読書会だより

純粋経験は疑うべきものではないか?

本日の哲学的問は「『純粋経験』は判断分別以前であって、いくら疑おうとしても疑うことができない事実であって、この事実に対する判断とか反省とかはどこまでも疑うべきものである。西田は『純粋経験』を唯一の実在とし、それによってすべてを説明しようとする。しかし、『純粋経験は唯一の実在である』というのはすでに判断であって、疑うべきものではないのか。彼はなぜこの矛盾を知る上でまたこの通りに主張するか」です。
佐野
「純粋経験は疑うにも疑い様がない」とか「純粋経験は唯一の実在である」というのはすでに判断である。判断であれば疑うことができる。ならばそれを「考究の出立点」にすることはできないのではないか、という問いのようですね。それではお願いします。

A

根本経験があったから、確かにあると言えるんだと思います。
佐野
ですからそれが判断だというんです。

B

(出題者)
出発点が疑わしいと思います。事実がある、というようにそれを表現したら判断になります。西田は如何なる立場で「ある」と言っているのか。

C

そもそも立場は変えられるものなんでしょうか。

D

立場主義ですね。立場に引っ掛かってがんじがらめになっている。これが今の日本社会だと思います。実に閉塞的です。ですが立場などいくらでも変えられます。

C

私の言っているのは「人間という立場」です。人間は反省や判断の立場を超えられないということです。

A

クロマニヨン人は言葉を持たなかったので絶滅したそうです。ですが死者に花を供えていた。言葉を持たずにどうしてそんなことができたのか不思議ですが、言葉のない世界というのはやはりあると思います。

E

立場というのは視点のことですね。
佐野
そうですね。そうした視点に立って外から眺めるということになります。

B

そうした反省で分かったことになるのですか。言葉にしないと理解したことにならないのですか。

C

ええ。理解したというのはやはり言葉にできるということだと思います。
佐野
確かに言葉にはできないが俺は分かっているんだ、というのは断言にすぎないような気がしますね。Fさんどうですか。

F

言語化はできると思います。それが30年かかろうとも、ゆくゆくはできる。そうしたものだと思います。

G

私はいつも教育学に関連させて考えてしまうのですが、分かるというのは知識を身に着けるということですね。しかし分からないものに触れることの方が大事ではないかと。その意味では30年かけても分からないという面もあるのではないか。

F

それでもどう分からないか、ここが分からない、というのは言語化する必要があると思います。
佐野
不思議という言葉がありますね。不思議やなあ、というのは分かっていないのか、あるいは一つの分かり方なのか。

F

分かっていないと思います。

E

惹かれるものがあるということだと思います。言語化したい。だが言語化できない広いものがあり、一部しか言語化できない。西田は大それたことをしようとしているとも言えると思います。
佐野
面白くなってきましたね。ですが今日はこの辺りにしてテキストに入りましょう。
(第22回)
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読書会だより

純粋経験とはどのような概念か

本日の哲学的問は「三木清は、『西田先生の言葉』(1941)において、「先生の哲学は単なる非合理主義でないと同様、単なる直観主義でもない」と書いている。これを踏まえたとき、『善の研究』(1911)における「純粋経験」とは、どのような概念であると考えるべきであろうか」です。
佐野
これを考える時は「純粋経験は直観である」と言ったら、すでに反省であるということと、西田が純粋経験は「程度の差」であるといっていることに着目すると面白いかもしれませんね。

A

純粋経験には主客未分と主客分裂と主客合一の三つの立場があると思います。このように分析しつつ、それに囚われないのが純粋経験だと思います。「非合理を合理化する」というのがありますが、それが哲学だと思います。合理化、しかしそれでかたつかない。分からん部分が必ずあるというのが純粋経験です。神は理念とも言えませんね。定義不能です。純粋経験はそれと同じです。人間としては一生懸命に考えるしかない。

B

三つの立場があるとおっしゃいましたが、それらは総合できないのですか。

A

総合する立場があってもいいが、考え方の土俵というか、誰かが何かを言えば分裂が起り、また合一される。とにかく一生懸命考えるしかないのです。

C

三つの状態とおっしゃいましたが、それが「程度の差」に通じるのではないでしょうか。そうした動きが「程度の差」ということです。

A

ですが主客未分の方が最高だともいえるんじゃないか。
佐野
「程度の差」とは統一の厳密度についていわれています。全くの統一、全くの不統一もなかろう、ということです。

A

最高の境地があるということではないのですか。
佐野
西田は普通の知覚にも知的直観があるといいます。その理想的要素はどこまでも豊富深遠となると。その意味では普通の知覚と極致に至った知的直観とは量的にしか異なりません。その意味では「程度の差」ですね。そうなると「最高の境地」も「普通の知覚」も「程度の差」ということになります。問題はそう言い得る立場に立っているか、ということです。「平常心是道」とか「日日是好日」とか言いますね。本当にそういうことが言い得るのか、そういうことだと思います。

D

言葉にした段階で、言葉にできないものを言葉にしてしまう段階で、純粋経験ではなくなるのではないのですか。純粋経験はあくまで判断以前の瞬間・刹那ではないのですか。

E

私も、直観と純粋経験の違いが分からないのですが、例えばこれを飲むとして、うまいと感じる前にうまさを感じるというか、考えたり言葉にする以前にうまいということがあるじゃないですか。花を見るにしても目に留まった瞬間です。これが純粋経験だと思うんですが。
佐野
しかし西田は反省も純粋経験だという。反省もそれについて考えたり言葉にしたりしなければ直観と変わりません。ただ不統一な状態ですが。西田は純粋経験の立場を出ることはできないと言いますよね。そうなると厳密な統一の状態も反省という不統一な状態も程度の差ということになります。迷うときは迷う。それでいいということになる。これが純粋経験の最終的な立場、平常性の立場だと思います。

C

そのように立場を立てることがそうした立場を実体化し、純粋経験を離れることにはなりませんか。
佐野
それも平常性です。すでにそこに立っている。私たちは反省を一歩も出られませんが、そのことが同時に常に純粋経験の内にあるということを言い得る立場が平常性の立場です。古池に蛙が飛び込む音に思いが破れて、常に足下に届いていた静かさに目覚める、そんな感じです。

F

そういう境地を求めるということですか。
佐野
求めることは必要ですが、求めるという構造が到達を不可能にしています。思いが破れたところに気づく、それしかないと思います。なんかお説教みたいになってしまいましたが、西田は純粋経験の立場の究極相をこのようなものとして考えていたのではないかと思います。今日はこのくらいにしてテキストに移りましょう。
(第21回)
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読書会だより

判断以前の直観、述語以前の主語は存在するか

本日の哲学的問は「そもそも判断以前の直観、述語以前の主語など存在するのだろうか」です。

A

感性という言葉がありますね。頭で考えた挙句決断して主張するときのような。その時は体で分かっていることを言うんだと思います。そういう経験があるんです。そうしたらそれが正解だった。

B

水泳なんかも頭で分かっているだけじゃだめで、体で分かるというところがあると思います。

A

練習以上のものが本番で出る人がいますね。そういう直観も感性だと思います。
佐野
今までの意見は判断前の直観がある、というものだったと思いますが、体で分かるということも後から判断しなければ分からないんじゃないですか。直観だったということも我に帰って判断して始めて言えることで、こうした判断がなければそうした直観があったことも分からないのでは?

C

聞き手の話になりますが、訓練しなくても分かっちゃう子がいるんです。
佐野
ですから分かっちゃうというところに判断はありませんか、ということです。直観したものを直観したとした時点で反省だと。

D

『善の研究』に一生懸命に断崖を攀ずるというのがありましたね。その時は何のためにも分からずただ攀じ登っています。それで後になってからそのことに気づくということはあると思います。
佐野
大きく見れば日常生活もそうですね。ただただ忙しく生きている。何のために生まれ生きそうして死んでいくのか、そんなことは考えずにただただ時を過ごしている。そうしてふと我に返り、虚しくなる。これも大きく見れば没入状態から我に返った在り方です。

E

その場合でもそこに宗教的覚悟というものはあり得ると思います。
佐野
古池に蛙が飛び込む音に驚き、そこに静かさがいつも届いていたことを経験するように、日常生活を破って神に触れる瞬間があるということですか。

E

ええ。ですがその経験は単なる神人の合一ではなく、そこには神と自己の関係が「我は神において生く」という仕方であると思うのですが、そこのところがよく分かりません。
佐野
Fさん。最近静かですね。何かありますか。

F

EさんとAさんの言っていることは同じことだと思います。初めに一なるもの(ト・ヘン)、一般者、真実在があるんです。そのかけらが我々の内にある。だから知らないことをしゃべっているというのも、実は知っているんです。本当のことをすべてみんなが知っているんです。それを思い出すだけです。
佐野
なんか議論が一つの方向にグッと進んだ感じですね。Gさん。何か言いたそうですね。

G

やはり純粋経験はそれを言葉に言い表さないと何も分からないと思います。だから言葉に言い表す。そうして説明することに近づいていくのだと思います。
佐野
純粋経験はある、と言えるんですか。

G

いえ。あると仮定して、です。
佐野
なかなか難しくなりました。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第20回)
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読書会だより

悪の起源はどこにあるか

本日の哲学的問は「直観の有において悪は存在するか。悪の起源はどこにあるか」です。

A

直観は純粋経験でもいいですか。
佐野
ええ。

B

純粋経験は判断以前ですから、善も悪もありません。判断のないところには悪はありません。

A

『倫理学草案第二』(『善の研究』の基となる講義の前年度に行われた講義)の「宗教論」の最後が「原罪」で終わっていましたね。
佐野
ええ。

A

それから日記が書かれていないんですよね。でも何かを達観した、見神の事実というか、それで『善の研究』を書くことができた。
佐野
純粋経験において悪はあるかという問題はどうなりますか。悪や罪の問題とどうつながるか、そこのところを考えてください。

A

私はどうも展開が苦手で・・・

C

最終的なところでは絶対善を認めざるを得ないのではないか。逆に言えば悪を認めることはできないのではないか。

D

絶対善があるなら絶対悪もあるのでは。原罪を抱えるような人間を創ったのも神ですから。神性の悪って言うんですか。だとすれば神は善も悪も備えていてそれで完全です。
佐野
我々の事柄として考えてみましょう。西田は『善の研究』第4編第4章で一方では絶対的な悪はない、この世は絶対的に善だと言いながら、他方で「悔い改められたる罪ほど世に美しいものはない」と言っています。これをどう考えるか。

E

善と悪は完全に等価です。罪は憎むべきものとさえ言えないと思います。
佐野
そうですか。罪は辛いですよ。直視することすらできない。

A

「罪を知る」という表現もありますね。

F

私は悪が何であるかが分かりません。やはり純粋経験では善も悪もないのでは。

C

ええ。悪も善もそこから出て来ます。純粋経験にいられないから。純粋経験は厳然としてあり続けるのに、我々はそれに届かない。これが悪です。

G

純粋経験は発展する活動です。動的一般者という言葉も次の時期には表れてきます。それを見る立場においてはすべては程度の差になります。善悪もそうです。量的な差にすぎません。
佐野
「程度の差」というのは第1編第1章見られる表現ですね。高橋里美がこれを批判した。もともと純粋経験は判断以前だったのに、判断も純粋経験だというのに使われている。そんなことを言ったら純粋経験の概念が曖昧になると。

D

すべてが相対的だというお話ですが、判断こそが相対的ではないですか。直観においては悪はないと思います。

G

いえ。純粋経験の内にも矛盾は含まれていると思います。

H

私も純粋経験はスタティックなものではなくダイナミックなものだと思います。文化や時代によって悪の概念は変わりますが、悪というもの、それが何であるかは分かりませんが、それはあると思います。仏教では不飲酒戒というのがありますが、これは普遍的とは言えない。ですが不殺生戒、つまり人を殺してはいけないというのは普遍的だと思います。

E

戦争のときは違いますよ。
佐野
盛り上がってきましたが、今日はこのくらいにしてテキストに移りましょう。
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読書会だより

悪は存在するか

本日の哲学的問は「悪は存在するか」です。この問いの背景は『善の研究』第3編第13章に「アウグスティヌスに従えば元来世の中に悪という者はない」「また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った。影が画の美を増すが如く、もし達観するときは世界は罪をもちながらに美である」(岩波文庫版217頁)です。それでは始めてください。

A

こう言ってしまえば言葉がありませんね。

B

でも西田は「罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない」(同256)とも言っています。

A

完全なる神が人間を創った。その人間が罪を犯すというのは矛盾じゃないですか。
佐野
その罪があるから「世界はそれだけ不完全となるのではなく、かえって豊富深淵となるのである」(同257)と書かれています。でも悲惨な事件などを目の当たりにするとそんなこと言っていられますかね。

C

必要悪みたいで、安っぽく聞こえます。善は至誠でなしうるというのなら、至誠なんてほとんどの人ができないのだから、この世はほとんど悪だとも言えます。

A

善なる人も少しはいるということですか。

D

善悪は状況によっても異なると思います。いじめは悪いことですが、いじめた者に逆にひどい攻撃をすれば今度は攻撃した人が悪となります。絶対的善は想像しにくいです。
佐野
でも西田は人はたとえ芸術家でなくても、美を理解できるように善を理解できるとも言っているのだけれど。

D

どこかで知っていたとしてもはっきりは知らないのでしょう?

B

宮沢賢治が人が善を求めるのは鳥が飛ぶのと同じだと言う一方で、人は誰でも悪を求めるとも考えていたみたいです。どうやら人間は矛盾したものをもっているようです。

C

悪って何だろう。

B

『善の研究』はそのタイトルにも拘らず悪についてあまり書いてないように思います。

D

いつも誰かを傷つけているし、命をいただいている。存在すること自体が悪ではないのか。
佐野
『善の研究』では「至誠」を尽さないのが悪でした。自らを欺かずベストを尽くすのが至誠です。

D

それなら無理です。

A

偽我から至誠を尽して真の自己へという方向があるのなら、やはり何故最初に偽我があるのかが問題になります。完全なる神がチョンボして創ったのに、その罪を人間に擦り付けて悔い改めよ、というのはおかしい。

E

西田は神がこの世を創ったとは言っていませんよ。表現だと。
佐野
悪や罪の問題はわが身に引き付けて考えることが必要だと思います。頭で考えるだけでは深まらないですから。

F

悪はありません。善が出てくれば悪もあります。いい奴もいれば悪い奴もいる。悪い奴ほど面白いものはない。人殺しも悪とは言えない。至誠で殺すこともある。他人はそれを判断できないと思います。
佐野
自分ではできるのですか。Dさんはできないと言っていましたが。それに至誠なら神意と冥合するとも言われています。これは考えようではとても危険ですよ。

F

難しい問題だと思います。軍隊はそのように思いやすいですね。京都学派の問題でもあります。私はそれを憎みますが、神の目から見たら善かもしれません。
佐野
本当に悲惨な状況を目の当たりにしてそのように言えるか、ということがありますね。

C

悪については起こっていることと、その意味を区別すべきなのに、ここではそれがなされていないし、内心の善と外に現われた善との区別もないように思われます。
佐野
西田は区別していますね。起こっていること、これは原因結果によって起こります。しかし価値はそうではない。よく例に上がるのが彫像や画です。物質的に出来上がっているものの内に理想を見る目を養うことが問題となります。そういう目には世の中に悪はない、ということになります。それと内心の善と外面の善ですが、西田は道徳としては内面の善しか問題にしません。たとえ内面は自分のことを考えていても人の為になったというのは道徳ではないと。つまり至誠だけが問題なんです。ですが自分が至誠であったかについて、イエスと答えることができるのか、そうした問題です。

C

イエスともノーとも言った段階で至誠ではありませんね。だからこの世は悪しかない。

G

悪を目的とするのではないけれども、それでもぶつかってしまうのが悪で、それを克服することで至誠に至れる、と考えていた時期がありました。実在が矛盾衝突を通して発展すると書いてありましたので。でも今読んでみるとどうも納得ができない。
佐野
今の関心で読むしかないですからね。それにもっともらしい答えが出るといかがわしく思うというのもありますよね。今日はこのくらいにしておきましょう。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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