場所としての一般概念

今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードは「アリストテレスの所謂共通感覚の如きもの」(257,7-8)で、考えたことないし問いは「西田は「場所としての一般概念」を、感覚と乖離し内容を分別(識別)する判断作用のようなものではなく、感覚に附着し特殊な感覚的内容を分別する共通感覚のようなものだとしている。また音や色などの特殊な知覚的内容は「一つの知覚の野に於いてあ」り、この知覚の野を深めることで共通感覚のようなものに到るとされる。『善の研究』では、感覚や知覚は端的に純粋経験の事実に属するが、新たな事象を学習することはないのだろうか」(200字)でした。
佐野
この問いについて口頭でお伝えしたいことがあるとのことですが…

Y

通常の経験では、自分がいて、そうして熱いものがあって、それで「熱い」となります。そうして子供が次第に熱いお茶を飲めるようになっていきます。つまり通常の経験は成長すると考えられます。学びが可能だということです。西田の考える「共通感覚」は『善の研究』の「純粋経験」に通じるものだと思いますが、「純粋経験」は「自分がいて、そうして熱いものがあって」という考え方をしていません。そうなると「純粋経験」に成長や学びはあるのか、ということが問題となります。
佐野
「自分がいて、そうして熱いものがあって、それで「熱い」となる」というのは、すでに反省されたものですね。そうした反省以前の「熱い」をどのようにお考えですか?

Y

まず「感覚」の段階があります。これは「熱い」と感じる前、言葉以前です。次に「知覚」の段階が来ます。これは感覚を知り得た段階で、「熱い」という言葉によって感覚をとらえた時です。感覚と知覚の間には断絶はありますが、無関係ではなく、通常セットになっています。
佐野
言語以前の感覚と言語的な知覚、合わせて通常の経験ですね。これを反省して「自分がいて…」というように反省される、ということですね。この場合成長や学びはどうなりますか。感覚や知覚にも成長や学びがあるということですか?

Y

はい。どちらも成長すると思います。
佐野
Tさん、何か発言したそうですね。どうぞ。

T

生活上は成長するという実感があります。嗅覚と味覚は明確な区別は難しいのですが、どちらもはじめ違和感があっても体験を経ることで、例えば順応とか耐性ができるという仕方で変わっていきます。
佐野
熱いものに触れて「反射」によって手を引っ込める場合は?その場合でも同じことが言えますか?

T

「反射」の場合は分けて考えた方がいいと思います。予測ができれば熱いものに対する反応も抑制できると思います。
佐野
「とっさ」の場合や「思わず」の場合はどう?

T

その場合は「反射」的な行動になると思いますが、その場合でも例えば柔道の稽古をしていた人がとっさに受け身を取るように、行動内容は変わってくると思います。
佐野
Tさんも感覚・知覚は成長するとお考えのようです。純粋経験はどうでしょうか。

T

純粋経験が変わらないというのはおかしい感じがします。やはり成長するのではないでしょうか。芸術体験などを考えればそれは言えると思います。
佐野
子供のころはビー玉が美しいと思っていたけど、大人になり、老人になるにつれて石が面白いと思うようになる。ここに成長があると。

T

子供が美しいと感じることも老人が美しいと感じるのと遜色ない気もします。

N

老いというのが出てきたので申し上げます。私はあと少しで後期高齢者ですが、老いてますます成長するのが芸術だと思います。
佐野
ベートーヴェンでも中期よりも後期の方が優れていると。

N

やはり後期です。ただ、共通感覚の第一の意味(狭義)である、運動や静止、大きさや数、形などは成長しない。それに対して色、音、味などに対する感覚は成長すると思います。

Y

西田も「純粋経験」は自発自展すると言っていますが、これは成長するということに通ずると思います。分からないことが分かるようになるということ、これが成長だと思います。

O

「純粋経験」に成長があるとかないとか言うことに違和感があります。どちらもこちらの都合のようで。つまり人間から見た解釈に過ぎません。そもそも2時点の比較ですから。

N

発展しないと同時に、人間は絶えず発展成長するという、二つが共存しているのが「純粋経験」なのでは?
佐野
西田も「純粋経験」については静中動、動中静という言い方をしていますね。今日はこの辺りにしておきましょう。本日は257頁10行目から258頁8行目まで講読します。まずアリストテレスの「共通感覚」の如きものが「場所としての一般概念」とされます。そうしてそれが「更に無限に深い無の場所としての一般概念」に映された「影像」が「所謂一般概念」だとされます。「場所としての一般概念」は「無の場所」に「更に無限に深い」という仕方で通じています(後に259,13-15でこの事態を「一般概念の外に出る」として押さえながら、それは「限定せられた場所から限定する場所に行くこと」、「対立的無の場所」から「真の無の場所」に到ることだとしています。これについてはその時になって考えることにしましょう)。

A

次に「知覚が充実して行くというのは、此の如き場所としての一般者が自己自身を充実し行くことである」とあって、さらに「その行先が無限であって、無限に自己を充実して行くが故に作用と考えられる、而してその限なき行先は志向的対象として之に含まれると考えられる」とありますね。最初の文は西田の考えだと思いますが、あとの「考えられる」も西田の「考え」でしょうか。
佐野
違うと思います。「志向的対象」とあるように、これは初期フッサール批判です。フッサールは「所謂一般概念」(「限定せられた場所」(259,12)、「意識せられた意識」(248,15))が無限に自己を充実して行く「行先」を「志向的対象」(主語)の方向に考えるのに対し、西田はそうではないと考えます。そうして「場所としての一般概念」(「限定する場所」、「意識する意識」)が無限に自己を充実して行く「行先」が「無限に深い場所に於てある」、そのように考えます。この「無限に深い場所に於てある」もの、それは主語の方向にあるのではなく、逆に述語の方向の「無限に深い場所」に於てある、ということだと思います。

B

次に「斯くその底が無限に深い無なるが故に、意識に於ては、要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立するのである」とありますが、よくわかりません。無なのに何故「その底が無限に深い」などという必要があるのですか?
佐野
「場所としての一般概念」を徹底させると「真の無の場所」に到らざるを得ない、ということがあると思います。たしかに「一般」を徹底すれば、有と無の対立をも超えて行かなければなりません。

C

「要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立する」とはどういうことでしょうか。イメージできません。
佐野
難しいですね。要素とは例えば「この音(ド)」のことです。個物と言ってもいいと思います。それはそれだけで成り立っていません。それに先立つ音やこれから来るであろう音、さらにはほかの音、音だけではなくて音色も、というような仕方で、すべての感覚がこの一音に凝縮しています。要素がそのまま全体、とはこのような事態を言っているのでしょう。そうして要素(個物)がこのような在り方を現わすのは、それが真の無の場所に於てあるからだ、そう西田は言わんとしていると思います。個物はどこまでも語り得ない。その語り得ないままに立ち現れている、それが「その儘にして」ということだと思います。真の無の場所に於て、一即一切、一切即一が成立している、そんな感じです。

D

次に「作用の作用」が出てきて、作用と作用を結合するものは「裏面に於ては意志」だとされています。表面は「知覚」ということでいいでしょうか。
佐野
面白いですね。それで読んで見ましょう。しかしその意志も「直に作用と作用を結合するのでない」とされ、意志も「此の場所に映されたる影像に過ぎない」とか「意志も尚一般概念を離れることはできない」とありますね。この「一般概念」は「所謂一般概念」でしょうか、それとも「場所としての一般概念」でしょうか。

D

「場所としての一般概念」だと思います。
佐野
ですが、そうした一般概念を離れられない意志も「影像」だとされていますね。以前「影像」は「所謂一般概念」について用いられていました(257,11)。ですからこの「一般概念」も「所謂一般概念」と考えるべきでしょう。我々の通常の意志はつねに目的概念を必要とし、それは「所謂一般概念」です。そうした場合の意志も「影像」だとされています。この意志は「作用としての意志」です。それについては229頁をご覧ください。今日はここまでにしましょう。
(第48回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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