判断的知識に対する意志の優位

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「一」第3段落293頁3行目「カントは数学や純粋物理学が」から「二」の第2段落295頁1行目「真の自覚に到達するのである」まで講読しました。今回のプロトコルはHさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「体験は認識以前と考へられるが理論理性の自省其者が既に体験の一種ではなからうか」(293,6-7)と「知るといふことは一様ではない、私は知るといふことに、少くとも根本的に相反する二つの方向を区別せねばならぬと思ふ。一つは対象認識の方向であり、一つは自覚の方向である」(293,13-14)、「真の自覚の意識は述語的一般が無となること、即ち真の無の場所に求めなければならぬ。(中略)述語的一般が対立的無として限定せられ得るかぎり、尚所謂知識的自覚に属するが、更に之を越えて真の無の場所に到る時、意識的自己を忘すると考へられると共に、自己自身の直観として真の自覚に到達するのである」(294,13-295,1)の三カ所でした。そうして「考えたことないし問い」は「認識以前の体験というようなものは、どのようなものがあるか。(例えば、科学者(生物学者・物理学者等)の「水」に関する認識とは違った体験を、私たちは日常の中で「水」を見るときにしているのではないか)」(97字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
西田は「自覚」を「体験の一種」と捉えていますが、Hさんはそれとは異なった「体験」をお考えのようですね。「日常」の中に「体験」があると。また「認識」を科学者の認識に限定しているように思われますが。

H

認識は関心によって分れると思います。対象を対象自体として認識するのが「対象認識」で、これは主に科学者ないし学者の関心です。これに対して自分の生活に結び付いた関心に基づく認識は日常的な体験に属すると思います。同じ水も、科学者にとってはH₂Oで、日常の体験の中では例えば料理で使う材料です。
佐野
私の目の前にあるのは時計ですが、「これは時計だ」とか、「私は今歩いている」といった判断はどうなりますか?それは必ずしも科学的ではないですが、これは「認識」ですか?

H

「認識」ですが、そうした認識は稀で、私たちは大抵一定の世界を前提として、それに没入していると思います。
佐野
そうだとすると、ほとんどボケ状態になりませんか?我々はむしろ、状況どのようであるか、自分が何をしているのかを頻繁に反省し、認識しているのではないでしょうか?

H

そうした認識も学問的な関心ではなく、自分が生きることが関心ですから、体験に属すると思います。

W

自分が生きることが関心の的になっているような認識でも、そこに認識している自分が意識されているかどうかの区別はあると思います。そうして認識以前の体験について語る場合、私たちは認識からしか語れないと思います。
佐野
日常に没入しているということも、そうした認識から語っているのだ、と。確かに没入しているところに認識はありませんね。面白くなってきました。少なくともここには、二つの基準がありそうですね。対象を対象として考察するか、対象を自分の生活に結び付けるかという、「関心」によるものと、認識している自分、が出て来ているかいないのかといった二つの基準が。(西田はこの、認識している自分を見ること(「理論理性の自省」)を「自覚」と呼び、「体験の一種」と呼んでいることになります。例の英国の地図で言えば、描いた地図の方を見るのが「対象認識」で、描く手前の所を見るのが「自覚」ないし「体験の一種」です。Hさんは対象を対象として見る学問的な認識が「対象認識」、それ以外の日常的な認識を一般に「体験」と呼び、Wさんは認識する自分が出て来る認識を「対象認識」、出て来ないものを一般に「体験」と呼んで、しかも我々は「対象認識」から出発するしかないとお考えのようです。西田は「知る」ないし「認識」を知るもの(自己)と知られるもの(対象)の関係から最も広く捉え、対象(主語)の方向の極限に「同一」を考え、自己(述語)の方向の極限に「自己同一」を考え、後者を「真の無の場所」における「真の自覚」と考えています。そうして両者の中間に「種々の知(知識・認識)」を考えようとします。この「中間」には「対象的認識」の要素と「自覚」の要素が必ず含まれることになります。前回は「同一」を没頭状態と解釈しました。この「同一」と中間段階における「自覚」(判断的自覚と意志的自覚)と「真の同一」(直覚的自覚)が西田にとっての「体験」ということになります。私たちはなぜか最初の没頭状態から引き抜かれ、対象を意識(認識)し、自己を意識します。)

W

日常生活こそ大事なのに、何故人間は認識してしまうのかなあ、と不思議に思います。
佐野
なるほど。(後で考えたのですが、この認識こそ、Hさんの言う学問、さらには哲学(学問)、芸術、宗教に人間が目覚める機縁であり、そこに人間存在の深い意味があるように思われます。)プロトコルはこれくらいにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(295頁1行目~7行目)
佐野
「Cogito ergo sumのsumを存在と考えるならば」とありますが、誰を念頭に置いていますか?

A

デカルトです。
佐野
そうですね。「私は考える、それ故に私は在る」ということで、「sum」が「私は在る」です。それを「存在」と考えるとは、「私」を実体(独立に存在するもの)として考えるということで、一面においてデカルトはそれをやった、ということです。それを西田は「自己を対象的に形而上学的存在と見ること」だ、と表現しています。そうしてそれは「真の自己」ではないと。ついでカントの「意識一般」が出て来ますね。

A

はい。
佐野
カントの「意識一般」も「私は考える(ich denke)」ということです。だがカントはそれを形而上学的な実体とはしなかったということです。「自覚的意識の自己反省の方向に於て見られるもの」と西田は表現しています。例の英国の地図を描く手前のところ、図に対する地を見る、ということですね。もちろんこれは対象認識ではなく、西田に言わせれば直観です。しかしそれを西田は「尚ほ徹底せる自覚ではない」と批判します。それが「単に客観的対象界の総合統一の意識」にすぎないからでしょう。この点は後で考えるとして、次に「此の立場を越ゆれば、知識はないと云われるかも知らぬが」とありますが、そのように「云う」のは誰ですか?

A

左右田でしょう。あるいはリッケルト系の新カント派。
佐野
そうですね。西田が想定する左右田はそのように「云う」だろう、ということだと思います。西田はそれに対し「それではカントの批評哲学は何であるか」、「カントの批評哲学も亦意識一般の立場に於て構成せられたものとは云われまい」、つまり「対象的認識」ではないだろう、と批判します。微妙なところですが、カントとしてはもちろん批判哲学は「対象的認識」ではないが、西田の言おうとしている「自覚」でもない、ただ認識の可能性の制約(条件)を明らかにしただけだ、ということになるでしょう。自己が自己を見る(眼が眼を見る)ような「自覚」は人間理性には不可能だ、というのがカントの基本的な立場です。次をBさん、お願いします。

B

読む(295頁8~10行目)
佐野
「対象的認識」を図とすると、「意識一般」が地ということになって、図から地へ、が「自覚的方向」です。それはさらに深まる、と西田は言います。そうしてここに「判断的自覚(意識一般)」、「意志的自覚」、「直覚的自覚(真の無の場所)」の三つの自覚が登場します。最初の立場は先程の議論では「対象的認識」の立場ですが、これは『倫理学草案第二』で「見者の立場」といわれたもので、『善の研究』では純粋経験を想起・反省する第2編の立場と考えられます。これに対し「意志的自覚」の立場は目的が意識されている(つまり没頭しているのでない)限りにおける行為の立場で、これは『倫理学草案第二』では「作者(なす者)の立場」といわれたもので、『善の研究』では第3編の立場に相当します。「直覚的自覚」は第4編と第1編です。まあ、これは私見にすぎませんが。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(295頁10行目~296頁2行目)
佐野
「対象認識の方向に於て意志を認識することはできない」とありますが、これは次に「意志の意識」とありますから、意志は外に見るものではなく、自覚の事柄だということでしょう。そうして「意志の意識を全然否定するならばとにかく、苟も之を認めるならば」とありますが、「之」とは?

C

「意志の意識」です。
佐野
そうですね。そうして次に「之を対象認識の方向に於てするのではなく、自覚の奥に於てするのでなければならぬ」とありますが、最初の「之」は?

C

「意志を認識すること」ですか?
佐野
そうでしょうね。これを読むと、西田は「意志の意識」というものを事実として前提して、「意志の認識」は「自覚の奥」でなされる、と主張していることになりますね。「意識」と「認識」が区別されていますが、「意志の意識」は何かを意志している場合、その何かに当たるものを図とするなら、意志しているということは地に当たる、隠れたもの、ということになると思います。これに対し「意志の認識」は、地の直観です。例の英国の地図を描く手前の直観です。ちょうど「判断内容」(図)と「判断的自覚(意識一般)」(地)の関係とパラレルです。ここまではいかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「我々の自覚の奥に意志的自覚の立場を見ることによって」とありますが、この「見る」は「意志の認識」と同義で、直観です。それによって我々は「対象界に心理的意志を認識することができる」とされます。我々が対象界において相手のうちに意志を〔対象的に〕認識することができるのはこの直観をしているからだ、ということになります(もちろん、カントはこのような知的な直観は認めません。あくまで「かのように」と言い得るのみです)。我々が「対象的認識」の内に「合目的的世界の認識」や「心理(学)的現象界」、さらには「歴史の世界」を図として「客観的に認識」、つまり「対象的」に認識できる(カントはこうした「認識」を認めませんが)のもこの「意志の認識(=直観)」があるからだ、と西田は言います。「自然界認識の立場〔対象的認識の立場=意識一般〕よりも一層深い立場〔意志の認識の立場〕を自覚の底に見出すことによって可能になる」とはそういうことです。ただなぜ「一層深い」と言い得るのか、あるいはどのようにして立場の移行が起こるのかは明らかではありません。次に「後者の立場をも意識一般というならば」とありますが、「後者の立場」とは?

C

「自然界認識の立場よりも一層深い立場」ではないでしょうか?
佐野
そうですね。「意志の認識」の立場です。それでは「いうならば」とは、誰が「いう」のですか?

C

左右田博士では?
佐野
だと思います。西田の想定する左右田博士の主張ですね。左右田博士はすべての認識は「対象的認識」であり、「意識一般」の立場において成立すると考えているでしょうから、「心理的意志」の認識も「対象的」な認識であり、あくまで「かのように」と接続法(仮定法)で語るべきものということになります。しかし西田はすべてが「意識一般」の立場だとしても、すべてが対象認識であるとすることはできない、だとすると「意識一般にも種々の意味がなければならぬ」と主張します。そうして「意識一般は、意志的自覚の方向に自己を深めることによって種々の対象界を見ることができる」とします。これは「意識一般」に(判断的な意識一般、意志的な意識一般、直覚的な意識一般というような)レベルの差を認めるもので、西田流の〈すべてが意識一般の立場〉です。もちろん左右田はこんな立場は認めないでしょう。どんな体験であれ、「意識一般」において「対象的認識」にもたらされなければ認識にならない、と考えると思います。適切な言葉で語らなければ認識にはならない、という立場です。これに対し西田は言語以前の体験の認識(直観)を認めます。次の段落に進みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(296頁3~8行目)
佐野
「我々が意志することを知るというから、否直観するということをすら知ると考えねばならぬから、理論理性が最高であると云うならば」とありますが、この「云う」は?

D

左右田博士が「云う」のだと思います。
佐野
そうですね。これも西田の想定する左右田の主張と考えられます。左右田が言うように、すべてが認識(知)である、という立場を認めても、ということです。「知識という語の意義の問題とならねばならぬ。そういう場合の知るということは、意識一般によって対象を認識するということとは違うのである」と西田は続けます。「意識一般」に三つのレベルがあったのに対応して、それにおいて「知る」ということにも「判断する」「意志する」「直観する」の三つのレベルがある、そのように主張します。もちろん左右田はこんなものは認めないでしょうね。彼にとっては、「意志することを知る」ことも、「直観することを知る」ことも含め、すべてが「対象的」な(言葉にもたらされた)認識です。逆に言えば、言葉にもたらされなければ認識にならない。どうやらここには〈言葉によって認識する〉のか〈言語以前の認識から言葉は生まれる〉のか、という立場の違いがありそうですね。

D

私はこの殴り合いのような両者のけんかは、その精緻さにおいて西田に軍配が上がると思うのですが。

E

私には西田の言いっぱなしのように思われます。
佐野
次を見て見ましょう。「(意志することを知る、直観することを知るというような)そういう意味の知るという立場は、知識が知識自身を自省する立場であって、かかる意味に於ける知るという中には、意志することも、直観することも含まれて来る」とあります。判断的な知も、意志的な知も、直観的な知も、その「知る」の根本は自覚(「知識が知識自身を自省する」こと)だということです。地の直観です。これを左右田は、眼が眼を見ることだとしておそらく認めない。左右田にとって「知る」とは図の認識、あくまで「対象的な認識」です。ここまでよろしいでしょうか?

D

大丈夫です。
佐野
続いて「それは判断意識というものではなく」とありますが、「それ」とは?

D

「かかる意味に於ける知る」です。
佐野
そうですね。「意志することを知る、直観することを知る」という意味における「知る」ですね。これをおそらく左右田は「判断意識」と取る。西田はそうじゃない、「我々の自覚的意識の立場に於て深く反省せられたもの」「意識を対象とする意識」だ、そう言います。この「意識を対象とする意識」とは、〈対象化された意識(意識された意識)〉を意識することではなく、〈意識する意識〉を意識することです。もちろんこんなものを左右田は認めないでしょう。次をEさん、お願いします。

E

読む(296頁9~13行目)
佐野
「意志」を意識の「外から働く」、あるいは「内から働く」というように「作用」として見れば、「対象的」な認識となりますね。その場合は意識の内外に所謂〈物心の独立的存在〉を仮定することになります。そうではなく、意志は〔判断・直観と並んだ〕「自覚の一様相」だ、そのように西田は言います。そうして「かかる自覚の立場よりして、判断的知識に対して意志の優位が考えられるのである、更にその上に直覚というものも認めねばならぬのである」と述べますが、西田の議論は〈判断の意識〉および「意志の意識」という事実を出発点として、それぞれの根本に直観的な自覚を認めているだけなので、厳密に言えば、「判断的知識」に対する「意志の優位」は明らかではありません。これについては以下の論述を慎重に見て行く必要があると思います。今日はここまでとしましょう。
(第78回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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