自ら照らす鏡

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 259頁9行目「知覚の意識面を限定する境界線」から260頁12行目「知覚と云い得るのである」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「単に映す鏡」(259,15)「自ら照らす鏡」(260,1)で、「考えたことないし問い」は「対立的無の場所に於いて有るのが「単に映す鏡」(外を映す鏡(231 頁8-10 行目))、元来、真の無の場所の底にあるのが「自ら照らす鏡」(内を映す鏡(同上))、であるとした場合、「自ら照らす鏡」は矛盾の関係をどう映すのだろうか?「一般概念の外に出ることで矛盾の関係を見る(254 頁15行目)」ということとの関係をどう考えたらいいのだろうか?」(160字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
いくつかの対応関係が重なっていますね。整理しておきましょう。
1.「単に映す鏡(外を映す鏡)」と「自ら照らす鏡(内を映す鏡)」
2.「対立的無の場所」と「真の無の場所」
3.「一般概念」と「一般概念の外」
4.「相異」・「相反」と「矛盾」
さらにこれに
5.「限定せられた場所」と「限定する場所」
を加えることもできますね。それぞれ前と後が対応しています。さて、そこで何が問題になっているのでしょうか?

K

矛盾の概念をどう考えたらよいかということです。生成と消滅は普通に考えれば対立(相反)です。しかしこれを突き詰めて考えると、生成がそのまま消滅ということになる。例えば、生と死は普通に考えれば生は生だし、死は死です。しかし生はつねに死をはらみ、死は生をはらんでいます。これが「自ら照らす鏡」とどう関係するか、ということです。
佐野
矛盾を映す、ということではだめですか?矛盾が見えてくる、ということです。生と死について言われたことは、木の葉が緑から緑ならざるもの(黄色)に変化する場合にも言えますね。

K

ええ。緑はつねに黄色を抱え込んでいるということです。
佐野
同じことは〈塩が白くて辛い〉という場合にも言えるでしょう。「一般概念」によって限定せられた場所では、矛盾律が成立しなければなりません。緑は緑、黄色は黄色です。矛盾律を守ろうとすれば、塩の白と辛さが同時に成立しているということは矛盾ですから、両者は塩という〈物〉の性質である、このように考えるわけです。これは「相異」です。しかし〈物〉の性質でも反対のもの(「相反」)は同時には存在し得ない。その場合には〈時〉をもってくる。しかし相異の場合でも相反の場合でも、突き詰めて考えると、そこに矛盾が見えてくる。もちろんこの「突き詰める」というところに「超越」がなければなりませんが、そこに「矛盾の関係」が映し出されている。これが「自ら照らす鏡」ということでしょうね。

K

そこに「芸術的内容をも見る」とありますから、矛盾が照らされる場所は、言葉にならない感動の世界ということにもなると思います。じつは我々はつねに一般概念の内と外を出入して、言葉にならないものを言葉にしていると言えませんか?

A

〈この赤が赤である〉というのも、そうだと思います。「この赤」は無限に深いものだと思います。
佐野
そこにもじつは「特殊(この赤)」と「一般(赤一般)」の矛盾がありますね。一般という「一般概念」と特殊という「一般概念」が映し合っている。

A

合わせ鏡ですね。「鏡と鏡とが無限に限なく重なり合う」とありますけど、どういうことでしょうか。
佐野
知覚のことについては以前の「共通感覚」のところの記述(257頁)が参考になると思います。「感覚に附着して之(感覚:引用者)を識別する」(同10)ことによって、「知覚の野を何處までも深めて行く」(同7)。それによって「共通感覚」に到達するとあります。個々の音に「音調」(一般概念)、さらに「色調」(一般概念)がそれに重なり合う。

B

それは鏡と鏡が「重なり合う」のであって、合わせ鏡のように「映し合う」のとは違うのでは?

C

いや、やはり「映し合う」のだと思います。鏡ですから。そうして光源は「自ら照らす鏡」の方にある。
佐野
「鏡と鏡とが限なく重なり合う」という表現をどうイメージするのか、ピッタリ一枚に重なっているのか、それとも層をなして重なっているのか、それとも合わせ鏡のようになっているのか、それはここではペンディングにしておきましょう。プロトコルはこのくらいにして先を読み進めましょう。今日は260頁12行目「直覚を概念の反射鏡に」から261頁14行目「論理的知識が成立するのである」まで講読します。Cさん、読んでください。

C

読む(261頁1行目まで)。
佐野
「直覚を概念の反射鏡に照らして見る」とありますね。「概念の反射鏡」というのは?

C

「一般概念」だと思います。
佐野
そうですね。直覚が(知覚という)「一般概念」に映ったものが「知覚」だということですね。そうして「知覚を芸術的直観の如きものから区別して、之を知識と考え得る限り、それは直覚其者ではない」とありますが、「之」とは何を指していますか?

D

「知覚」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると、ここでは直覚を芸術的直観のようなものと同類に見て、それに概念と一つになった知識としての知覚を対比していることになります。直覚そのものは概念的言語を超えたものです。それを概念で切るところに土俵ができて、言葉で説明できるようになるわけです。つぎに「数学者の所謂連続の如きもの」とありますが、これは概念的なもので、目に見えるものではありません。ですからそのようなものは「見ることはできぬ」とあります。そうして「知覚の背後に」このような「概念を越えた何物かを見ると考えるのは芸術的内容の如きものでなければならぬ」とあります。芸術的内容は概念化できないということです。どこまでも分からない深いものです。それは「ベルクソンの云う如く唯之と共に生きることによって知り得る内容である」とあるように、対象化して知ることのできない、その意味では体で知るほかないものです。Dさん、次お願いします。

D

読む(261頁4行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか。ここでは「知覚の水平面」は「概念面」と平行して広がっていることが述べられています。ではEさん、次お願いします。

E

読む(261頁9行目まで)。
佐野
ここは難解です。述語が無、主語が有で、述語が主語を包んでいる、とは包摂判断ですね。それが「窮まる」。すると主語面(有)は述語面(無)に没する。それが「転回」の所と言われる。これはどういうことでしょうね。主語を対象化できないところ、判断が成立しないところと考えることができますね。

F

純粋経験のことでしょうか?
佐野
そうですね。本質的なところは同じかもしれない。先を読むと、その転回の所で「範疇的直観」が成立する、とあります。また「カントの意識一般」もおそらくここで成立する。これまでそれに乗っかって判断を行っていた、「一般概念」が直観される。ところでカントの意識一般は「一般概念」ですか?

G

違うと思います。テキストにも「無の場所」とあります。
佐野
そうですね。ですがカントの意識一般を以前、西田はどのように位置づけていたか覚えていますか?

G

対立的無の場所と真の無の場所の間の「門口」です。
佐野
そうでしたね。ここでも意識一般は転回点として位置付けられています。さらに西田は「かかる転回を一般概念によって限定せられた場所の外に出る」と言っています。「一般概念によって限定せられた場所」でひとまとまりです。さらにそれを言い換えて「小語から大語に移り行く」と述べています。「小語」とは「ソクラテス」のような特殊面でした。今までこれが主語になっていたのです。それに対して「大語」とは「死すべきもの」のような一般面でした。これが述語を成していました。ですから「小語から大語に移り行く」とは、これまで主語的なるものが基体であったのが、「述語的なるものが基体となる」ことであり、「これまで有であった主語面をそのままに述語面に没入する」ということになるのです。このように主語面が述語面に没入し、述語面が基体となることで、今度は逆に、「特殊なるものの中に一般的なるものを包摂するという意志の意味を含んで来る」ことになります。ここに意志の成立を見るのです。もう少し時間がありますね。次の段落に行きましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(261頁14行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか。ここは大前提(人間は死すべきものである)―小前提(ソクラテスは人間である)―結論(ソクラテスは死ぬ)を、大語(死すべきもの)―媒語(人間)―小語(ソクラテス)というように語によって連結させて「推理式」と呼んでいます。これをさらに一般化させると、まず「最高の一般概念」があって、無限の特殊化の過程を経て個物に至る、と考えられます。これを西田は「論理的知識」と呼んでいます。今日はここまでにしましょう。
(第51回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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