市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 3

第2段落

ここから第2段落です。第1段落のように「知的直観」は美術家、宗教家、天才、名人のものだということならば、それは我々凡人には関係のない話だということになります。しかしある人が「私は神を見た」などと言えば、それは「空想」ではないか、と疑いたくなります。そうなると天才などの知的直観と空想とはどう違うのかが気になり始めます。そこで西田は第2段落で次のように語り始めます。

知的直観ということは或る人には一種独特の神秘的能力のように思われ、また或る人にはまったく経験的事実以外の空想のように思われている。

西田はこれを通説として扱い、これに反論します。そうして第2段落では第1段落で受けた印象とは反対に、知的直観と「普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる」、とこのようなことを言い始めるのです。「空想」と「真に実在の直覚」との区別も同様で、はっきりした分界線はどうやらなさそうです。

まず知的直観と普通の知覚が同一種とはどういうことでしょうか。最初の例に戻って考えて見ましょう。先程は「モナリザ」を見て、画だ、女の人が描かれている、というのは「普通の知覚」だということになっていました。しかしそれは決して「現在のままを見ているのでは」ありません。「現在のまま」ということであれば絵具が塗り重ねられているだけです。しかし皆さんはそこに「画」を見、さらに「女の人」を見た。どうしてでしょう。「画」や「女の人」という概念を知っていたからです。目の前の絵具の塗り重ねられたもの(厳密に言えばそれすらもすでに概念ですが)を見て、自分が知っている「画」や「女の人」という概念を過去の記憶から大急ぎで呼び起こし、それをもとに現在の知覚を纏め上げているのです。その意味では「普通の知覚」も「経験以上のもの」つまり「理想」(この場合は「画」や「女の人」)を見ていることになります。それで西田は次のように言うのです。

普通の知覚であっても、前にいったように、決して単純ではない必ず構成的である、理想的要素を含んでいる。余が現在に見ているものは現在のままを見ているのでない、過去の経験の力によりて説明的に見ているのである。この理想的要素は単に外より加えられた聯想というようなものではなく、知覚そのものを構成する要素となっている、知覚そのものがこれによりて変化せられるのである。

「現在見ているもの」は単に「画」や「女の人」だと言っている段階から、「美しい」と感動を覚えるにまで至る、深まりの可能性を秘めていると言えます。もちろんそうならない人もいます。その場合は才能がない、とこういうことになります。それで西田は次のように言います。

この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる。各人の天賦により、また同一の人でもその経験の進歩によりて異なってくるのである。始めは経験のできなかったことまたは弁証的にようやくに知りえたことも、経験の進むに従い直覚的事実として現われてくる、この範囲は自己の現在の経験を標準として限定することはできぬ、自分ができぬから人もできぬということはない。

「弁証的にようやく知りえたこと」が「経験の進むに従い直覚的事実として現われてくる」とは、先に挙げた名人の例を思い起こすとよいかもしれません。西田は「音楽家が熟練した曲を奏する」例を「純粋経験」の例として挙げていますが(第1編第1章第3段落)、これを「知的直観」の例として挙げることもできます。熟練とはまさに一つひとつ意識して練習した結果ですが、この一つひとつというのが「弁証的」ということです。

こうして普通の知覚も知的直観であることになりましたが、「この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる」というのがここでのもう一つのポイントです。「根柢」とは「統一力」のことを指しますが、そのことは後で述べたいと思います。どこまでも豊富、深遠となったその先に美術家、宗教家、天才、名人の直覚があるのです。見ているものが違う、とこういうことになるわけです。そこで西田はモーツァルトや宗教家の例を出します。

モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、例えば我々の愛によりて彼我合一の直覚を得ることができる、宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。

ここには我々を少し訝しく思わせる表現が二つあります。一つは「単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となる」という表現です。先程普通の知覚と超凡的な知的直観の間にはっきりとした分界線を引くことはできない、と述べられていました。そうであれば両者の違いは量的でなければなりません。事実後の第5段落の記述には次のように明記されています。

思想において天才の直覚というも、普通の思想というもただ量において異なるので、質において異なるのでない。

これは明らかに齟齬をきたしているとしか言いようがありません。どう考えたらよいのでしょうか。

もう一つもこれに係るのですが、先程は「この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる」と言っていたのに、「極致」を認めているという点です。「どこまでも」というのはこれで終わりということ、つまり「極致」がないということでなければなりません。ここにも明白は齟齬があるように思われます。しかしこの問いも残しておきましょう。

第2段落も終わりに差し掛かるところでようやく西田は天才などの直覚と空想の違いについて次のように述べます。

或る人の超凡的直覚が単に空想であるか、はた真に実在の直覚であるかは他との関係すなわちその効果如何によって定まってくる。直接経験より見れば、空想も真の直覚も同一の性質をもっている、ただその統一の範囲において大小の別あるのみである。

「真の直覚」と「空想」を分ける基準は二つ挙がっています。一つは「他との関係すなわち効果」ということであり、もう一つは「統一の範囲における大小の別」です。まず「他との関係すなわち効果」とはどういうことでしょうか。名人芸であれば結果を出すということが考えられます。将棋や囲碁では勝つということです。しかし名人とか達人とは勝ち続ける者のことを言うのでしょうか。美術家や宗教家の場合はどうでしょう。多くの人に感動を与え、多くの信者を得るということでしょうか。それとも歴史に名を残すということでしょうか。いずれにしても量的な差別しかなく両者を決定的に分ける基準とはなりえません。

もう一つの基準はどうでしょうか。「真の直覚」と「空想」を分ける基準というのですから、ここで問題になっているのは「真理」です。西田の真理観については他の箇所で述べられていますので参照してみましょう。

我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、すなわち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。(第1編第2章第5段落)

真理とは我々の経験的事実を統一したものである、最も有力にして統括的なる表象の体系が客観的真理である。(第1編第3章第4段落)

「真の直覚」と「空想」を分ける「統一の範囲における大小の別」もこの真理観に従っていることが分かります。しかし何を以て「最大最深」「最も有力」とするのでしょうか。それはそのつど乗り越えられていくものでしょう。これで「最大最深」だ、とは言えないはずです。「真の直覚」も同様です。これこそが「真の直覚」だと何を根拠に言えるのでしょうか。このことは真と偽同様、真の直覚と空想も常に相対的なものであり、両者の間には絶対的な区別はなく、量的な区別しかない、ということになりそうです。このことは真がつねに偽を抱え込むのと同様に「真の直覚」も常に「空想」を抱え込むということを意味します。

これまでのところで示されているのは、第一に美術家、宗教家の直覚と普通の知覚は量的にのみ異なるとされながら、他方で質的に異なるとされていること、第二に普通の知覚における理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができるとされながら、他方でその極致があるとされ、それが美術家、宗教家の直覚だとされていること、第三に真の直覚と空想との区別も、一方であるとされながら、他方でそれが量的な区別にすぎないこと、以上三点で、これがすべてだと思われますが、いずれも不可解というほかありません。どのように統一的に考えたらよいでしょうか。

次回は第3段落についてお話しします。更新は17日のプレ読書会までの奇数日(全7回)を予定しています。

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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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