カントの純粋統覚

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」第2段落、298頁の8行目「一体、知識は単に形式によって構成せられるのではなく」から第3段落300頁8行目段落末まで講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「知識があるといふには、主観を入れて来なければならぬ。かゝる主観が意志をも対象として知り得ると云うならば、それは自覚的でなければならぬ」(300頁3行目〜5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「知識がある」ということは「知識自身の自知」即ち認識主観である意識自身の自省という意味を含んでいる。認識主観が「意志主観」である場合、それは対象化されない意志する意志である。例えば、英国の完全な地図を描こうとしても、地図を描いている自分が描かれないように、意志する意志の自省が成り立たない。そうすると、意志を対象とした知識が如何に成立するのか?(直観の立場は)その知識の正当性をどのように保証するのか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

T

意志の自省が成り立たなければ、意志が自分の意志であることも、それを他者に投影した他者の意志も分からなくなると思います。

R

それでも対象化された意志しか我々には分からないんじゃないでしょうか。
佐野
英国の地図の例が挙がっていますが、どのような意志であるかは対象化して見なければ分かりませんが、そのように対象化できるということはそれ以前に何かを見ていなければならないように思われますが。

N

Rさんは「知識がある」「意志がある」の「根拠」を「正当性」の「保証」という言葉で考えているんじゃないでしょうか。そうするとその保証を与えるのは「真の無の場所」ということになると思いますが。

R

意志する意志の自省が「真の無の場所」における「直覚」の立場で成立するということで、その立場の正当化はどうなるのか、ということが疑問点です。

N

それは神秘的であって、合理的ではない。正当化や基礎づけはもはやできない、与えられている、としか言いようがないのでは?

R

そうした知的直観はカントでも、新カント派でも認められないと思います。だからこそその立場の正当化が求められるのだと思います。

N

「知識がある」「意志がある」というところから出立して、「真の無の場所」が「なければならぬ」、これが正当化であり、正当化の保証では?Rさんは、正当化という言葉をどのように使っているのですか?

R

妥当性でもいいです。

N

絶対的基礎としての「無の場所」はもはや基礎でない基礎、これ以上ない基礎と考えるべきであって、哲学はそれを「宗教の立場」とすべきではないと思います。それについては無記とするのが哲学の立場だと思います。知的直観についても、それは可能だと哲学は言うべきではない。その意味では「対立的無の場所」の意味が哲学にとって重要になると思います。
佐野
西田の最終的な立場としての「真の無の場所」や「直覚」が、その正当化についてずいぶん懐疑的な意見が出ましたが、いや、そうではない、西田には禅の体験、見性体験のようなものがあってこう言っている、というような、あるいはそこまで行かなくても常識的な見方が破れるような「根本体験」があって、このように言っている、というような意見はありませんか?

O

そんなところから意志を語ったら、それは神の意志と同じことになりますよ。

T

正当化とは〔原理・原則による〕裏打ち〔裏付け〕があるということですよね?
佐野
カントの演繹がまさに「正当化」です〔権利問題を論ずる法廷を念頭に置いていると思います〕。

W

西田の場合、表向きは「知識がある」というところから出立しますが、最終的には体験が裏打ちになっていて、実はこちらの方から「なければならぬ」と攻めている気がします。言葉から始まっていない。
佐野
言葉から始める、ということも言葉ならざる所との「あいだ」の出来事ですから、難しいことになりそうですね。プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(300頁9行目~12行目)

A

最初に「心理的意志」とありますが、この「心理的」とはどういう意味でしょうか?
佐野
言葉の意味は常に文脈の中で押さえていきましょう。まず「対象化せられた心理的意志」とありますから、「心理的意志」は「対象化された」意志です。心理学は心的現象を対象化した学問ですから、その中に意志も含まれることになります。その意志は常に誰かの意志です。それを「判断主観の上に置く」とはそうした「誰かの意志」、例えば佐野之人の意志を「判断主観」の上位に置くことです。

A

ありがとうございます。
佐野
次に「又内から働く神秘的能力を意志と考えるのでもない」とありますね。これは形而上学的な実体としての「意志」です。例えばドイツ観念論の、さらにはショーペンハウアーの「意志」などを念頭に置いているかもしれません。次は「意志は」を補って読みましょう。「(意志は)判断主観よりも尚一層深き主観を意味するのである」と読む。西田が「判断主観」として考えようとしているのは、「誰でもあって誰でもない私」としての「意識一般」ですが、意志はそれよりも「尚一層深き主観」だとされます(先程は「上に置く」となっていました)。何故「一層奥深い」のか、何故「上」なのか、その理由は述べられていません。そうして「自覚についても同様である」と来ます。「同様である」とは何と同様なのでしょうか?

A

意志、では?
佐野
そうでしょうね。そうしてそのことは「自覚に於ける直観と反省」(全集第2巻)や「意識の問題」(全集第3巻所収)にも論じてある、とありますが、判断主観より意志主観を深くに見るという見方はすでに『倫理学草案第二』(1905-1906)に、「見者」に対する「作者(行為する者)」の優位という形で出て来ています。次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(300頁12行目~末)
佐野
「意志は単に働くものでない、働くことを知るものである。自己は単に存在するものでない、存在することを知るものである」とありますね。この「知る」をカントは「意識」に止めましたが、西田はそれを「直観」にまで徹底しようとします。ここにカントや新カント派が反発するわけです。僭越沙汰だと。それはともかく次を見ますと、「(自己は)認識主観の外にあるのではない、認識主観が之に於てあるのである」とありますが、「之」とは何を指しますか?

B

意志、ですか?
佐野
ええ。意志でも自己でもいいと思いますが、自己の方がよいかもしれません。自己が認識も意志もする、ということで。ところでそうした「自己」を認識主観の「外にある」と考えたのは誰ですか?

B

左右田博士たちでしょう。
佐野
そうでしょうね。西田想定の。リッケルトはすべてを認識主観の対象としますから、自己も意志も認識主観の対象、つまりは認識主観の外にある、ということになります。この場合「認識主観」は「判断主観」です。次に「知るということを知るのも認識主観だと云わるれば」とありますが、西田はこの「認識主観」の中に「自覚」を見ます。ところがリッケルトたちは「知るということを知る」という「自覚」を対象とするのが「認識主観」だ、という意味で、この「認識主観」の中に「判断主観」を見ます。ですから西田は、それは「唯語義の問題だと思う、直にそれを判断主観の如くに考えるのは当を得ない」と述べることになります。しかしそのように西田が言えば、リッケルトたちは、〈では「自覚」と言っているのは何(誰)か?〉と問うでしょう。そうなるとそれは「自覚の自覚」ということになります。「自覚」とは「判断の判断」ですから、「自覚の自覚」とは「判断の判断の又判断」ということになる。さらに、そのように「自覚の自覚」と言っている者が必要になり、こうして合わせ鏡を見るように、際限がなくなってしまう。そのようにリッケルトたちは言うかもしれない。しかし西田はそれを「単なる空論に過ぎない」と一蹴します。そうして「我々は零の零を考え得ざる如く自覚の自覚という如きものを考えることはできない」と結びます。

N

極限値として考えることもできたのに、西田はそうしなかったのだと思います。直観できると割り切った。
佐野
そうかもしれません。「認識(知る)」についての両者の対立、どうにも決着がつきそうもありませんね。次へ参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(301頁1行目~9行目)

C

最初の一文、「内容」は「直覚」、「思想」は「概念」と同義と考えてよいですか?
佐野
はい。

C

さらに、「思想」や「概念」は「形式」で、「感覚」が「内容」だと。
佐野
そうです。ですからカントの場合、「直覚(直観)」はつねに「感性(感覚)的直観」です。「知的直観」は認められません。西田はここでこのように「感覚の制約」ということを言いながら、最後の所で知的直観を認める、これが左右田博士の批判するところです。

C

「感覚の制約」の「制約」って何ですか?
佐野
なければならないもの、条件ということです。

C

分かりました。
佐野
次に「カントの純粋統覚は単に論理的主観という如きものではない」とありますね。「純粋統覚」は知覚(Perzeption)に加わって(ad)これを統一するもの(Apperzeption)ということで、厳密に言えば「意識一般」とは事柄としては別ですが、同じものです。それは「論理的主観との如きものではない」ということですが、だとすれば、「純粋統覚は論理的主観だ」と主張している者がいるはずで、それは誰でしょうか?

C

西南学派、ですか?
佐野
そうですね。新カント派は1860年にリープマンが「カントに帰れ!」と言ったところから始まりますが、その後二つの流れに分れます。一つが南西ドイツ学派(西南学派)で、ヴィンデルバント、リッケルト、ラスクがその代表です。もうひとつがマールブルク学派でコーエン(西田はコーヘンと呼んでいますが)が代表です。ここで西南学派として念頭に置かれているのはリッケルトだと思われます。彼は「論理的主観」ということで、論理つまりロゴス、言葉から出発しますから、言葉以前の感覚(直接経験)の存在は認めますが、これを言葉以前として問題にしません。次は「純粋統覚は」を補って読みます。「(純粋統覚は)所与の範疇たる直覚の形式によって与えられた内容と結合したものでなければならぬ」。「所与の範疇」というのはリッケルトの用語ですが、ここで述べられているのはカント哲学です。だとすると「直覚の形式」とは何ですか?

C

空間と時間です。
佐野
そうですね。与えられた感覚的内容をまずは感性の形式である、空間と時間によって整理し、そうしてできた内容、つまり「知覚」をさらに概念によって統一するわけです。その際の統一する働きが「純粋統覚」で、統一の仕方(形式)が、カテゴリー(範疇)です。次に「Kants Theorie der Erfahrung(カントの経験理論)」とありますが、これはコーエンの初期の著作(1871年)です。この中でコーエンは「此点に着眼した」とありますが、「此点」とは?

C

純粋統覚が直覚と結合したものでなければならないことです。
佐野
そうですね。「此故に思惟意識其者」、つまり「純粋統覚」ですね、その「自省」とはich denkeのことですね、そこから「生産的思惟の考」に至ったとあります。そうして「遂に感覚をも思惟によって要求せられるものとして、オンに対するメー・オンと考えた」とあります。

C

「オン」とか「メー・オン」というのは何ですか?
佐野
ギリシャ語で、「存在」「非存在」ということです。大事なことは「無」ではなくて、「非・存在」だということです。感覚は思惟によって要求され、思惟に解決を迫るものとして、思惟に「与えられたもの」ではなく「課せられたもの」、課題だというのです。西田はコーエンの考えに全面的に賛成というわけではないけれども、コーエンのように考えることによって「構成的主観としてのカントの純粋統覚の意味は徹底する」と言っています。「構成的主観」とは「知覚内容」を構成する主観ということで、純粋統覚を「論理的主観」、さらには後で出て来ますが、「判断意識」にまで狭めてしまったリッケルトに対して言っています。今日はここまでとしましょう。
(第81回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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