物理的空間と幾何学的空間

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はTさんでした。キーワードは「物理的空間」で、キーセンテンスは「物理的空間はどこまでも感覚的でなければならぬ、感覚性を離るれば物理的空間はなく、単に幾何学的空間となる、而して力は亦数学的範式となるの他はない」でした。また疑問ないし考えたことは「物理的空間と幾何学的空間の違いがわかりません。幾何学的空間や数学的範式も、ある人々(数学者とか)にとってはリアルな感覚によって捉えられたものかもしれません。人は手持ちの限られた感覚器官を用いて、仮に色とか音とかいうふうに知覚しているだけで物理的空間と幾何学的空間に本質的な差異はなく、その両者はいずれも感覚性があり、感覚性のないものは考えることすらできない、と言うことも可能ではないかと思うのですが」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
まずこの問いそのものを仕上げて見ましょう。何かありませんか?…なければ私の方から。「幾何学的空間」が感覚的だとはどういう意味ですか?「幾何学的空間」そのものは感覚的ではありませんね。例えば完全な線すら我々は見ることもできない。何故ならそれには幅がないから。しかしそれを考えることはできる。でもそれについて考えるときは実際に線を引くなどして、感覚的なものを手掛かりにしないと考えることすらできない。とまあ大体こんな意味ですか?

T

ええ、大体そういうことです。
佐野
物理的空間が感覚的であるとはどういう意味でおっしゃっていますか?

T

音や色は人間だけに通用する、主観的なものだと思いますが、その原因となるものがそのもの自身にあるということです。例えば音は波動が原因だという意味です。

A

ジョン・ロックに第一次性質と第二次性質というのがあって、延長、個体性、数などが第一次性質で、これらは物自体に備わる性質です。これに対し第二次性質は色、音、香、味などで、これらは物自体には関りのない主観的な性質です。
佐野
Tさんは物理的空間というのをロックの言うような意味で、物自体の世界とお考えですか?

T

世界には二つあって、一つは主観的な世界で、もう一つは客観的な世界です。客観的な世界は物自体の世界です。
佐野
これは西田哲学成立の根幹にかかわる問題ですね。『善の研究』の「版を新にするに当って」に「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」というフェヒネルの言葉を引きながら、「私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有って居た。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う」(文庫改版10頁)と述べています。つまり『善の研究』の基となる根本経験が実は西田の高校時代にあって、それが今回の問いに関係しているのです。この問題は何を実在と考えるかの問題です。西田によれば、客観的な物自体の世界と、主観的な世界を分けるというのが、すでに「考えられたもの」に過ぎないのです。思惟の要求によって仮定されたものに過ぎない、西田はそのように考えます。そうして真にあるといえるもの(実在)は純粋経験でなければならない、そのように考えるわけです。大切な問題ですが、プロトコルについては今日はここまでとしましょう。今日は253頁2行目から253頁12行目まで読むことにします。

B

前回の最後の部分がよく分かりません。「無なる意識の場所と、之に於てある有の場所との不合一が力の場所を生ずる」とありますが、「無の意識の場所」をどう考えたらよいでしょうか。
佐野
難しいですね。まず「有の場所」とは、ここでは物(物体)ですね。後に出てくるように「物質」も含めてもいいでしょう。その立場では説明がつかない、「不合理」だ、これが「不合一」ということでしょう。物(個物)を空間によって量的に合理化しようとするのですが、どうしても合理化できない。この「空間」は単に量的な空間で、これを西田は「幾何学的空間」と呼んでいます。これじゃだめだということで、空間がすべての性質を含む空間と考える。これが西田の「物理的空間」です。これはプロトコルでも問題になりましたが、所謂物理学者の言う物理的空間ではありません。そこには色も音も匂いも味もあります。これらの性質がどのように存在しているかといえば、そこに「力」というものを考えざるを得ない、というわけです。それは「物の底に意志を入れて見る」ことだとされています。それによって「力の場所を生ずる」ことになるのです。「不合一」を感じるのは「意志の立場」以前の意識ということになるはずです。そうだとすれば「無なる意識の立場」は判断の立場としての「意識一般」と考えることができます。以前も判断の立場から意志の立場への「門口」が意識一般とされていました。以前は〈有の場所〉から〈相対的無の場所〉(空間、力ないし潜在によって満たされた場所)がどのように推移するかが述べられてはいませんでしたが、その推移に実は意識(意識一般)が関わっていたことがここで分かります。

C

「物(物体)」の基礎が「触覚筋覚」だというのはどういうことでしょうか。
佐野
これも『善の研究』にある思想(同68頁)です。遠くに有るものは小さく見えますね。Dさんの机はずいぶん小さく見えるし、ここから見ると台形のように見えます。これが視覚です。しかし実際に手を動かして触って見ると、そんなことはない。風呂桶の水に手を突っ込むと折れて見える。これが視覚ですが触って見ればそんなことはない。そこで触覚筋覚を基礎とするということです。それを基礎として、それに赤いとか甘いとか言った性質を「盛る」。こうして例えば「りんご」という「もの」の概念ができる、ということだと思います。

E

「物質の概念の成立」がよく分かりません。
佐野
確かに難しいですね。触覚筋覚を「何處までも推し進めて行く」と「最も一般的なる感覚的性質」になるとされ、これが「物質の概念」だとされていますね。この物質はどうも、水素だとか酸素だとかいう元素ではなさそうです。色や音は特殊な感覚的性質ですね。触覚によって感じられる性質も特殊です。こうした特殊を超えた「一般的なる感覚的性質」とは何でしょう。「特殊なる知覚対象」でもない、と言われている。おそらくとしか言えないのですが、西田がここで念頭に置いているのはアリストテレスの「共通感覚」のような気がします。実際それについては後に(257,7)出てきます。例えば私たちは赤と青を感覚的に区別していますが、同時に赤と甘いも区別していますね。そのためには視覚と味覚に共通した感覚がなければなりませんね。また音を聞く場合でもこれは「バイオリンの音」というように聴いているはずです。その場合にはすでに視覚的なもの(演奏の様子)も触覚的なもの(弓と弦の接触)も同時に感覚しています。また音が動いている(運動)とか止まっている(静止)とか、どれだけの音が鳴っているか(数)や長さだとか、メロディー(形)、音量(大きさ)なども同時に聴いていますね。またその音は「明るい音」だとか「乾いた音」だとか「重い音だ」などというような表現もする。つまり我々が感覚を捉える場合には、すでに触覚、視覚などのすべての感覚を一体未分として捉えていて、さらにそこには思惟も加わっているということになります。感覚と思惟も未分ということです。その中で識別が行われていることになります。西田は「判断作用の如く感覚を離れたものでない、感覚に附着して之を識別するのである」(257,9-10)というように表現しています。これらを分けるのは事後的な反省(判断作用)ということになります。この考え方は知情意の未分を説く純粋経験説によくなじみそうですね。因みにアリストテレスの分類ではこれらの議論は「受動的理性」に属するものとなります。今日はこの辺りにしておきましょう。
(第42回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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