述語面に於いて意識される

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落278頁4行目「始から主客の対立を」から同段落末279頁13行目までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードは「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができないのである」(279,5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「言葉にするということは対象を判断の述語面に映すということである。鏡に映すということである。それは対象としては矛盾を含まないものに対し、矛盾を与える事であり、そうした矛盾を生み出す存在として今、私は在る。しかし、西田のいう「我」は「誰の我でもなく、誰の我でもある。そうした我である」(読書会だより10月14日)という。またテキストに「直観といふのは述語的なるものが主語となることである」(275.8)とある。述語的なるものが主語となるような事態、直観においては、矛盾を生み出す存在である私も「我」として存在し得るのだろうか」(256字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Mさん、何か付け加えることはありますか?

M

「読書会だより」に「意識せられた意識」に対するものとして「意識する意識」というのが取り上げられています。その場合、「意識せられた意識」は『善の研究』で言えば、第二編の直接経験で、それは「限定せられた一般者」になると思います。それに対し、「意識する意識」は第一編冒頭の「純粋経験」で、これは「真の一般者」です。そうした場合、「意識する意識」は「意識するものなくして意識する意識」であるとも思えるのですが、この行為的主体のないように思えるものがどうやって意識するものを私たちの認識にもたらすのでしょうか。「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」がどうやって私に認識をもたらすのかというのを問うてみたかったのです。
佐野
難しいですね。少し問いを整理してみましょう。対象が矛盾を含まないというのは、277頁12行目を受けていますね。

M

はい。
佐野
つまり、対象は生即死、有即無という在り方をしている。それが判断の述語面に映された時に矛盾となる、ということでしたね。

M

はい。
佐野
述語面とは意識面のことです。そこで意識とは「矛盾を生み出す存在」で、それが「私」だと。

M

はい。
佐野
それに対して「我」とは「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」であり、これが「意識する意識」だと。

M

はい。『善の研究』にも「意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬという意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明に独断である」(岩波文庫改版74頁)とありました。
佐野
そうすると、問いは「我」がどうして「私」になるのか、つまり「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」が「矛盾を生み出す私」になるのか、「意識する意識」が「意識」ないし「認識」をもたらすのか、ということですね。

M

そうです。「直観というのは述語的なるものが主語となることである」とありますが、これは「意識するものなくして意識する意識」のこと、つまり「意識する意識」のことだと思います。
佐野
以前その箇所を読んだ時は、それを「包むものなくして包む」と解釈しましたね。

M

この直観は「自己が自己に於て自己を見る」ということで、この内「自己に於て」というのが「体験の場所」です。西田は同時に「自己を失う」とも言っています。これは「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」だと思うのです。それがどうして認識を生むのか、そういう問いです。
佐野
それでは、皆さん、ご自由に質問してください。

R

「考えたことないし問い」に「矛盾を産み出す存在として今、私は在る」とありますが、どうして「在る」と言えるのですか?
佐野
たしかにその問いは起こりますね。Rさんはこの「私」をどのように考えますか?

R

この「私」はすでに「意識された意識」だと思います。それは認めたくない自分だが認めざるを得ない自分である、そういう自分としてあるのだと思います。
佐野
在る、と言ってよいのですか?

R

言ってはいけないけれど、そうした矛盾として在るということです。

M

たしかに「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができない」という側面から言えば、「在る」とは言えないですね。しかしこの「知る」は判断で、今問題にしているのは直観です。直観においてどうして「私」があると言えるのか、そういう問題です。
佐野
この「私」は〈Mさん〉というような〈個としての私〉ではないですね?

M

違います。認識がどう成り立つか、です。『善の研究』でもすべてが純粋経験の発展となっていますが、それを「場所」において見るというのが「場所」の論文だと思います。その場合の「見る」というのが「誰の我でもない我」であるのに、どうして認識が生ずるか、ということです。
佐野
西田は『善の研究』では純粋経験から出発していますね。

M

はい。「場所」論文では「有るものは何かに於てなければならぬ」から出発しています。
佐野
ええ。おそらく認識は、そうした場所の自己限定ということになるでしょうが、これは純粋経験の自己発展と同じことですね。しかし「純粋経験」にしても「有るものが有る」という経験にしても、或る種の〈驚き〉であり、そこには出会いがあり、したがって〈他者の契機〉が必要だと思うのです。それがないとそもそも「体験」という出来事もありえないし、「認識」ということも、まして〈個としての私〉も出て来ないように思います。(後で考えたことですが、「意識する意識」とは〈意識するものなくして意識する〉ということであり、この〈意識するものなくして〉というところが「真の無の場所」になるのでしょう。それは「自己が自己に於て自己を見る」において、最初の「自己」が無になることで「自己に於て」という「真の無の場所」になるということだと思います。したがってこの「真の無の場所」は「意識するものなくして意識する」(「自己なくして自己を見る」)が成立する場所として、すでに有即無といった矛盾を含んでいます。このうち有が主語、無が述語ですが、この有を無が包むという仕方で有と無が同一の述語面に於てある、と考えられます。主語は有即無として「対立なき対象」ですが、それ自体が有とされることで、述語と対立・矛盾し、こうして述語面において矛盾が顕わになる、「矛盾するとは述語のことである」と言えるのではないでしょうか。Mさんの問いに即して言えば、「誰の我でもなく、誰の我でもあるそうした我」が「矛盾を産み出す存在」としての「私」になるということです。どうでしょうか?)プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(279頁13行目~280頁1行目)
佐野
「直観というのは主語面が述語面の中に没入することに外ならない」とありますが、こうした直観の規定と、先の「直観といふのは述語的なるものが主語となることである」という規定と整合的に理解できますか?

B

主語面が述語面に没入して、そうした述語面が主語となるということで、大丈夫です。
佐野
ほかにありませんか?

C

「対立なき対象」というのが分かりません。
佐野
「対立なき対象」ということでまず思い浮かぶのはラスクです。ラスクの「対立なき対象」は判断以前のものでしたね。あるいはこれを277頁に出てきた、矛盾を含まない「対象其者」と考えることもできますね。ここでは数学において空間が三角形を「含む」あるいは「包む」とか、三角形が空間に「含まれる」「包まれる」とかいう、いわば第二次的な関係より先に「すべてが空間である」ということがなければならないのと同様、「経験科学的判断」においてもまずはすべてが「意識界」だと言おうとしていますね。

D

279頁には「数学的判断」の場合には特殊の面と一般の面とが「単に合同する」のに対し、「経験科学判断」の場合には「特殊を含む一般の面が之(特殊)を包んで餘ある」とありますが。
佐野
そうですね。数学の場合に「包む」「包まれる」と言ったのは間違いですね。5(特殊)が数(一般)であるとか、三角形が空間であるとかいうのは、厳密には「含む」「含まれる」というよりは5がそのまま数であり、三角形がそのまま空間である、ということでしょう。「含む」「含まれる」という関係はあくまで二次的だということです。次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(280頁2行目~9行目)
佐野
「意識」されるということが「述語面に於てある」ということで、思惟の対象も、知覚の対象も、意識としての「作用」も同一の「意識面」つまり「述語面」あるとされています。次いで「意識面というのは判断の主語を包み込んだ述語面」とありますね。今度は「包む」です。このように「包み込まれた主語面が対立なき対象となり、その余地が意味の世界となる」とあります。図に描きたくなりますね。ドーナツ型の二重の円になりますね。外側の円が述語面ですが、真の無として本来それには一定の大きさはないのですが、一応このように描いておきます。それに対して内側の円が主語面になります。その間のドーナツの部分が「意味の世界」ですね。次を読むと内側の円はさらに「感覚的なるもの」「直覚的なるもの」が来て、ドーナツの部分に「意味の縁暈」「思惟的なるもの」が来そうですね。

E

質問があります。「余地」(ドーナツの部分のこと:佐野)とありますが、これは1行目等にある「尚餘ある」を受けているのでしょうか。
佐野
そうだと思います。279頁8行目にもありますね。「経験科学的判断」の場合です。他にありますか。

F

「対立なき対象」が主語面に来て、「意味の世界」がその外にありますが、ラスクの場合、すべてが意味ではなかったですか?
佐野
そうですね。そうなるとこの「対立なき対象」はラスクを離れて、西田の言葉として理解しなければなりませんね。例えば判断以前の矛盾なき対象のようなものを考えて見てはどうでしょうか。

F

分かりました。もう一つ質問があります。この「直覚的なるもの」は西田の本来的な意味での直覚ではなく、感覚的なものと置き換えられているので、カント的な感性的直観のことではないでしょうか。
佐野
なるほど。そうするとこれまでに出てきた、たとえば「直観というのは主語面が述語面に没入することに外ならない」とあったのも、実はカント的な感性的直観に限定されると。ここでは一応、そうした読みの可能性もあることを頭の隅に置いたまま、次を読み進めましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(280頁9行目~13行目)
佐野
「普通には」とありますので、これは西田の立場でありませんね。普通は「知る」ということを主観客観の対立の中で考えるから、「対立なき対象」が主観の外に置かれて、「概念的なるもの」、カテゴリーなどの一般概念ですね、それが主観においてあると考えられる、というわけです。しかし西田はそうじゃない、と言います。「所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、意味とは之によって起こされるその意識面の種々なる変化である、恰も力の場の如きものである」、このように言います。指示語がありますね。「之」とは何でしょう。

D

「輪郭」ではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。もう一つ指示語がありますね。「その意識面」の「その」とは?これも「輪郭」でしょうね。そうすると「その意識面」とは「輪郭」に属する「意識面」ということでしょう。こうなると円は三重になりますね。ドーナツの部分にもう一つ円が描かれることになる。「一般概念」の円です。この一般概念によってその円内の「意味」は矛盾のないものとなります。「種々なる変化」とはそうした「一般概念」のうちに主語面が置かれることによってさまざまな意味を生ずる、ということでしょう。そうしてそれが「力の場」のようだ、そのように言っているのではないでしょうか。とりあえずこのように解釈しておきましょう。次をDさん、お願いします。

D

読む(280頁13行目~281頁3行目)
佐野
「意識に於ては意味が内在するのみならず、対象も内在するのである」、これはよろしいですね。次に「志向的関係」と出てきますが、これはフッサールを念頭に置いたものでしょう。フッサールによれば志向的関係とは「意識外のものを志向する」のだが、そうではなくそれは「意識面に於てあるものの力線」だというのです。フッサールは意識が志向する対象は表象ではなく、意識外の対象だとしますが、西田はそれをも含めて、「意識面に於てある」と考えていることになります。

E

「力線」とはどういうことでしょうか?
佐野
「一般概念」の「輪郭」に囲まれた部分を「力の場」と呼んだことに関連しています。その場に対象が置かれるとその対象の方向に力が働きますが、これを「力線」(力の場で、接線がその点における力の方向と一致するように引いた曲線群)と呼んで、こうしたものが「志向的関係」だというのでしょう。

F

次の「自同律」とは何ですか?
佐野
〈AはAである〉ということです。矛盾律〈Aは非Aではない〉と言い換えてもいいと思います。そうすると「普通に自同律に於て表される直覚面」とは「対立〔矛盾〕なき対象」のことだと考えられ、これまでの叙述とも整合的になります。テキストでは、「普通には」そうした「直覚面」を「意識面」から除去して、「剰余面」だけを「意識面」と考えている、そうした場合には、この意識面は「対立的無の場所」になるとしています。これに対し「直覚的なるものは自己自身に同一なるものとして、述語面の中に含まれて居なければならない」と述べ、そのような述語面を「真の無の場所」と考えているようです。今日はここまでとしましょう。
(第66回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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