読書会だより

不変なるものとは何であるか

今回の「哲学的問い」は「不変なるものとは何であるか」でした。
佐野
テキストでは「物の概念」が「不変なる関係」と呼ばれ、「形相」が「不変」とも、「質料」が不変とも呼ばれていました。それを受けてのことですか。

A

(出題者)
ええ。不変とは時空を超えるということです。その意味で「物の概念」が時空を超えるというのは怪しいのではないかと思っています。

B

不変なるものはあります。それは「変化」です。変化は不変です。

C

プロティノスの「流れ(流出)」です。その流れにあって「一者(ト・ヘン)」は不変です。西田も言っています。
佐野
動中静、静中動ということですか。

C

そうです。

D

不変的なものはないと思います。あってほしいとは思いますが。不変的なものということですぐに思いつくのが神ですが、神が何か分かりません。イデアも分かりません。分からないものがあるとは言えません。
佐野
Dさんはニーチェの読書会にも参加されていますね。ニーチェは神やイデアなどの実体を立てることを厳しく批判しますね。

E

不変的なものがある、となぜ想定しなければならないのかが問題だと思います。
佐野
だけど不変的なものがなくて、すべてが徹底した流転の中にあるとすれば、知識というものが成り立たないんじゃないですか。Fさんどうですか。

F

不変なものはあります。数学の公理がそれです。
佐野
それって不変にしたんでしょ。

F

そうです。

G

人間に言語機能があるということは想定していいんじゃないですか。

H

オオカミに育てられた人間はどうですか。

I

それでも言葉を話そうとしたらしいですよ。
佐野
つまり人間の言語は不変かつ普遍的なもので、それによって知識が可能になっていると。しかしその不変的なものがあるといえないということになると、我々の知識というのはどのような基盤の上に成り立っているのでしょうか。

J

言語を持っているのが人間だけというのがおかしい。動物も意志疎通を図っているんだし。
佐野
動物に意志があるんですか。

J

そう聞かれると困るんですが。

C

人間の認識で言語が関与しているのは10%に過ぎないそうです。
佐野
今日はこのくらいにしてテキストに入りましょう。
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読書会だより

真にあると言えるものは何であるか

今回の「哲学的問い」は「真にあると言えるものは何であるか」でした。

A

どういう意味ですか。例えば死とか。
佐野
そういうことじゃなくて、そもそも「ある」とはどういうことか、ということです。例えばプラトンはイデアを真に「ある」ものと考え、『善の研究』のころの西田だったら純粋経験がそうであるように。

A

じゃあ、私は純粋経験です。
佐野
その純粋経験とは何かが問われますね。

A

意識の根本で、始めであり終わりであり、誰にも分からない・・・
佐野
困りましたね。

B

終わりって何ですか。

A

どこまでも発展するんですが、最後の最後から見ると現在に達するんです。終わりも始まりもないんですが、達観に達するんです。
佐野
そのような純粋経験を「ある」と言っていいんですか。

A

「ある」と言ったらもう純粋経験ではありません。
佐野
では真に「ある」と言えるものは純粋経験ではないんですか。

C

真に「ある」というのは不変ということです。それは「ある」とも「ない」とも言えないものです。言語化されないものです。

D

「ある」とも「ない」とも言えないものが「ある」がと言えるのですか。

C

(沈黙)
佐野
この沈黙が答えなのかもしれませんね。これは体験の事柄だと。

E

直接経験というのは事実であって、疑いようがない。取り扱いに困っているだけではないのか。

D

それは仮定とか、「ある」ことが必要とされているということで、結局あってほしいということではないですか。

F

「ない」が真にあるのかもしれない。

E

「ない」というのが間違いであって、「ないものはない」が正しいんです。
佐野
パルメニデスのようですね。真実には「ある」しかないのだと。

B

「無」が「ある」とはどういうことですか。

F

「ある」の中に無が含まれているということです。生の中に死が含まれているように。
佐野
それは「ある」と「ない」を内に含んだものですね。そうすると〈「ある」とも「ない」ものとも言えないもの〉を真に「ある」としたC説に近くなりますね。

E

人間は「ある」の中でしか生きられないと思います。
佐野
確かにそうですね。人間は「ある」と思っているものの中でしか生きられませんね。しかしその「あると思っているもの」が仮初で、必ず崩れる。真実の支えにならない。そこに人間の苦しみや悲しみがある。先程〈「ある」とも「ない」とも言えないもの〉が真に「ある」とされました。それに対し「ある」と「ない」はそうではないと。前者は言葉で言い表せない真実の「ある」だとすれば後者は仮、真実には「ない」ということになります。今度はここに新たな「ある」と「ない」の対立が生じていることが分かります。そうするとこの対立も言葉で言い表したものですから、真実ではないことになります。私たちはこのような仮初のもので自分を支えることはできません。しかし我々は真に「ある」ということを知っている。だから決して「ある」ということを手放したりはしません。しかし言葉で言い表された「ある」はすべて仮初です。この矛盾の中に「人間」が置かれているように思われます。
佐野
それにしても皆さんはずいぶん変わっていますね。「真にあるもの」ということでまず出てくるのは「目に見えるもの、手でつかめるもの」というのが出るとおもっていましたよ。

G

ここが西田読書会だからじゃないですか。
(笑い)
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読書会だより

自分らしさとは何か? ——対象化できない自己であるとき、わたしたちが口にする「自分らしさ」とはどのようなものでありうるか?

今回の哲学的問いは「自分らしさとは何か?―対象化できない自己であるとき、わたしたちが口にする『自分らしさ』とはどのようなものでありうるか?」でした。

A

(出題者)
西田は「自己」は対象化できないと言うのですが、「自分らしさ」とか「ありのままの自分」とかそれを肯定している風潮があると思います。そのあたりをみなさんに聞いてみたいと思います。

B

「自分らしさ」は自分では分からないから定義できません。周りから見て分かるものだと思います。私の場合否定的なイメージになることが多いのですが。

A

(出題者)
他人から言われて混乱した人がバランスをとる、あるいは開き直る時に「自分らしさ」を打ち立てることがないか、そのあたりを聞きたいのです。
佐野
「自分が自分である」というアイデンティティーの問題ですか?

A

(出題者)
というより、自分らしくしたいという願いの問題です。このことを人間は行動するときに必ず意識しているのではないか?

C

「自分らしさ」は自分を苦しめると思うんです。追求したりして固執すると、つまり「すぎる」と自分を苦しめます。昔は多様性がなかったからそれほどではなかったけれども、今は「らしさ」を出さなければならない、「らしさ」を演じるというか。
佐野
演技ですね。

B

何でも型が最初です。自分らしさもそこから入る。

D

私は自分が分からないんです。哲学を始めて分からないことがどんどん増えて、その中でも一番分からないのが自分なんです。絶対というのは死についてしか言えません。正しいとか間違っているとか、そういうものについて絶対はありません。この間他の人に「天然」と言われてずいぶんびっくりしたんですけれど、他者が見ている私も演じている一部でしかありません。だから先ほど「自分らしさ」は周りが見て分かるという意見がありましたが、私はそうは思いません。自分も分からなければ、相手も分かりません。
佐野
先程出題者は行動するときに人は皆「自分らしさ」を意識するとありましたね。自分らしさを意識して演じる。でも「自分」も「相手」も分からないということになると、日常生活に支障が出ませんか?どのように演じたらいいか分からないのであれば。

D

ええ、出ると思います。

A

(出題者)
若い人に聞いてみたいですね。

E

私も「自分らしさ」は分かりません。今まで好き嫌いの傾向で、勝手にあると思い込んでいたけど、それは違うと思います。周囲に言われて分かることもあるけど、それは一部分にすぎないと私も思います。だから「自分」は誰にも分かりません。
佐野
西田は『善の研究』第3編第12章で個人性ということを言っていますね。Eさん、読んでください。(一部を読む)。どうですか。なんかそんな気になるでしょ。個人性の実現こそが大切で、それはできるんだと。Gさん、どうですか。

G

自分らしさは分かりません。ですが自分の行動を決めているものは心理学でいうセルフ、自分自身です。無意識にスムーズにできる時が自分らしさ、西田の言う個人性です。その意味では今為すべきことだけが問題であり、こういう人間になりたいなどと考えても無駄だと考えています。

C

私、個人性に関する所で好きなところがあるんです。読んでもいいですか。
佐野
ぜひ読んでください。

C

「世人は往々善の本質と外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とによって定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし我々は如何に事業が異なっていても、同一の精神を以て働くことはできる。如何に小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人と言わねばならぬ。」(第3編第13章第4段落)
佐野
本当に元気が出ますね。ですが、よし俺も個人性を実現しよう、「自分らしく」生きよう、と考えたとすると、これは違うことになりそうですね。
 振り返りの考察です。人間が「自己」に目覚める。これは大変不思議なことである。動物にはおそらくこれがない。成長の過程で自我に目覚める。朝起きた時に目覚める。没頭状態やぼうっとしていた状態から我に返る。いろんな仕方で我々は「自己」に目覚める。しかしこの「自己」は対象化できないものである。対象化できないものに目覚めるというのだから、これは大変不思議なことだと言わざるを得ない。

 では目覚めた瞬間我々は何をするかと言えば、「自己」の確認を慌ててしている。自己存在の確認をその場の役割、記憶、身体感覚を通して行っている。しかし「自己」は対象化できないものであるから、これ等は「自己」自身、「自己」そのものではない。ここから人間について何が言えるか。

 対象化できない自我に目覚めるということは、我々がそれを対象化しない仕方で知っているということでなければならない。西田であればこれを直観と言うであろうし、ここにプラトンの想起説を読み取ることも可能であろう。

 それと共に目覚めると同時に慌てて自己(自我)の確認をするということは、目覚めと共に我々が自己を見失っているということを意味している。こうして我々は身体感覚や記憶、あるいは役割といった「自己ならぬもの」で「自己」を確認し、あるいは確立しようとする。このことを我々はやめられない。

 「自分らしさ」もこうした「自己ならぬもの」である。自分らしくあろうとするのは「自分らしさ」を失った者が「自己ならぬもの」で自分自身であろうとする試みである。「自分らしく」あろうとする試みを人間は決して手放さないし、諦めもしない。自分自身をどこかで(直観的に)知っているからである。それ故それは達成不可能な永遠の課題となる。

 一方で我々は自分らしくあろうとせざるを得ず、しかもこうした意識的な試みにおいて自己自身であることは決してないのであるが、他方でこうした試みを超えて自己は常に自分自身を直観し、如何なる行為も個人性(自分らしさ)でないものはないと言わなければならない。こうした矛盾の内に人間のあらゆる悲しみと深みの経験があるように思われる。
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読書会だより

善きサマリア人は神の促しに自由に応答したのか

今回の哲学的問いは「善きサマリア人は神の促しに自由に応答したのか」でした。「善きサマリア人の喩」は新約聖書のルカ伝にあるもので、「隣人とは誰か」という律法学者の問いにイエスが答えたものです。ユダヤ人が身ぐるみ剥がされ、ボコボコにされて道端に転がっている。それをユダヤ教の偉い宗教者が2人見てみぬふりをして通り過ぎた。そこへユダヤ人とは血で血を洗うような敵対関係にあったサマリア人が通りかかる。彼は「気の毒に思って」助ける。イエスはこの中で誰がユダヤ人の隣人であったか」と問う。律法学者はサマリア人だと答える。イエスは「あなたもそうしなさい」と言う。こういった内容です。ある偉いキリスト教の神学者(八木誠一)はこの「気の毒に思って」のところで神の促しがあったとするのです。それはユダヤ教の偉い宗教家にもあったんだけれども、彼らはそれに応えなかった。ところがサマリア人はそれに自由意志で決断し、応えた。ところが自由意志で決断してみたら、そうした決断が神の促しに由るものであることが分かった、とこういうのです。さて彼は神の促しに自由意志で従ったのでしょうか。

A

頭で考えるレベルではなく、言葉以前に身体レベルの応答だと思います。サマリア人は身体がそこまで解放されていたんだと思います。これに対し偉い宗教家は律法に囚われていて身体が死んでいたんです。

B

神の促しは身体レベルで応えるものだと。

A

そうです。神によって生かされているということが腹の底から分かっているということです。

B

常にそういう応答ができるような準備ができているということですか。
佐野
常日頃からの習慣ということになると、意識から入るということになりますね。

C

サマリア人には私心は全くなかったのですか。

A

私心はありません。

B

でもそうした応答に準備があって習慣化しているということであれば、そこには日頃の意識的な決断があるんじゃないですか。

D

西田の言う「意志の自由」には迷いはないと思うんですけど。救う時に瞬時にいろいろ考えると佐野先生は仰っていましたが、それは西田の意志の自由とは違うと思うんです。でもサマリア人の場合はこれを自由と言えるか。これはキリスト教の決断の自由ということで、選択意志の自由ですよね。これは西田の言う意志の自由とは違うと思います。

A

選択意志ということは迷っているということだと思いますが、迷うということ自体が不自由だと思います。

D

迷う、迷わないというのがすでに分別です。迷っていないのが神の促しへの応答だと言ってしまうところが胡散臭いと思います。

E

神の促しと言ったのは八木さんですよね。それを神の促しと言っていいのですか。
佐野
確かに如何なる行為についてもそれを神の促しだったと言うのは危険ですね。ところでFさん今日は静かですね。

F

キリスト教は全て神のおかげで仕舞いにする。でも人を助けるのはやはり余裕があってすること。それは瞬時に考える余裕があるとかいうことじゃなくて優越感の問題だと思います。「気の毒に思って」というところに優越感、上から目線を感じます。

G

私も「気の毒に思って」というところに優越感とは言えないまでも、やはり上から目線を感じます。
佐野
でもサマリア人が同じ苦しみを知っていて、うーん。この話でいいのかな。

A

それでいいと思います。サマリア人は虐げられてきたということは重要だと思います。
佐野
そうですね。サマリア人は虐げられていた。そのサマリア人もひどい目に遭ったことがある。その苦しみを知っている。それでほっておけなかった。これは上から目線ではないように思われます。

D

西田も「罪を知る」ということを言っています。これは共感の問題だと思います。

A

弱者が一番優しいというのはアタリマエのことです。それを権力者が利用するんです。
佐野
それは優越感のような上から目線ではなく自分もほっておかれる孤独の辛さを知っていたということになりますね。それは上から目線ではなく、自分もその辛さを知っているからほっておけなかったという「共感」ということになりますね。

G

それでもそこには問題があるように思います。
佐野
Gさんは如何なる共感にも人間の優越感、自己関心が入り込んでいるということを言おうとしているようです。今日はここまでにしましょう。
マザー・テレサは道端で半分腐って転がって死んでいく人に声をかけた。孤独を知っているからこそ、孤独のうちに死んでいく者を放ってはおけなかった。しかしそのマザー・テレサも純粋に人を愛することができないことで祈りをささげていた。どうしても自己関心に基づく思いが入り込んでしまうことを悲しんでいたのである。このどうしようもなく自己関心が入ってしまって、愛することができない。これが罪を知るということで、その悲しみが同時に人間の愛ではない神の愛、無条件にすでに赦している神の愛に触れることになるのではないか。こうした神の愛に照らされて同じ原罪を抱える人間同士の隣人愛が成り立つのではないか。もし神の愛に等しく罪人である「我等」が照らされることなく「気の毒に思って」親切な行いをしたとするならば、そこに隣人愛はないだろう。サマリア人は神の促しに自由に応答したか。この問いは「至誠にて悪事をなすことなきや」という西田の『倫理学草案第二』の問いと本質的に同じものを含んでいる。この問いに「イエス(然り)」を以て答えることができない、ということが人間と神、人間と人間の間を考える上で決定的に重要であるように思う。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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