絶対者、イデアなどを直観するという立場が念頭に置かれているのかもしれません。西田は画の例を挙げて明快に説明しています。

画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない。

『純粋経験に関する断章』にも同趣旨の記述がありますので紹介しておきます。

知的直覚は理想の直覚である。或人は理想のような形而上の者は直覚することができないというであろう。併し真に形而上実在である理想は抽象的概念とは異なって居る。理想は具体的事実を離れて孤立して居るのではない。具体的に事実の統一力である。吾人が音楽を聞いて種々なる音の変化の上一種統括的意義をかんずる、これが理想である。精細に考えて見れば通常の概念というのも此種の作用である。我々が概念を思い浮かべる時は単に語の聴覚心像を想起するか、さなくば具体的事実を想起して此の全体の上の統一を直覚するのである。要するに、知的直覚は知覚の発展したる者である。この発展は無限であって、遂に神の直覚に至ってとどまる。(旧岩波全集版第16巻324頁)

「理想」は具体的事実の「統一力」だということです。西田はこうした統一力を美術や音楽などの理想だけでなく「通常の概念」においても認めている点、知覚が無限に発展する点、そうして神の直覚に至ってその極致に達するという点、この三点に注意しておきたいと思います。『倫理学草案第一』にも「理想界」という項目が有ります。これも紹介しておきましょう。

右に云った様に世界の根本は精神であって、吾人が日常経験するこの感覚界の外に空間、時間の関係を離れ機 械的因果律の外に超然たる形而上的理想界なるものがある。この理想界なる者が凡ての哲学、美術、宗教、道徳の基礎となるのであって、感覚界と同じく客観的実在であるのみならず反って之より深き永久的実在である。例之此処に一つの塑像ありとせよ。之を作り居る材料は物体として機械的因果律によりて成立するものである。此の像は単なる土石にあらずして或る無形なる作家の理想を顕わし居るのである。而して此の理想は又見る人の精神を直覚的に動かす力を有するのである。此の塑像に於いては理想が本体であって此の材料は仮現であると見てよろしいのである。之と同じく此の自然界人類界に於いて其千変万化する中に於いて此等の現象が無意義なる変化ではなくて理想的意義を有することを読み得るのである。昔プラトーが唱道せし如く此の世は理想の仮現と見ることができる。此の理想的実在は数理の何處にても変わらざるが如く人情の古今に一貫せるが如く永久に新たなる実在である。理性を本体とせる吾人の意志は実にこの理想界の法則に従うのであって物体の如く機械的因果律に従うのでない。(同178-179頁)

この記述によって「理想」とはイデアでもあることが分かります。しかしこの「理想」は静的なものではなく、動的なものです。『善の研究』第3篇「善」第3章「意志の自由」にも「理想」が出てまいります。見ておきましょう。

意識の根柢たる理想の方より見れば、この現実は理想の特殊なる一例に過ぎない。すなわち理想がおのれ自身を実現する一過程にすぎない。(第3篇第3章第7段落)

この「理想」は「我々は普通に思惟によりて一般的なものを知り、経験によりて個体的なものを知ると思うておる。併し個体を離れて一般的なものがあるのではない、真に一般的なるものは個体的実現の背後における潜勢力である、個体の中にありてこれを発現せしむる力である、例えば植物の種子の如きものである(第1編第2章第8段落)」における「一般的なるもの」と同じものです。知的直観における「理想的なるもの」とは個体的実現の背後における潜勢力としての「一般的なるもの」のことです。この「一般的なるものが発展の極処に至ったところが個体(同)」なのです。「知的直観」のテキストではこの箇所を受けて次のように述べられています。

嘗て云った様に、真の一般と個性は相反するものではない、個性的限定によりて反って真の一般を現わすことができる、芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わすが為である。

「一般的なるもの」が芸術家の一刀一筆によって次第に限定され個体としての作品に仕上がっていく様が目に浮かびます。逆に言えば芸術家はこの「一般的なるもの」を直観しつつ、これを作品にすべく一刀一筆を揮っているのでしょう。

この「一般的なるもの」はさらに「独立自全なる真実在の成立する方式」、すなわち「まず全体が含蓄的implicitに現われる、それよりその内容が分化発展する、しかしてこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つのものが自分自身にて発展完成するのである」(第2編第4章第2段落)における「全体」ないし「一つのもの」のことです。この「一つのもの」が「統一的或物」と呼ばれ、その会得が「知的直観」と呼ばれているのです。

さてこの段落における西田の通説に対する反論を通じて、第1段落で提示された知的直観の定義、すなわち「いわゆる理想的なるものの直覚」、「普通に経験以上と言っているものの直覚」の意味がさらに具体的に理解できたことになります。「普通に経験以上と言っているもの」が「理想的なるもの」に他ならず、それは「純粋経験における統一作用そのもの」であり、「一般的なるもの」だということになります。いまだ経験されておらず、具体的実現に至っていない理想、一般的なもの、経験を統一しているものを直覚する、ということです。いわば実現された全体を暗に(含蓄的に)直覚するということで、ある意味で実現された結果の方から見る、と言ってもいいでしょう。モーツァルトの例が分かりやすいと思います。

それともう一つ確認しておきたいのは、西田がこの段落で知的直観の例として挙げているのは何よりもまず、芸術家の直観であり、それを極めて普通の経験や知覚にまで拡大している、という点です。普通の経験や知覚からすれば、つまり向上面から考えるならば、その内に含まれる理想的要素を無限に発展させて最後に(もちろん才能があればの話ですが)美術家、宗教家の直覚という極致に至る、ということになり、向下面から考えるならば、美術家や宗教家の直覚がそのまま普通の知覚や経験に拡大されているというように見ることもできます。いずれにしても大変不可解であることに変わりはありません。

次回は第5段落についてお話しします。更新は11日を予定しています。

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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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