意識する意識

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はYさんでした。キーワードは「真に意識する意識、即ち真の直覚」でした。それについての問いは「始原である「真の直覚」から意識の誤謬はどのように説明できるだろうか」でした。
佐野
前回の講読箇所は西田の初期フッサールに対する批判でしたね。初期フッサールでは知覚的直覚がすでに反省(「意識された意識」)であり、それが志向作用を基礎づけ、それによって知識が充実する形になっている。西田はそうじゃないと考える。「真の直覚」は「意識する意識」でなければならず、それが作用を基礎づけることで、知識が充実していくと考える。

A

純粋経験から始める、ということですか?
佐野
『善の研究』第2編の「純粋経験」つまり「直接経験」と、第1編冒頭の「純粋経験」をまずは区別する必要があると思います。「直接経験」は主客合一ですが、それは想起するなど、反省によらなければ顕わになることはありません。この反省が破られる、といういわば〈驚き〉のようなものが「純粋経験」には不可欠です。そうした境位から初めて「純粋経験は直接経験と同一である」ということが言いうるわけです。第4巻『働くものから見るものへ』では「内部知覚」が直接経験と呼ばれ、それは「確信」を生じるとされていますが、「明白(明証性)」には至らないと考えてられています。そのためには「自己自身を失う」ことが必要だと(旧全集版64-65頁)。私はこの「明白」に至った純粋経験が第1編冒頭の「純粋経験」だと考えています。そういう限定付きで「真の直覚」から始めるということは「純粋経験」から始めると言ってもよいと思います。西田は反省以前の「真の直覚」から始めて一般に作用を基礎づけ、「自然界」と「意志の世界」を構成しようとします。さて、それではYさんの問いに戻りましょう。「始原である「真の直覚」から意識の誤謬はどのように説明できるだろうか」でした。「真の直覚」に基礎づけられた知識に誤謬の余地はないではないか、ということです。

A

「真の直覚」を出た所で誤謬が出て来るんじゃないでしょうか。
佐野
反省・判断の領域ですね。

B

私もそうだと思います。反省・判断の領域で初めて真偽が問題になると思います。
佐野
誤謬や真偽は一定の領域・場所においてのみ成立するのだと。

C

確かに判断のないところで真偽も誤謬もあり得ないと思います。
佐野
そうすると、「真の無の場所」では真も偽もない。以前この場所についてアウグスティヌスの善悪を超えた絶対的な善について語られたように、この場所は真偽を超えた絶対的な真の世界と呼べることになりそうですね。プロトコルについてはこれくらいにしておきましょう。本日は249頁2行目から14行目まで講読したいと思います(以上は、実際の対話の記憶に基づいてアレンジしたもの、以下は架空対話です)。

D

転回点が二つあり、そのつど矛盾の超越があるように見えますが、具体的にはどういうことでしょうか。最初の「矛盾の意識」というのは以前出てきた丸い四角みたいなことですか?
佐野
そうだと思います。意識一般の世界ではすべてが矛盾律に従って合理的に構成されます。しかしそれができるのは、我々が「矛盾」ということをどこかで知っているからです。それが意志の世界です。そこでは有がそのまま無であり、無がそのまま有です。丸い四角を考えることはできませんが、考えようとすることはできます。西田はそこに意志を認めます。こうした思考・判断における矛盾の意識によって、判断ないし知識の世界から意志の世界へと転回する、というわけです。(もっとも反省や判断の立場を超えさせるような矛盾とは、それを行っていながら、それを行うもの自身が問題になっていない、ということにあるように思います。そうした矛盾の意識は当然、人生の矛盾の意識となるはずです。)

D

次の「意志の矛盾の超越」は?
佐野
これも切り詰められた表現ですから、はっきりとは言えませんが、おそらく道徳的な意志の矛盾だと思います。

E

欲望に負けるというようなことですか?
佐野
西田はパンやお菓子が好きだったようで、猛烈に反省していますね。そのことが日記に書いてある。そこまで自分に打ち克とうとしていたことが驚きですね。道徳的な意志の矛盾はそういうことも含むと思います。善を対象として、それを意志するけれども、そのことによってかえって実現不可能になってしまう。善があくまで向う側に置かれることになるからです。こうしてこうした意志の立場は悪や罪に躓くことになる。

D

『善の研究』を構想する以前の西田と同じじゃないですか?
佐野
そうだと思います。少なくとも私の解釈では。『倫理学草案第二』での躓きのことですね。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第39回)
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(この)赤は赤である

今回はプロトコルを巡っての議論を紹介しましょう。(記憶をもとにかなりアレンジしてあります。)今回のプロトコルの担当者はMさんでした。「(この)赤は赤である。赤は赤に於てある。一つ目の赤は質料を含む形相であり、二つ目の赤は意識せられた赤、純粋形相であろう。実在の根柢にある非合理的なものは具体的一般者であり、主語となって述語とならないものではなかったか。ここでは西田は「見る眼」を「述語的なるもの」としている。これはどういうことか」がその内容です。
佐野
純粋形相が「意識せられた赤」になっていますが、ここで意識するものと意識されたものとが対立するということですか?

M

ここは迷ったんですけれども、対立はしません。この「赤」は直観されるものです。曇りのない鏡にそのまま映されるんです。

A

それではそこからどうやって判断が生まれるんですか?
佐野
「見る」ことは「無から有を作る」とか「無から質料を作る」という表現もありますね。その場合どうやって、質料や有が映されるんだろう。

B

映されるものが予めあって、それが映されるんじゃないと思います。合わせ鏡のように互いに映し合うことで映されるんだと思います。
佐野
それでも理解しがたいですね。西田は「真の無の場所」とそこに「於てある」「純粋性質」から自然界や意志の世界を構成しようとしていますが、ここでそれが成功しているか疑問が残ります。ところでもう一度、Mさんの問いに戻りましょう。主語的な面で述べられてきた「具体的一般者」がどうして「述語的なもの」になったのか。「具体的一般者」はもともとヘーゲルの言葉ですが、西田はこの語を様々な意味に用いてきました。『働くものと見るもの』の前編では色や空間について用いられていました。後編の「働くもの」になると具体的一般者ははじめ主語述語以前の主語面において問題となっていましたが、次第にその述語的な面が問題になり始めます。これが何を意味しているのか、そういう問いでもあると思います。

A

主語的な具体的一般者は「がある」存在、つまり「存在」としての有で、述語的な一般者は「繋辞」としての有だと思います。
佐野
なるほど。主語述語以前の具体的一般者と言っても、なお対象化される側面が残っていたと。以前「確信」と「明白」の区別が出てきましたね。確信は「直接経験(内部知覚)」だけれども、「現在」には届かない、その意味で対象化されたものであり、こうした対象化を破ったものが「明白」だというように。私はこれを『善の研究』における第2編の直接経験と第1編の純粋経験の違いのようにも感じました。第2編の直接経験はあくまで想起・反省の対象です。これに対してそうした反省が破れた所に成立するのが、第1編の純粋経験です。今日はこれくらいにしておきましょう。
今回は旧全集第4巻248頁13行目から249頁2行目までを読み、そこに出てくる「現象学者」の理解を深めるために『哲学のエポック』(辻村公一他編、1994年、ミネルヴァ書房)所収の「フッサール」(丸山徳次執筆)の278頁初め~281頁8行目を講読しました。

A

「「本源的に与える」体験と本源的なありようを指示している体験とのこの緊張関係が、あらゆる意識を貫いている」が分かりません。
佐野
「本源的に与える体験」とは例えば「知覚的直観」(現に見ている)のことです。〈靴箱の上のカギ〉は記憶の中では単に「思惑」に過ぎず、それは「本源的なありよう」つまり〈現に見ている〉ありようを指示しています。それだから、「確信」するために見に行く。ない場合がしばしばありますね。私の場合。

A

次の「事象それ自身がそのままに与えられているという意識を「充実」もしくは「明証性」と呼ぶならば、何ものかについての体験はすべて充実されることに、明証性に、差し向けられている」は?
佐野
「靴箱の上にカギがある」が事象です。それを現に見る、これが「明証性」でそれによって我々は「確信」を抱くわけです。そうして「明証性」が得られている状態が「充実」です。ふつうはそれでよいのですが、現に見ているにしても「本当に靴箱の上にカギはある」のだろうか?これは「疑い得ない」と言っていいのだろうか?「本当に」が付くと、途端に怪しくなります。「このペンは本当に有るのか」について考えて見ましょう。それは「これは本当にペンなのか」という問いを含みますね。ですが例えば私が専制君主だったとすれは、このペンはもしかすると、書くと毒ガスが出る可能性だってある。そうなればこれはペンではない。疑う立場に立てばいくらでも疑えるわけです。まして「このスープはおいしいですからお飲みください」などというのをそのまま信じるわけにはいかない。専制君主でなくても、この肉は「国産」です、などというのを消費者はうのみにはできないし、ましていかがわしい骨董屋に「これは運慶作の仏像です。お安くしておきます」などと言われても、我々はきっと用心するでしょう。我々の抱いているのは「確信」であって、真なるものそのものの認識ではない。

B

でも現に見ていて、しかも書いても毒ガスも出ないし、現に書ける。これは「本当に有る」と言ってもいいのでは?

C

いえ。本当に有るとは言えないと思います。私は朝出かける夢を見ます。すべて準備しているんですが、夢なんです。だからいくらちゃんとかけていても本当にそれがペンだとは言えないと思います。

D

そうだとすれば現象学を「一切の学問の絶対的基礎としての普遍学」というのは言い過ぎだと思います。
佐野
なるほど。

A

その次の「あらゆる体験は何ものかについての体験」というのは?
佐野
その次に「意識は何ものかについての意識」とありますね。これが意識の「志向性」と呼ばれるものです。目の前にさいころがあるとします。我々はそのさいころの全体を一挙に見ることはできません。今は正面しか見えていないとすると、側面や裏面の知覚は想像でしかありません(インチキさいころだってこともありうる)。そこで「意識は対象そのものを持つ直観的充実を目指す仕方で対象に向かう」わけです。とりあえず今日のところはここまでとしましょう。次回は西田の現象学批判を見ていくことにします。
(第38回)
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無から有を作る

お久しぶりです。「読書会だより」を再開しました。架空対談の形で今後の読書会の在り方を考えて見たいと思います。
佐野
読書会では毎回前回の講座を思い出すために「プロトコル」をメンバーが当番で作成していましたが、いろいろ問題が生じてきました。

A

どういう問題ですか?
佐野
まずテキストが超難解で作成が困難だということ、したがって当番の成り手が少なくなってしまったこと、が挙げられます。

B

まったく成り手がいないというわけではないのでしょう?
佐野
ええ。しかし 勇気をもって引き受けていただいた場合でも、内容が難しいために、プロトコルの紹介で読書会の時間の多くをとられ、必然的に本来の読書会の時間が少なくなってしまうんです。そこで仕方なく佐野がプロトコルを作成するケースが増えてきたわけです。

C

それだと参加者が自ら時間をかけてテキストを読み込む機会を奪うことになりませんか?
佐野
そうです。結局佐野の講義みたいになってしまう。それはこの読書会の理念とする在り方とは違います。読書会はあくまで「共に読み、共に考える」ことを理念としています。参加者が主体です。

C

困りましたね。どうするんですか?
佐野
今回「共に読み、共に考える」時間を確保し、しかもプロトコルをできるだけ輪番に近い形にするために、工夫をすることにしました。まず「プロトコル」は「キーワード」ないし「キーセンテンス」を挙げ、それについて「考えたこと」あるいは「分からないこと」を200字程度で報告していただき、次回はそれをもとに紹介を含め、30分以内で議論する、という方式をとろうと思います。

A

それだと輪番でもできそうですね。
佐野
そう言っていただけるとありがたいです。

B

でも、これまでのプロトコルのような記録はやめにしてしまうということですか?
佐野
たしかにそれはもったいない気がしますが、一番大切なことは、どんなに難しくても、まずは自分で解釈してみることだと思います。初めての楽譜を音にするみたいにね。初めての楽譜を音にする時って、曲にもよるけれど、何をやっているか分からないことが少なくない。しかし繰り返し、もちろん考えながらですが、音にしていると、いろいろな発見がある。音楽になって来る。この過程がとても大切だと思うのです。

B

そうですが、専門家でもない人が、西田の難しい文章を一人で読むことはやはり難しいと思います。
佐野
ええ。だから「共に読み、共に考える」。

B

そうはおっしゃっても、読書会の時間内では結局分からないまま、次に進む形になっていますよ。少なくとも私はそうです。
佐野
分かっても分からなくて続けることが一番大切なのですが、西田の「場所」論文のようなものの場合、極端に難しいですから、かなりの苦痛になるだろうと思います。そうかといって私が、分かったような顔をして教えを垂れ、参加者が私に教わるという形にはしたくない。私が読書会のために準備してきた解釈は一つの解釈でしかありません。皆さんと共に考えることで、それは変わっていくものです。

B

結局、どうするんですか?
佐野
やはり、「共に読み、共に考える」時間を確保したいと思います。私も準備はしてきますが、そのことは一応横に置いておいて、皆さんと一緒に考えます。

B

それだと結局、分からないまま次へ進むことになりませんか?
佐野
そうなりますね。ですがそれを持ち帰って考えることはできますね。それは私も同じです。そこで読書会を終えた後、ポイントとなるところ、面白そうなところ、あるいは難しいところなど、思いついたことをこの「読書会だより」のスペースを利用してアップし、それを皆さんと共有したいと思います。皆さんはそれをヒントにして、自らこの難曲を音にしていくわけです。

A

やって見ないとわかりませんが、とにかくやって見ましょう。

D

今回の講読箇所について何かコメントはありませんか? 今回は旧全集版247頁1行目から248頁13行目まででしたね。
佐野
まず「我々に真に直接なるもの」を「純粋性質」と呼んでいますね。これは「真の無の場所」に「於てあるもの」です。そこでは「物」も「作用」も消え失せる、とされています。「物」(本体)も「作用」(働き)も消え失せるから「性質」と呼ばれていると考えられます。

D

『善の研究』の純粋経験を思わせますね。
佐野
そうですね。「物心の独立的存在」を否定しているところ、「色を見、音を聞く刹那」に「外物の作用」や「我がこれを感じて居る」といった作用を否定しているところなどにそれを感じさせますね。このように物や作用が否定された、だからそこに見えるのは「すべてが影像」ということになります。しかしそれは「判断の立場から云えば」ということです。

D

続いて「真に無の立場に於ては所謂無其者もなくなるが故に、すべて有るものはそのままに有るものでなければならぬ」とありますね。
佐野
ここには立場の転換がありますね。

D

しかしさらに続けて「有るものがそのままに有であるということは、有るがままに無であると云うことである、即ちすべて影像である」とありますよ。また「判断の立場」に転換するということですか?
佐野
「判断の立場」そのものは「すべては影像」とは考えないでしょう。「すべては実在」と考えています。ですから「すべては影像」と言い得た「判断の立場」は立場としてはすでに破れています。そうした破れた「判断の立場」においてはじめて「すべては影像」ということが受け入れられるのです。そのことと「有るものがそのままに有るものである」と言い得る「真の無の立場」が同時だということです。「AはAでない、それ故にAである」という即非の論理を思わせますね。

D

続いて「有るものを斯く見るということが、物を内在的に見ることである」とありますね。これは?
佐野
「斯く」とは「有るものが有るがままに無である」ことが直ちに「有るものがそのままに有るものである」と見ることですね。それは同時に自らが無になって物となって見ることです。西田はこれを「無から有を作る」と言おうとしていると思います。だから「作るというのは…見ることである」と言われます。ただそのためには「判断の立場」が破られる、という契機が決定的に重要であり、さらに言えば絶対的な他者との出会いが不可欠ですが、その点はここではあまり述べられていないように思われます。今回はここまでにしましょう。
(第37回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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