直観が直観自身を限定する

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はOさんでした。キーワードは「真の無の立場の極限」(249,14)」でした。それについての問いは「西田は、より深いところに向かっているように思える。それでは、その反対の方向に進む道はあるのだろうか」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。佐野がずいぶん偉そうにしゃべっていますが、ご容赦ください。)
佐野
問いを仕上げましょう。西田は「直覚が直覚自身を充実し行く」とか「場所が場所自身を限定し行く」などと言い、それによって「自然界」や「意志の世界」が構成されると考えています。構成と言っても主観的な構成ではなく、今日読むところに出てきますが「色が色自身を見ることが色自身の発展であり、自然が自然自身を見ることが自然の発展」であるというように見ることが。直観が直観自身を限定するということです。「反対の方向に進む」というのはそういうことですか?

O

有の場所から対立的無の場所へ、それから真の無の場所へ、というように西田の立場は深まっていきます。まずそれが究極のところに至るというのがイメージできませんし、ましてそこから対立的無の場所や有の場所に戻るということもイメージできません。

A

そもそもそんな究極の立場に人間が至るというのが分かりません。

B

でもどんな時でもそういう究極のところに私たちは触れていると思います。

C

というより、どんな時でも私たちは純粋経験の中にあるんじゃないですか?
佐野
西田も純粋経験の範囲以外に出ることはできないと言っていますね。

D

だから究極のところに行きついたら戻る必要はないと思います。
佐野
すべてが直観の立場での場所の自己限定ということになれば、そこから反省や判断の立場がどのように生ずるかは難しいですね。直観の立場に立つということ自体がすでに反省であり、判断であるような気もしますが、今日はこのくらいにしておきましょう。今日は「三」の終わりに書かれているコメントを含め251頁6行目まで読みたいと思います。

E

ちょっと待ってください。前回やったところの「前者は判断の矛盾の超越であり、後者は意志の矛盾の超越である」というところがどうもよく分かりません。
佐野
前者とは判断から意志への超越、後者とは意志から直観への超越ですね。その超越のところに矛盾の超越があるということです。

E

判断の矛盾というのは「円い四角形」のようなものですよね?
佐野
ええ。もう少し一般化すると、判断(知識)は矛盾律に従って無矛盾でなければなりません。しかしそうであれば我々は矛盾ということをどこかで知っているわけです。これが意志の世界ということになる。円い四角形もそうですが、有がそのまま無であり、無がそのまま有であるとか、特殊がそのまま一般であり、一般がそのまま特殊であるとか言うのも矛盾ですね。そういうことが成り立つのが意志の世界です。

E

そうして意志から直観に到るところにも意志の矛盾があって、これが道徳的な矛盾であると。
佐野
ええ。道徳は善を目的にしますが、そのように目的にすることでかえって善をどこまで行っても実現不可能なものにしてしまいます。これが道徳が抱える矛盾だと考えられます。

E

結局どうも「超越」ということがピンと来ないようです。
佐野
反省とか判断は世界でもなんでも対象に回して、これを矛盾なく説明しようとします。西田は円い四角形のような矛盾で反省が躓くように書いていますが、反省の本当の問題はすべてを対象化して説明していても、そうしている自分自身が問われていないということです。しかし反省の立場に立っている以上、そのことには気づくことはできません。そのことに気づくためには何らかの、それこそ「気づき」が必要で、ここに超越があります。『善の研究』のもととなる講義が行われた前年度に『倫理学草案第二』というのがあります。ここで「見者の立場」と「作者の立場」というのが出てきます。「見者の立場」とはまさに反省の立場です。それに対し、世界は対象化してみるのではなく、世界とはその中で自分が生まれ、生き、死んでいくところのものである、そのような立場に立つのが「作者の立場」です。さらにその前年度の『倫理学草案第一』では「見者の立場」がとられていましたから、おそらく何らかの気づき(超越)を西田は経験したに違いありません。その結果「倫理学」の捉え方も随分変わってきている。しかし「作者の立場」に立てばすべて解決かというと、そうではなくて、善を実現しようとするから、どうしても道徳的な矛盾を最後まで抱えることになる。自分の力で何とかしようと頑張る。しかしどこまで行っても実現できない自分を見出すだけだ。どうにもならない。そこに自分が有限であることを受け入れることで無限の生の内にあることに目覚める。これが宗教ですが、ここにも超越がある。「超越」とは要するに、こちらからの道がないところで飛躍が起こるということです。こうした宗教的な直覚を含みうる哲学的な根本経験があったから、次の年度の講義、つまり『善の研究』のもととなる講義が可能になったと私は考えています。「超越」はとても難しく、簡単にわかった気になってはいけないものですから、これからも考えていきたいと思います。それでは今日のところに進みましょう。

D

コメントには純粋性質と呼んだ理由のようなものが言い訳みたいに書かれていますが、この純粋性質は純粋経験というように理解していいですか?
佐野
いいと思いますが、それをどう理解するかですね。反省(思い)が破れて何かに出会う、あるいは驚く。まさに色を見、音を聞く刹那です。思いが破られているからそこに真の無の場所が開けている。そこに「於てあるもの」は「意識現象」ですが、それがここでは「純粋性質」と呼ばれている。そうした純粋性質の「純なる作用」に成り切っているのだけれども、そこに見るということが成立している。その場合見ると言っても成り切っているのだから、見るものと言えば「自己自身」しかない。このように「見ることが働くことでもあるもの」、それを「純粋性質」と呼んだ、ということです。それがここではさらに「最も直接なる存在」とも名付けられています。純粋性質にしても純粋経験にしても、そういう体験の出来事を何とかして言葉にしようとする試みと言えると思います。「四」に入りましょう。冒頭「上に述べた所に於て、叡智的実在と自由意志の差別及び関係の問題に触れた」とありますが、それはどこですか?

E

229頁の終わりから230頁初めにかけての部分です。「状態としての自由」と「作用としての自由意志」を分けています。そうしてそれは「対立的無の立場に映された」ものだとされています。
佐野
なるほど。今読んでいる250頁には続いて「自由を状態とする叡智的実在」とありますから、「叡智的実在と自由意志との差別と関係」はそういうことでしょうね。私たちは自由意志を意識するといつでも対立的無の立場に落ちてしまう。状態としての自由は意識しようとして意識できないということですね。私も剣道をやるのですが、自由でなければならん、などと意識したら、これほど不自由なことはない。

B

このあたり「真の無の空間に描かれた一点一画も生きた実在」とか「感覚の奥に閃く」とか「感ずる理性」とか、感覚的な表現が多いですね。
佐野
そうですね。叡智的実在と言えばすぐにカントの人格を思い浮かべるわけですが、これは全然感覚的じゃない。西田はこうしたカントの叡智的実在の在り方に反対しているのでしょうね。魅力的な表現になっていると思います。今日はここまでとします。
(第40回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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