知覚は思惟の上に重なり合ふ

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 258ページの8行目「直覚は意志の場所をも越えて深く無の根柢に達して居る」から259ページの9行目「一つの一般概念でなければならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーセンテンスは「知覺は思惟の上に重り合ふのである」(259,3)で、「考えたことないし問い」は「一般の中に特殊を、特殊の中に一般を包摂する方向性が、知識あるいは意志であり、二つの方向性の統一は直覚である。また、現象学のいう〈知覚の充実〉における、基礎付ける作用と基礎付けられる作用は共に、直覚即ち無の場所に於いてあるのであり、〈知覚作用〉は、既に「範疇的直覚」(思惟)を含んでいる。通常、知覚と思惟は時系列性を有すると考えるが、「知覺は思惟の上に重り合ふ」については、どのように解釈したらよいのだろうか」(203字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
Yさん。何か補足があるようですが。

Y

前半はまとめです。後半が皆さんにお伺いしたい点です。通常認識の過程として感覚、知覚、思惟といった時系列を形成すると考えられていますが、西田はここでそれとは異なる独自の時間を考えているようなので、そのあたりを皆さんと一緒に考えたいと思います。

A

「重り合う」とありますが、時系列的にはどういうことですか。
佐野
直前に「知覚作用として限定せられた直覚は、既に思惟によって限定せられた直覚である」とあります。「既に」という表現からすると、思惟が先のようですね。思惟が知覚作用として限定する、そこに知覚的直覚が成立する、と読めますね。ところでYさん。西田が考えている独自の時間とはどのようなものですか?

Y

「重り合う」という表現を西田はよく用いています。西田は直線的な時間を根源的なものとは考えていないように思われます。

B

直線的な時間はすでに思惟によって考えられた時間、一般概念の空間上に成立する時間だと思います。
佐野
なるほど。(これは後で思い出したのですが、西田は『善の研究』でも「我々の直接経験の事実においては純粋感覚なる者はない。我々が純粋感覚といって居る者も已に簡単なる知覚である。而して知覚は、いかに簡単であっても全く受動的でない、必ず能動的即ち構成的要素を含んで居る」(岩波文庫改版79頁)と言っています。)プロトコルはこのくらいにして今回の講読箇所を読みましょう。今回は259頁9行目から260頁12行目まで読みます。Cさん、お願いします。

C

読む(259頁13行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか?「無限の次元の空間とも考え得べき真の無の場所」を思惟がスパッと切ってそこに境界線ができる、それが「一般概念」です。知覚的直覚の場合は「知覚一般の概念」がそうした境界線で、そこに土俵ができる。まあ、そんなことを言っているのですが、最後の所が難しいでしょう?一般概念が「一方に於て限定せられた場所」の意義を有すると共に「一方に於ては自己自身を限定する場所」の意義を有するってところが。どうですか?

D

先を読んだ方がいいと思います。
佐野
そうですね。ではDさん。お願いします。

D

読む(260頁4行目まで)。
佐野
「私が前に一般概念の外に出ると云ったのは」とありますね。「前に」とはどこですか?

E

254頁です。2行目に早速あります。
佐野
そうですね。目下のテキストに戻ると、一般概念の外に出るとは、一般概念がなくなることではなく、「限定せられた場所から限定する場所に行くこと」だと。それがまた「対立的無の場所」から「真の無の場所」に行くことだと。それが「単に映す鏡」から「自ら照らす鏡」に到ることだと。「単に映す鏡」という表現はどうですか?どこに書いてあったか覚えていますか?覚えてない?調べておきました。231頁8行目を見てください。「単に映す鏡」が「対立的無の場所」に関して用いられていますね。これに対し「対立的無を含む無」つまり「真の無の場所」について「外を映す鏡でなくして内を映す鏡」という言葉が用いられています。これが「自ら照らす鏡」であることが分かります。「単に移す鏡」とは「外を映す鏡」のことですが、これは理解できる。普通の鏡です。ですがどうですか?「内を映す鏡」とか「自ら照らす鏡」とかは想像しにくいですね。

F

その鏡は「外から持ち来ったのではない、元来その底にあった」とありますね。だから私たちの一番奥深い底にもともとあるんです。そして「鏡と鏡が限なく重り合う」とありますから、合わせ鏡みたいになっているんです。

G

しかも「自ら照らす鏡」自身は合わせ鏡ではなくて、しかも光源を自ら持っている。
佐野
いよいよイメージしにくいですね。しかし「此故に我々は所謂知覚の奥に芸術的内容を見ることもできる」とありますから、前回のプロトコルで取り上げられた258頁2行目の「要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立する」を参考にできますね。ヴァイオリンの一つの音をとっても、そこには全体がそのまま入っている。一般概念が無限に重なり合っているんですね。しかしどうでしょう?「限定せられた場所」から「限定する場所」に行く、とありますが、これは「意識せられた意識」から「意識する意識」に行くことですよね。これがまあ、純粋経験ということだと思いますが、「意識する意識」に行くってどういうことなんでしょう?そんなことできるんでしょうか?

H

それが直覚ということでしょう?

I

西田は直観と直覚と、両方使っていますが、同じ意味ですか?
佐野
文脈で判断するほかありませんが、ここでは同じ意味に用いられているようです。そこで意識する意識(直覚、真の無の場所)が自ら限定する、ということですが、西田はこれがないと我々の通常の知覚作用も成立しない、そう考えるわけです。しかしそのようなものが本当に「ある」といってよいでしょうか?文章を読んでいるとだんだんそんな気がしてきますが・・・。難しいところだと思います。それではJさん、次を読んでください。

J

読む(8行目まで)。
佐野
「小語」というのが出てきますね。これは三段論法の用語です。大前提(例:人間は死すべきものである)、小前提(ソクラテスは人間である)、結論(ソクラテスは死ぬ)のうち、「死すべきもの」に相当するのが「大語」、「ソクラテス」に相当するものが「小語」、「人間」に相当するのか「媒語」です。ですからテキストにあるように「小語」は「特殊なるもの」ということになります。「知覚の意識」は特殊性という一般概念、つまり「小語的概念」によって限定せられた場所、ということになります。そこに「特殊なるもの」が「於てある」ということです。そうしてこの「特殊なるもの」が主語として、一般を含むことになります。例えばこの塩は白くて辛い、というようにね。「判断の意識」は逆です。リンゴは果物である、という判断の場合、一般(果物)が特殊(リンゴ)を含んでいます。一般という一般概念によって場所が限定されることになります(そこから「最高の一般概念」とは何かが問題になってきます。これはつぎの段落で扱われます)。それではKさん、次をお願いします。

K

読む(12行目まで)。

K

「知覚の底には概念的分析を容れない無限に深いものがある」ことを西田は認めながら、「かかるものの背後に概念を入れて見る」と言っているのですが、どういうことですか?
佐野
たとえそれが「概念分析を容れない無限に深いもの」であっても、まさにそうした「無限に深いもの」という「概念」を入れて見なければ「知覚」は成り立たないということではないでしょうか。今日はここまでとします。
(第50回)
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非連続の連続——意志と直覚の狭間

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 257ページの10行目「此の如きものを私は場所としての一般概念と考へるのである」から258ページの8行目「限定せられた場所を脱することはできない」までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーセンテンスは「意識に於いては、要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立するのである」で、選んだ理由は「特殊のなかに一般がひらける様子が伝わるようで面白い表現だと思いました」とのことです。「考えたこと」は「無限に自己を充実していくこと(作用)の限りなき行先が志向対象として知覚に内在している。それは最も深い場所に「於いてある」ことであり意識は全体へと開けていく――との理解に誤りはないか。その場合、作用の作用は最深の場所に向かうが最深に達することなく行先を見失うのだろうか。限定せれられた場所を脱することができず直覚には達しないのか」(164字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
理解に誤りはないか、ということですが、文面を見る限り無理のない解釈だと思われます。ですが「作用の作用は最深の場所に向かうが最深に達することなく行先を見失うのだろうか」というのはテキストにありませんね。

O

でも「作用の作用との結合は裏面に於ては意志である」とあって、そうした意志も「限定せられた場所を離れることはできない」とあります。
佐野
これは今日読むところですが、今挙げていただいた文章のすぐ後に「直覚は意志の場所をも越えて深く無の根柢に達して居る」とあります。そうなると意志の場所を越えた所に直観ないし無の根柢があることになります。

O

意志を越えた先に直観がある、ということですが、そこが分からないんです。意志によってどこまでも語り得ない個物を主語の方向に限定していくんですが、それだと個物のありのままの在り方には到達できないと思うんです。同じことですが意志は直観には達し得ない、そう思うのですが。

A

でも私たちはつねにありのままの世界、直観の世界に生きているんじゃないですか?そこが純粋経験の世界だと思うんです。その世界に死んで反省の世界に生まれるんだと思います。
佐野
今のは直観から反省、あるいは知識や意志に行くには、否定を介さなければならない、ということだと思いますが、知識や意志から直観に行くにも、いっぺん死ぬということ、つまり否定がなければならない、とも言えますね。

A

そう思います。
佐野
そうなると、そこには超越がありますね。連続じゃない。いわば「非連続の連続」。でもこういう言葉を振り回すことは注意が必要だと思います。「絶対矛盾的自己同一」もそうですが、その言葉を聞いて分かった気になってしまう。今のところでは反省から直観へ行く道はない。しかし突如として超越が起って直観の中にいる自分に目覚める。その立場から反省との連続が見えてくる、このように解釈することもできます。しかし直観から反省へ行く場合もそんなに簡単じゃないと思います。さっきAさんが仰ったように、そこにも超越がある、気がついたら反省のうちにいる、ということがあると思います。反省と直観の関係、これはとても難しいと思います。プロトコルはここまでにしておきましょう。今日は259頁9行目まで講読します。今日初めてご参加のBさん、お願いします。

B

(読む:8~10行目)

C

「一般の中に特殊を包摂していくことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志である」とありますが、具体的に例を挙げて説明してください。
佐野
これは皆さんで考えましょう。どなたか説明していただけませんか。

D

たとえば、「この」ミカンはミカンである、というのが「知識」で、その場合〈ミカン一般〉が〈このミカン〉という特殊を包摂していることになると思います。逆に、ミカンが食べたい、と言っても〈ミカン一般〉を食べることはできず、〈このミカン〉を食べるしかない、これが「意志」だと思います。
佐野
ありがとうございます。皆さん、いかがでしたか。よく分かりましたね。次、Eさん、お願いします。次読んでください。

E

(読む:10~13行目)

C

「主語となって述語となることなき基体が充実して行くというのも、この方向に向って進み行くのである」を具体的に説明してください。
佐野
基体はアリストテレスのヒュポケイメノンですね。ここでは実体つまり個物と同じと考えていいと思います。例えば〈この塩は白い〉というのは〈この塩〉という特殊が、〈白い〉という一般を包摂していると見ることができますね。西田はここに、特殊の中に一般を包摂する作用を見ているのだと思います。そうしてそれを意志だと。次に現象学が出てきますね。これは初期フッサールです。初期フッサールの場合、この作用が志向作用で、これが知覚作用によって基礎づけられ知覚が充実することになります。

F

どういうことですか?
佐野
玄関にカギがあることを意識した場合、〈玄関のカギ〉が志向対象になります。実際に行ってみて確認した場合、はじめて知覚が充実することになります。「現象学に於て知覚が充実して行くというのも、この方向に向って進み行くのである」とありますね。「この方向」とは?

D

対象の方向だと思います。
佐野
そうですね。主語の方向ということもできますね。その方向で、基礎づける作用(知覚作用)も基礎づけられる作用(志向作用)も「一つの直覚の圏内に入って行く」と書いてありますが、Oさんはここが分からない、ということになります。とにかく、ここには超越があります。その時には術語方面で言えば、二つの作用が「共に無の場所に於てある」ということになります。よろしいでしょうか。それではGさん、次お願いします。

G

(読む:258頁13行目~259頁1行目)
佐野
「範疇的直覚」というのが分からないと思います。これも初期フッサールの用語です。例えば私は今椅子に座っていますが、「この椅子はクッション付きで、かつ茶色である」という文の中で目に見える部分はどれですか?

C

全部見えます。
佐野
「この」はどうでしょう。それから「かつ(and)」もどうでしょう。

C

見えません。思惟の働きだと思います。
佐野
そうですね。〈椅子〉や〈クッション〉〈黄〉は「知覚的直観」によってとらえることができますが、「この」「かつ」「である」などはそうはいきませんね。こうしたものを直観するのが「範疇的直観」です。それでは「我の全体がそこにある」の「そこ」とは?

D

知覚作用だと思います。
佐野
そうですね。そうして西田は「我の全体」がそこ、つまり知覚作用の中に含まれていると言っています。つまり知覚作用のなかに範疇的直観というような思惟によるものも含まれている、というのです。そうして「私は之を無の場所に於てあると云いたい」とあります。これは先ほどの基礎付ける作用と基礎づけられる作用、つまり知覚作用と志向作用(思惟的・意志的なもの)が「共に無の場所に於てある」というのと同じことを言っていますね。よろしいでしょうか。それではHさん、次お願いします。

H

(読む:1~4行目)
佐野
指示語がいくつか出てきますね。「知覚的なるものがその底の場所に映ったものが、その一般概念となる」とありますが、「その」とは?

D

「知覚的なるもの」だと思います。これを西田が「知覚作用」と言わなかったのは、そこにすでに思惟的なものが含まれているからではないでしょうか。
佐野
面白いですね。それにこういう所を何でだろう、と考えることが読む場合にはとても大事だともいます。ここではそうした「知覚的なるもの」に「底」があり、それが「場所」で、そこに知覚的なるものが映ったもの(影)が「一般概念」だと言っています。それでは次をIさん、お願いします。

I

(読む:4~9行目)

F

「一つの平面」の話がよく分かりません。
佐野
先程の「底」「場所」を平面と考えているのだと思います。

D

「一つの平面に於ては、或一の点から無限の果を廻っても、亦元の点に還ることが可能でなければならぬ」とありますが、四次元空間では時間が入りますので、それは言えないと思います。
佐野
なるほど。時間は不可逆だと。(それでも四次元空間というように「空間」として考えているならば西田の言うようになるのかもしれない、と後で考えてもみました。)ここでの主眼は「真の無の場所」が「無限なる次元の空間」と考えられ、それを「一平面」に限定するのが「一般概念」だということです。私たちは実は「真の無の場所」に生きているのですが、そのことは理解できない。我々が何かを理解するのはいつも「一般概念」という土俵の上です。誰かと話をする場合でもこうした土俵がなければ話ができない。Iさん、「真の無の場所」で人間が話し合うことはできますか?

I

そこではコミュニケーションはすでに必要がないと思います。
佐野
なるほど。

D

私は日常的な世界は「一般概念」つまり土俵の上に成り立った世界で、「真の無の世界」とは、生成が同時に消滅であるような矛盾の世界だと思います。
佐野
ありがとうございました。今日はここまでにしておきましょう。
(第49回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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