「知る」ということの二つの方向

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」の前文と「一」第1段落290頁1行目「哲学研究第二十七号に掲載せられた左右田博士の論文を読み」から293頁2行目「併し自覚の自覚といふ如きは空虚なる言辞に過ぎない」まで講読しました。今回のプロトコルはHさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「我々の眞の自覺とは如何なるものであるか。自覺は自覺自身の内に深く反省して見なければならぬ」(292,11-12)と「自覺には深淺と種々の段階とを考へることはできるであらう。併し自覺の自覺といふ如きは空虚なる言辭に過ぎない」(292,15-293,2)の二文でした。そうして「考えたことないし問い」は「眞の自覺は、自覺自身の内に深く反省することで到達するものとしているが、自覺には深浅と種々の段階はなく、反省を繰り返すうちに、直ちに眞の自覺に到達するものであり、かつ、それは「絶対無の場所」を自覺することだと、理解をしていいのか」(113字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
「自覺には深淺と種々の段階とを考へることはできるであらう」を誰の主張とお考えですか?

H

左右田博士です。
佐野
西田の主張とも取れますね。他の方はいかがですか?

K

私も西田の主張と取りました。
佐野
そうですね。ここで言われる「自覚の深浅と種々の段階」が295頁8~10行目に具体的に述べられています。「判断的自覚」と「意志的自覚」と「直覚的自覚」の三段階がそれです。

H

よく分かりました。
佐野
「真の自覚」が「絶対無の場所」において成立するというのはその通りだと思います。それでは本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(293頁3行目~7行目)

A

「理論理性によって認識するということ」と「理論理性其者の自省」の関係がよく分かりません。
佐野
我々は理論理性を用いて認識しているわけですが、そのこと自体(あるいはそうした認識に没入している在り方)と、そのように認識している、と反省していることとは異なります。この後の方の在り方が「理論理性其者の自省」という在り方です。数学や物理学に専念していることと、それが「如何にして可能か」を論じる立場は異なります。何でそんな問いが生じるかというと、人間は数学や物理学というようないわゆる自然科学を超えて、形而上学にまで突き進むわけですが、我々が理論理性を用いているのである以上、もしかすると正しく用いていない可能性があるからです。そこで認識批判(批評)が必要になるのです。その結果カントにおいては数学や物理学は無罪判決、理論理性による形而上学は有罪判決を受けることになります。経験的に知り得ないものを知ろうとしている、ということです。こうして「理論理性其者の自省」の立場が「対象的知識を批評する批評哲学其者」の立場と重なることになります。西田はカントがこうした「理論理性自身の自省」ないし「批評哲学」の立場を明らかにしていない、と批判するのです。

A

分かりました。ですが、その場合「体験」はどうなるのでしょうか。「理論理性の自省其者が既に体験の一種」とあり、それは「認識以前」だということですから、西田は認識以前の体験から認識が出て来ると。
佐野
そういうことになりますね。また西田は「認識以前」の「体験」によって、「理論理性の自省」の立場の「一般妥当性」を要求できる、つまりその立場を明らかにできるとしています。さて、これはどうでしょうね。左右田博士からすれば、「認識以前」と言っても「体験」と言っても、すでに認識だ、理論理性の枠組みで成り立っている、と主張するでしょうね。そうして知ることのできない「認識以前」の事柄について直接法でああだこうだ断言することは理性の越権だと言うでしょうね。

B

体験と認識の関係ですが、リンゴが落ちることは誰でも体験しているけれども、そこにニュートンが万有引力を認識した、というような関係を言っているのですか?
佐野
「リンゴが落ちる」というのもすでに認識です。我々は一面において認識を一歩も出ることはできません。体験と言っても、認識以前と言ってもすでに認識です。無意識と言っても、無意識を無意識として意識したら無意識でないのと同様です。しかし他方で、我々はたしかに「認識以前」を生きています。眠っている時もそうだし、赤ちゃんの時もそうだ。あるいは何かに集中している状態やぼーっとしている時だってそうです。そこに何かをしている、とかぼーっとしているとかいうような「認識」はない。我々は日常生活の中では「認識」以前を「生きている(存在している)」(そういってしまえばすでに「認識」ですが)はずです。西田はそうした「認識」以前を問題にします。左右田博士からすれば、それは「知り得ない」ということになります。認識を一歩も出ることができないのと同時にすでにそこを生きている、というのは人間が抱える矛盾で、おそらく両者の思想の対決には決着はつかないだろうと思います。次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(293頁7行目~11行目)
佐野
「自覚ということは単に心理学的事実ではない、単に心理的事実としては自覚の意識は出て来ない」のところはどうですか?

C

心理学の中で、自覚を論じても、そこに「自覚の意識」はない、ということだと思います。
佐野
そうですね。自覚ということを心理学の対象にしている、たとえ、内観法による心理学でも、内観によって対象化している、ということでしょう。そうなると、それは「自覚の意識」ではなく、〈対象の意識〉だということになる。

C

次に「私は自己を形而上学的存在と考えることすら、自覚の意識と矛盾すると思う」とありますが、これはどういう意味ですか?
佐野
たとえばデカルトが「Cogito, ergo sum(私は考える、それ故に私は在る)」という「自覚の意識」に基づいて、「自己」の存在を証明し、かつこれを「実体」としたなどを念頭に置いているのだと思います。このように「実体」化してしまうと、〈対象の意識〉になってしまう、そういうことだと思います。カントは自己をこのように実体化して形而上学的自己とすることを誤謬推理だとして批判しています。

D

どういうことでしょうか?
佐野
「私は考える」という場合の「私=考える」は認識・判断(「AはBである」)の「地」と言うべきもので、どこまでも対象化できないものです。これを形而上学的に対象化・実体化したということです。ところで、ここには心理学的でもない、形而上学的でもない、「自覚の意識」ないし「体験」に基づく哲学が西田の立場として主張されているよう読めますね。

D

はい。
佐野
ヘーゲル哲学後、その反動として反形而上学への傾向が生じますが、それは実証主義、心理主義、歴史主義という形を取りました。心理主義は哲学を心理学に還元するような思想傾向です。ヴントなどがそうですが、明治時代にはこうした哲学が流入してきており、西田もヴントやジェームズなどから多くを学び、自身も旧制高校(四校)で心理学の教鞭をとっていました。こうした心理主義はフッサールや新カント学派によって厳しく批判されることになります。西田はこうした心理主義ではない、しかも従来の形而上学でもない、心理の上に立てられた新たな形而上学(経験の彼方にではなく、此方に脱する形而上学)を構想し、これを「純粋経験の哲学」として展開し、かつこの立場を正当化しようと試みた。そうして出来上がった書が『善の研究』だと考えられるのです。これは私の解釈にすぎませんが・・・。要するに『善の研究』で試みられた西田の立場が第4巻のこの論文にまで引き継がれている、ということです(1907年7月13日鈴木大拙宛書簡、および『純粋経験に関する断章』「断片32」16,554を参照)。

D

分かりました。
佐野
次に「カントの後に出たフィヒテやヘーゲルの哲学が形而上学に陥ったという非難は何處までも弁護することはできないが、又単に之をカント以前の形而上学に逆転したと考えるならば、早計たるを免れない」とありますが、「之」とは何を指しますか?

D

「フィヒテやヘーゲルの哲学が形而上学に陥った」ということではないでしょうか?
佐野
なるほど。

E

私は「フィヒテやヘーゲルの哲学」だと思いました。
佐野
私もそう思いましたが、どちらでも行けそうですね。「カント以前の形而上学」とは先程出て来たデカルトや、スピノザ、ライプニッツなどの哲学を指します。これらをカントの「批評哲学」が批判したわけです。そうしてカント以後、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった、いわゆる「ドイツ観念論」が展開されます。これらの哲学が一面で「形而上学に陥った」と言えるけれども、単純にカント以前に逆転した、というわけではない、と言っていることになりますね。これはどういうことでしょう?

F

分かりません。
佐野
文脈からして、おそらく西田は「理論理性の自省」という仕方で、カントの「批評哲学」の立場を基礎づけようとしたのが、ドイツ観念論だと考えているのではないでしょうか。まずはフィヒテが自我の自己定立(事行)という仕方で「自我」によって。この自我はなお客観と対立していましたから、さらにシェリング(初期)は、これを主客の絶対的同一性としての「絶対者」から基礎づけようとしました。この「絶対者」は「同一性」として「区別」に対立していましたから、「絶対者」を「同一性と非同一性(区別)との同一性」として動的・弁証法的に考えたのがヘーゲルでした。しかし彼らにあっては、「自我」にせよ「絶対者」にせよ、またしても形而上学的に対象化・実体化されてしまった、というのが西田の見立てなのだと思います。そうしてこれが現在でも「定説」なのかもしれませんが、少なくとも私には(少なくともヘーゲルは)そんな簡単にはいかないだろうと思います。次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(293頁12行目「二」~294頁7行目)
佐野
「知る」に「二つの方向」があって、それが「対象認識の方向」と「自覚の方向」であることが述べられ、この段落では「対象認識」が扱われています。4つ出て来ますね。何ですか?

C

「自然界の認識」、「合目的的世界の認識」、「心理的現象界の認識」、「歴史的世界の認識」です。
佐野
そうですね。「自然界の認識」というのは「物理学」を念頭に置いているでしょう。これに対し「合目的的世界の認識」は生物学、「心理的現象界の認識」は心理学、「歴史的世界の認識」は歴史学が念頭に置かれています。

C

「限定的判断」と「反省的判断」とありますが、どういうことですか?
佐野
カントの用語ですね。一般に「判断力」とは特殊を普遍(原理・原則)に包摂する能力ですが、普遍が与えられていて、特殊をその下に包摂する判断力が、「規定(限定)的判断力」で、逆に特殊が与えられているけれども、普遍は求められるものにとどまるのが「反省的判断力」です。そうした普遍は「ある・である」と直接法では語られず、「あるかのように」と接続法(仮定法)で語られることになります。「物理学」の場合には、例えば「因果律」のような「原則」のもとに、個々の特殊な現象が包括されるのに対し、「生物学」の場合、「生命」はそうした原則にはなりません。あくまで「いのちがあるが如くに」謙虚な語り口で語られることになります。

C

それが「自覚的形式の方向に傾いたもの」というのは、「生物」のうちに自分自身を見るということでしょうか?
佐野
そうだと思います。あくまでも「あたかも」ということになるでしょうが、私たち自身も「いのち」ですから、そういうことになると思います。それを言えば「自然界の認識」における、物や力も私たち自身が活動的な身体的存在ですから、それらのうちに(あたかも)自分自身を見ている、ということにもなりますね。それはともかく、生物の次は人間の魂(こころ)ですね。人間の主観的方面です。そうして「歴史」、これは人間の客観的方面と考えることができますね。そういうもののうちにも我々は(あたかも)自分自身を見ている、ということになります。

D

「新なる立場を加える」とありますが、どういうことでしょうか?
佐野
物やその運動を見る時と、生物を見る時では判断力の使い方が違っていますね。生物における様々な現象を我々は「生命現象」と呼んで、そこに恰も「生命」があるが如くに認識し、そのように語ります。「心理的現象」の場合も同様です。その場合はそこに恰も「こころ」があるかのように認識し、そのように語ります。これまでのこうした自然科学的な見方は、法則(普遍)を見出していく方向で対象を見ますが、「歴史学」のような人文学の場合にはむしろ、個々の出来事や個人が問題になるというように、見方が変わってきます。新しい立場に変わるごとに「立場の超越」があるけれども、「知識の外に出て行く」わけではない、とされます。そうした知識について、じつは(「自然界の認識」も含めて)「すべてが自覚の中に包まれて居る」と言える、というのがここでの西田の主張だと思います。ここから第2段落に移ります。Dさん、お願いします。

D

読む(294頁8行目~295頁1行目)
佐野
難しくなってきましたね。冒頭の「自覚というのは、知るものと知られるものとが一であると云う様に、対象的に認識することではない」をどのように理解したらよいでしょうか?

E

鏡のことではないでしょうか?
佐野
でも「見るもの」ではなく、「知るものと知られるものとが一」とありますね。鏡に限定されない気もしますが。

F

主客合一のことではないでしょうか。
佐野
しかし「対象的に自己を同一として認識する」という条件がありますね。テキストではこれを「同一」と呼び、それから「自己同一」を区別しているようです。「同一」とはどうやら対象に自己を一体化させることのようですね。何かに集中したり没頭したりする場合にはそうした対象に自己を一体化させることが考えられますね。しかしそのように対象に「自己」を奪われるような在り方は「自己同一」ではないと。もちろんそうした没入状態も我に返らなければ「認識」にはなりませんけれども。

E

反省的判断の場合にはそういうことが起っているのではないでしょうか?
佐野
生物を見てそこに自己を見る場合ですね。私の家には今、ポメラニアンのベラがいます。彼女はご飯を欲しがったり、散歩に行きたがったりします。私はそこに自分と同じ「いのち」を感じるのですが、その場合、おそらく「反省的判断」などというような面倒なことは考えてはいないでしょう。ベラは「あたかも」ご飯を食べたがっているかのようである、などとは感じない。もちろんどのように感じているのか、それは分かりませんが、もっとストレートに(直接法的に)そう思う。ただその場合でも、対象の側に自己を感情移入させているわけで、これは典型的な「同一」と言えると思います。これは生物だけでなく、他者における心理現象や歴史的現象についても同じように言えると思います。対象的に認識しつつ、そのうちに自己を同一化する仕方です。同じことは物理現象でも、つまり物の認識や力の認識でも言えると思います。我々が物や力を認識できるのはそこに我々自身を見出すからです。逆に言えば物や力は我々の存在や意志の投影とも言えるわけです。しかしそうした認識では「自己同一」(「自覚」)とは言えない、そのように西田は考えているようです。

E

それでは「自己同一」とはどういうものでしょうか?
佐野
それは次に書いてありますね。これがまた大変難しい。まずそれは「作用の自覚(作用の作用)」の方向だとされます。「従来の論文に於て云った如く」とあるように、この表現は、第4巻では「直観と意志」において見ることができます。西田の自覚の立場は、フィヒテの事行(Tathandlung)や、ロイスの例の「英国にいて完全なる英国の地図を写す」にヒントを得ていますが、目下のテキストで言わんとしていることは、描き終わった地図(対象)の方ではなく、その手前の、これから描こうとしている作用の直観(自覚)の方に「真の自己同一」がある、ということです。ここまで、大丈夫でしょうか?

E

はい。
佐野
「而して更に」と続きます。「作用ということを判断意識の立場より「働くもの」に於て論じた如く考え得るならば」と、今度は論文「働くもの」が出て来ます。論文「働くもの」は「働く」(作用)を「知る」(自覚)に包摂しようとしたもの(175頁)ですが、その際出立点を「判断的知識」に取りました(177,4)。その最後の部分では次のようなことが述べられています。ちょっと難しいのですが・・・

E

お願いします。
佐野
「判断」とは「一般的なるものが自己の中に自己を映す反省」ですが、映すものと映されるものが一つにならず、一般と特殊の間にどこまでも間隙が残ります。ちょうど英国の地図が先の方向へとどこまでも連なる感じです。ところがこの反省作用そのものが自己の中に映される「自覚の立場」ではそうした間隙がありません。英国の地図で言えば、描く手前を見ている状態ですね。「働くもの」の最後の部分では、そうした「自覚の立場」に「物と空間」、「働くもの(力)と力の場」など、後(「場所」論文)では「有の場所」と呼ばれるような段階を置いています。そうして「唯、意識の野という如きものに至って、一般的なるものが真に自己自身を無にすると云うことができる」(207,4-5)と述べられています。そこでは、「意識の野」は「絶対の無」とも呼ばれていますね。ここまで、いかがでしょうか?

E

それが今読んでいるところでは、「真の自覚の意識は述語的一般が無となること、即ち真の無の場所に求めなければならぬ」ということになるのですね。
佐野
そうです。この部分を読むにあたってのポイントはどこまでも、「対象認識の方向」と「自覚の方向」の区別です。これを引き継いで、さらに「述語的一般が対立的無として限定せられ得るかぎり、尚所謂知識的自覚に属する」と来ますね。これは主客の対立を残したまま、対象において自己を見る(自覚)立場です。先に「自然界の認識」、「合目的的世界」、「心理的現象界の認識」、「歴史的世界の認識」と順に出て来ましたが、そのどれもが世界の中に自己を見ているけれども、なお対象的・知識的に見ている、ということです。しかし「更に之を越えて真の無の場所に到る時、意識的自己を忘ずると考えられると共に、自己自身の直観として真の自覚に到達するのである」とされます。究極的な西田の立場ですね。難しい問題が含まれていそうですが、今日はここまでとしましょう。
(第77回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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