意志の連続、意志の自由

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 263頁5行目「事実的判断は論理的に」から265頁3行目「逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意識するということは、無の場所に映すことであり、この場所から見れば内面的なる意志の連続に過ぎない」(265.2-3)で、「考えたことないし問い」は「佐野先生が純粋経験の世界と解説をされている箇所になりますが、下記の疑問を持ちました。①意識すること、または、内面的なる意志は、小嶋の考えでは、ランダムに生じると考えており、連続するとは限らないと考えています。また、連続するほど頻繁に生じることなのでしょうか。②内面的なる意志は、「過ぎない」と言われるほど価値が低いことなのでしょうか」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
内面的な意志がランダムに生ずる、とはどういうことですか?

K

普段は意志などを意識することはなく、ふと気づいたら意志をしている、というようなことです。
佐野
この箇所はつぎの箇所とも深くかかわっていますので、先にそちらを読んで見ましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(265頁8行目まで)。
佐野
これを読むと「限定せられた有の場所」の立場にギリシャ哲学が立っていることが分かりますね。「限定せられた有の意義を脱しない希臘哲学」とあります。

B

どうしてここでギリシャ哲学が出てきたのでしょうか?
佐野
まあ、思いついたのでしょうね。ここは本文に対する注のような部分です。「何處までも質料を形相化し遂に純なる形相に到達するも、尚質料が真に無になったのではない、唯極微的零に達したまでである、質料は尚動くものとして残って居る」とありますね。ギリシャ哲学では「無からは何も生じない」ということが基本であると、西田は考えています。アリストテレスでも「月下の世界」では第一質料が残りますし、プラトンでも神に相当するのは、場(コーラ)においてイデアを範型として宇宙を作る「デミウルゴス(工作人)」にすぎません。キリスト教の神は無からの創造を行う神ですから、そのようなことが念頭にあったのかもしれません。

C

「質料は動くものとして残って居る」とは、どういうことですか?
佐野
「動くもの」はアリストテレスの「動(キーネーシス)」のことですね。時間の中にある運動のことです。これに対し魂の活動は「エネルゲイア(現実態、現実活動態)」と呼ばれます。ヒマワリの種は可能態で、苗が現実態で種から苗にまで成長することがここではキーネーシスです。ヒマワリの「魂」が現実活動態(エネルゲイア)として絶えず働くことによってヒマワリの種は苗にまで成長する(動)のですけれども、完全に純粋な形相に成り切ることはできません。ヒマワリはまた種を生じ、これを繰り返すだけです。こうしてすべての実体(ウーシア)はその形相を通じて、形相の形相として第一形相(究極目的)へと向かう「動き(キーネーシス)」のうちにあることになります。この第一形相こそが、不動の第一動者(自らは動かず動かされずして他を動かす者)としての「神」です。すべての実体(個物)はちょうど愛する者が愛される者に惹き付けられるように動かされるのです。神は純粋な思惟(ヌース)の現実活動態であり、他のものを対象とすることなく、ただ自分自身にのみ向かう「思惟の思惟」という永遠にして最善の生、従って至福の状態にあるとされます。人間の魂も身体(質料)を持つものとして他の自然界における実体と同じように生死を繰り返しますが、思惟(ヌース)によってほんの瞬間、垣間見るような仕方で、こうした至福の状態、観想(テオーリア)に与ることができるとされます。魂の徳のうち最高の徳が思惟・知性であるならば、知性に基づく活動・生(「観想的生」)が最高の幸福(至福)であり、他の倫理的・政治的な生は観想的生を実現するための二次的で外的な条件とされます。キーネーシス(動)とエネルゲイア(現実活動態)の区別はよろしいでしょうか?これを説明するとまたMさんに笑われそうですが・・・

D

お願いします。
佐野
キーネーシスの方は物の運動のことで、可能態から現実態までに至る動で時間のうちにあります。目的が外にあり、それを実現するまでは不満足の状態にあることになります。これに対しエネルゲイアの方は魂の活動で、こちらは時間のうちにはありません。絶えず活動していて、つねに現在進行形と現在完了形が同じです。例えば「見る」ということについて言うと、見ている、はいつも見てしまっている、ですね。アリストテレスはいろいろな動詞をこうした観点から分類していますが、同じことは一般的にも言えるはずです。例えば「歩く」ということを例に取ってみましょう。湯田温泉駅まで「歩く」、その歩き方にも着くことを目的にすると、着くまではつねに不満足な在り方となり、また遅速が問題となります。せっせと歩く。これがキーネーシス的な歩き方ですね。これに対し、歩くこと自体を目的にすると、つねに満足の状態にあり、遅速も問題とならず、気がついたら着いている、ということになります。これがエネルゲイア的な歩き方、ということになります。しかし「歩くこと自体」を目的にしてしまうと、やはり目的を外に置くことになってしまいますね。どうしてもキーネーシスになってしまう。質料が出て来てしまう。今の例で言うなら西田はこういうことを言おうとしているのだと思います。つまり反省的な思惟とか、目的を外に立てる意志という仕方ではどうしても質料が残ってしまう、ということです。「観想」自体を目的にしても同じことです。目的にした時点で目的外在になってしまう。だから観想ということは垣間見るという仕方でしか実現しない。しかも「見た」といったとたんにすでにその外に出て行ってしまう。「何處までも質料を形相化し遂に純なる形相に到達するも、尚質料が真に無となったのではない、唯極微的零に達したまでである、質料は尚動くものとして残っている」もそのように解釈することができます。

E

その文章と、263頁初めの「限定せられた有の場所から見れば、主語となって述語とならない基体は、何處までも此場所を超越したものであり、無限に働くものとも見られるであろう」はどう関係しますか?
佐野
「限定せられた有の場所」から見る、この立場がギリシャ哲学の立場だということだと思います。どこまでも「有の場所」つまり「一般概念」の中で考え、意志するという立場です。そうすると「主語となって述語とならない基体」つまり「個物」は、一方でどこまでも一般化できないものであるし、他方で個物の運動もどこまでも一般的に記述できないものとなります。今は「こうである」と規定しても、その時にはすでにそうでない在り方をしているからです。「基体(個物)」がどこまでも「有の場所」を超越していて、「無限に働くもの」と見られる、はそういう風にも解釈できると思います。どうでしょうか?

F

そうだとすると、後半部分「併し意識するということは無の場所に映すことであり、此場所から見れば、逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」はどうなりますか?
佐野
「併し」の所で、転換があると思います。「有の場所」の立場が反省の立場だとすると、それを破った立場への転換ないし超越です。Kさんのおっしゃる通り、これは純粋経験の世界と言っていいと思います。これは264頁5行目にある「作用の作用の立場」、つまり「自覚」の立場と同じものです。西田は『善の研究』において、反省の立場から純粋経験の立場へと飛躍的に転入しましたが、その後その立場からいかにして反省の立場を説明するかに苦しみ、その解決の糸口をフィヒテの「事行Tathandlung」やロイスの「英国にいて完全なる英国の地図を写す」ということのうちに見出します。そうして「自覚」のうちで直観(純粋経験)と反省を統一しようとします(『自覚における直観と反省』)。この「自覚」の立場が先ほど出てきた「作用の作用の立場」です。「有の場所」の立場では個物はどこまでも捉えられない。そのつどそのつどの「有の場所」(一般概念)によって規定されながら、無限にそれが重なっていってどこまでも個物に到達しません。ところがこの挫折を通じ、有の場所の立場、つまり反省が破れるとそこに「無の場所」が開けることになる。これが「自覚」の「於いてある場所」です。そこに映すこと、それが「意識する」ということ、テキストにはそう書いてありますね。「此場所から見る」とどういうことになるか。個物を「こうである」と反省し規定できるのは、すでにそれに先立って個物が直観(自覚)されているからです。英国の地図を完全に書こうとすれば、書いている自分自身をも書かなければなりません。「有の場所」の立場ではこれはどこまでも書けない、ということになりますが、「無の場所」の立場では、つねにその一歩前の立場(足下の英国そのもの)に立っています。「有の場所」の立場では先に先にというように追いかけていったのが、「逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」ものとなります。

K

だとすると、「過ぎない」はどういうことになりますか?「価値が低い」という意味ではないのですか?
佐野
「価値が低い」ということではなく、「有の場所」の立場では個物はどこまでもその立場を「超越」していた、しかし「無の場所」から見ればそうした超越を含まない、そういう意味だと思います。

G

さっき読んだ最後の部分、「真の無の場所に於ては、一から一を減じた真の無が見られねばならぬ。此に於て我々は始めて真に形相を包む一者の立場に達したと云い得る、極微的質料もその発展性を失い、真に作用を見るということができる」は西田の立場と考えていいでしょうか?
佐野
そうだと思います。「真の無の場所に於ては」とありますから。ただ「一者」という語もありますね。これはもしかすると新プラトン主義のプロティノスを念頭に置いているのかもしれませんが、はっきりとは分かりませんね。では次をBさん、お願いします。

B

読む(263頁11行目まで)。
佐野
これだけ読むと、西田が「善を知れば必ず之を意志する」と考えたトマス・アクィナスより、「至善に対しても意志は尚自由を有する」と考えたドゥンス・スコトゥスの方を評価していることが分かり、読者はついそのまま「そうだ、そうだ」と読んでしまうのですが、そんな簡単にはいかないと思います。まずトマスの考えから吟味していきましょう。人間は自分が善いと思ったことしかできない、それはたしかなことではないでしょうか。本当に悪いと思っていたら、それはしないはずです。遅刻は頭ではよくないと分かっているけれども、いつも遅刻する。これは本当に悪いとは思っていないからです。これくらいはしてもよい(善い)、今回は仕方がない(からしてもよい)、というのはやはりしても善いと思っているからそうするんだと思います。私も昔、家内との待ち合わせにいつも遅刻して行った。でもある時、それは相手を尊重していないからだ、と言われてハッと気づき、以後遅刻は原則したことはありません。

T

そしたら、悪をなすのは悪だと分かっていない、あほやからということですか?
佐野
(一同、笑)まあ、そういうことになると思います。でもこの意志はトマスの場合でもスコトゥスの場合でも人間だけでなく、神についても言われていると思います。そうなると、自己内で完全な神が何故惨劇を繰り返すような不完全な世界を創ったのか、悪が存在するこの世を創ったのか、そういうことも問題になりそうです。

N

それは神のチョンボだと思います。
佐野
だとすれば、神は善を知らなかった、Tさんの表現を借りれば「あほやから」ということになりませんか?

M

これは『善の研究』では「意志の自由」の問題になると思います。そこでは「自己の自然に従うが故に自由」とあります。
佐野
しかしそこにはそのことを「自知している」ということも言われていますね。「(あることを)取ることを意識するということはこの裏面に取らぬという可能性を含む」とも。スコトゥスが「至善に対しても意志は自由」という時、至善とそうでないものの選択肢があり、意志はどちらを取ろうとも自由だ、そういう意味ではないでしょうか?

T

そうなると、神は至善を知りつつ悪をなすことになりますね。考えにくいことです。
佐野
「善を知れば必ず之を意志する」というトマスの立場は「有の場所(一般概念)」の立場、反省の立場だと思います。矛盾なく説明できる立場です。今問題になっているのは、そうした「有の場所」に対する「無の場所」です。それは「矛盾其者を映す」場所であり、「意志の立場」です。矛盾としてはこれまで、「円い四角形」とか、数理においては〈5は数である〉つまり特殊が一般である、といったものから、生がそのまま死であり、有がそのまま無である、といったものが考えられていました。善と悪について言えば、善がそのまま悪であり、悪がそのまま善である、そういうことだと思います。

N

人間は徹底的に悪である、こういうことが親鸞の悪人正機の考えの根本にあると思います。
佐野
問題はそこなんです。そうした一般的な言説がすでに一般概念の上に成り立っていると思うのです。そもそも人間が悪である、ということを一般論というような他人事でなく、自分事として考えた時に、「自分が悪である」と人間は自分の力で言えないのではないでしょうか?

T

犯罪者の自白の場合はどうでしょうか?
佐野
その場合でも、自分の力で言う場合には、例えばここで自白すれば罪が軽減されるから、自責の念が軽減されるからそうした方が善い、というようなことが裏にあると思います。「自分が悪である」ということは自分の力では言えない。何かに触れて、自分の思いが破れることで初めて言えることだと思います。「有の場所」、「一般概念」が破れた所、そこが矛盾の場所であり、意志の場所です。西田は悪の問題で躓き、そこから「純粋経験の立場」に立ち得て『善の研究』を書くことができた。次回はここをさらに深めて見たいと思います。今日はここまでとします。
(第54回)
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有と無の対立、そして意志の立場

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 261頁14行目「然らばかかる一般概念を」から263頁行5目「異なったものでなければならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「論理的矛盾を超越して而も之を内に包むものが、我々の意志の意識である。推論式について云えば、媒語が一般者となるのである」(262.10-11)で、「考えたことないし問い」は「「矛盾其者を見る」ために要請されるのが、自ら矛盾の内に入り触媒となり得る〈媒介的な統一原理〉である。この原理は「推論式に於ての媒語」の中に見出すことができる。それは「媒語が單に大語に含まれる」ような「一般か特殊に行く」スタンスではなく、むしろ「特殊なるものの中に判断の根底となる一般的なるもの」を含み得る、〈無の場所〉からの「深き意味」における、極めて能動的な「意志の立場」と考えてよろしいか」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
「考えてよろしいか」という問いになっていますね。どうですか?Nさんのお考えに全面的に賛成という方、いらっしゃったら挙手してください。(誰も挙手せず)。それではどの部分に違和感を覚えたか、聞いてみましょう。違和感が生じるということが自分の理解を深めるためにもとても大事だと思います。

A

「極めて能動的な」とありますが、どういう意味ですか?

N

「この」花とか、教育で言えば個性一般の重視ではなく、「この」生徒にぶち当たる、という極めてチャレンジングな意志、という意味です。
佐野
たしかに、意志は個に向っていきますね。リンゴ一般を食べるのではなく「このリンゴ」を食べる。カエサルがルビコン川を渡るにしても、「この」カエサルが「この」ルビコン川を渡る、ということです。

B

「自ら矛盾の中に入り」とありますが、どういう意味ですか?

N

これまで西田は「矛盾を超越する」とか「矛盾を包む」という言い方をしてきましたが、それはある意味不徹底だったと思います。ここでは矛盾の中に自分で入って行って、仲裁のための触媒になる、という意味です。

B

矛盾の中に入ったら、矛盾は感じないと思います。どういう意味で矛盾とおっしゃっていますか?

N

矛盾とは、矛と盾のことで、まさに不倶戴天の敵のことです。

B

それは対立ではないですか?
佐野
「矛盾其者を見る」という表現もありますが、これをどのように理解されていますか?そもそも我々は「矛盾其者を見る」ができるでしょうか。

N

生きるということが矛盾の中に入って行くことだと思います。矛盾を見ることなしに生きるということはあり得ない。

B

私は矛盾を見ることは人間にはできないと思います。見たら死んでしまうか、狂ってしまうと思います。
佐野
「要請」というのもテキストにない言葉ですね。どういう意味で使われましたか?

N

矛盾を見た、と言ってもそれで終わりということはない、どこまでも見るということは続いていく、そういう意味で用いました。

C

「媒介的な統一原理」ですが、これは大語と小語を媒介する、という意味に止まりますか?

N

いえ、媒語が実在の根柢という意味です。三段論法の結論では媒語が消失していますが、この結論を支えているのが媒語です。駕籠に乗る人、駕籠を担ぐ人は目に見えますが、草鞋を作る人は見えません。媒語とは此の草鞋を作る人のようなものです。
佐野
私たちは媒語の中で分かった気になって生きていますが、そこには現れて来ないものがあると。面白いですね。大語の方向に無限に進めていくと、最後に「無に等しき有」という矛盾、小語の方向でももはや概念でない個(特殊)に行きつく。ここには飛躍ないし超越があるわけですが、そうした飛躍ないし超越における矛盾が、実は分かりきっていると思われている媒語を支えている、そんな感じでしょうか。今回のプロトコルを通じて私たちの理解も深まったようですし、Nさんの思想の根本にも少し触れることができたように感じられます。プロトコルはここまでにして本日の講読箇所に移りましょう。今日は263頁5行目「事実的判断は論理的に」から265頁3行目「逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」まで講読します。それではAさん、お願いします。

A

読む(263頁8行目まで)。

B

「事実的判断は論理的に矛盾なく否定し得る」というのが分かりません。どういうことですか?
佐野
「事実的判断」というのは特殊が主語になる判断ですね。「カエサルがルビコン川を渡った」という命題は論理的に矛盾なく「渡らなかった」と主張することもできます。カエサルは渡ることも渡らないこともできたはずです。

C

しかし歴史的事実としてはそうは言えないのではないでしょうか?
佐野
歴史的事実というものもそうでなかった、という可能性はあるのでは?その主張を支える論理というものもあるわけです。

C

科学的事実はどうでしょう?
佐野
その場合でも個々の事実が問題になる場合には、同じでしょう。一般的な法則を破ることはありませんが、「この」花がまさにこういう色をしていなければならない、ということはありません。そこで西田は「事実的判断」の「根柢には所謂論理的一般者」、これは必然的ですね、この「一般者を越えて自由なるものがなければならぬ」と言います。そうしてそこに「意志の立場の加入」が考えられると。さらに意志は「単に偶然的作用ではなく、意志の根柢には作用自身を見るものがなければならぬ」と言います。作用自身を見る、自覚ですね。直観と言ってもいいと思いますが。『善の研究』でも「意志の自由」の所で「自知」と言われていました。「所謂一般概念的限定」、これは必然的ですね、こうした限定を「越えた場所に意志の意識がある」、この「意識」が「見る」あるいは「知る」ということです。それではBさん、次お願いします。

B

読む(263頁10行目まで)。
佐野
ここでは作用、判断の立場、有の場所、それと自由、意志の立場、無の場所がそれぞれ対になっていますね。次からがとても難しい。Cさん、お願いします。

C

読む(263頁15行目まで)。
佐野
ここでは「主観的作用から見れば」と「客観的対象から見れば」が対になっていますね。「主観的作用から見れば」「有から無に、無から有に思惟作用を移すことによって両者を対立的に考え得る」とあります。それに対し「客観的対象から見れば」「有が無に於てある」となる。そうして「思惟の対象界に於て限定せられたもの」が「有」であり、そうでないものが「無」だと。「思惟の対象界」は「それ自身に於て一体系を成す」のに対し、「無」はこうした「有よりも一層高次的」とされています。これ、西田の考えでしょうか?

B

違うような気がします。西田が自分の主張をする時は「なければならぬ」になることが多いのに、ここは「考えることができる」になっています。
佐野
なるほど。ではそのことも可能性として残しておいて、次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(264頁5行目まで)。
佐野
ここも4行目までは、最後は「云い得るであろう」「考えることもできるであろう」で終わっていますね。しかしその後は「併し無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である、所謂有も無も之に於てある作用の作用の立場でなければならぬ」と「なければならぬ」で終わっています。Bさんの説によるならば、この最後の一文は西田の考えだということになります。「作用の作用の立場」とは「作用」を「見る」立場のことですね。「自覚」と言ってもよい。先程は「作用とは一般概念によって限定せられたもの」(263,9)とされ、そうした「作用自身を見る」のが「意志の意識」とされていました。そうして「判断の立場から意志の立場に移り行くというのは有の場所から無の場所に移り行くこと」(同9-10)だとされていました。「作用の作用の立場」とは「意志の意識」ないし「意志の根柢」にある「見る」ということをも含めた「意志の立場」だと考えられます。問題は先程の西田の考えとは異なるとされた「主観的作用から見れば」と「客観的対象から見れば」という二つの立場と、この「作用の作用の立場」とがどういう関係にあるか、です。そこでもう一度この部分(「併し無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である、所謂有も無も之に於てある作用の作用の立場でなければならぬ」)を読んで見ると、「無と有と対立的に見る立場」とは第一の見方(「主観的作用から見れば」)のことでした。それが実は「既に」そうした「思惟を一歩踏み越えた立場」だというのです。次にある「有も無も之に於てある」というのは直前の、有と考えられた無以前の「無限定のもの」を念頭において、「之に於て有と無とが対立関係に於てあると考えることもできるであろう」という表現を受けていそうですね。そうしてそれが実は「作用の作用の立場」であると、そう言っているようです。ここにも超越がありそうですね。無と考えることは実は有であった、だからその根柢にさらに無限定なものがなければならぬ、というように考えると、そうした根柢も有になってしまい、これはどこまでも続いてしまうからです。だからここには超越がなければならない。我々は主観的に対立的に見る(第一の立場)か、一般概念のうちで客観的に対象化して見る(第二の立場)か、どちらかしかできませんが、実はそれらがすでに意志の立場なのだ、そのように言っているようにも見えます。(そもそもこの話の出処は「事実的判断」でした。「事実的判断」においては肯定と否定がそれぞれ論理的に矛盾なく成立し、ここに矛盾が起こるわけです。これは第一の見方ですね。そうして我々はこうした「事実的判断」においても大語を基に置いて包摂判断のように考えることを止めません。これが第二の見方です。こうした我々の通常の判断の在り方の根柢に、実は意志の立場がある、そのようなことを言おうとしているようにも見えます。駕籠を担ぐ人と乗る人は見えるが、草鞋を作る人は見えない、ということかもしれませんね。)次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(264頁12行目まで)。
佐野
ここも大変難しい。まず「判断作用の対象として考えられた時、肯定的対象と否定的対象とは排他的となるが、転化の上に立つ時、作用其者の両方向を同様に眺めることができる」とありますね。「作用其者の両方向」とは何ですか?

E

肯定的対象から否定的対象へ、否定的対象から肯定的対象へ、ということだと思います。
佐野
そうですね。或る判断対象についてそうである(有)、そうでない(無)、ということになると思いますが、その意味では有から無、無から有と考えてもいいですね。この「転化の上に立つ」のはどのような立場ですか?

A

意志の立場、作用の作用の立場だと思います。
佐野
なるほど。そうも読めますね。では次に出てくる「併し措定せられた対象界から見れば」というのは、何と対になっていますか?

A

「判断作用の対象として考えられた時」、でしょうか?だとすれば、「転化の上に立つ時」というのも、意志の立場ではなくて、判断作用の対象として見る立場のような気がします。
佐野
その可能性も念頭に置いて、次を見て見ましょう。「措定せられた対象界から見れば」どうなるかというと、「有は無に於てある」ということですから、これは先の第二の見方のことです。「赤の表象自体は色の表象自体に於てある」「物は空間に於てある」というように「一般概念」を「於てある場所」として考える立場です。判断作用それ自身も「働くもの」としてそうした「一般概念」において初めて考えることができます。こう見てくると、先の第一の見方(「主観的作用から見れば」)がここでは「判断作用の対象として考えられた時」に受け継がれ、第二の見方(「客観的対象から見れば」)が「措定せられた対象界から見れば」に受け継がれていることが分かります。そうして第二の見方において第一の見方である判断作用が考えらえられることになります。これは所謂反省ですね。しかし第二の見方は「一般概念」(大語)の上で考える立場ですから、さらなる一般化(大語)が考えられ、これがどこまでも続くことになります。どこかで転換・超越がなければならないことになります。我々は「作用自身を直に対象として見ることはできない」。「一般概念」を「於てある場所」とすることで初めて作用を考えることができる。しかしそうした場所は根柢を求めて無限に続いてしまう。そこに転換がなければならないことになります。そういうわけで次に「一般の中に無限に特殊を含み而も一般が単に於てある場所と考えられる時、純粋作用という如きものが見られるのである」と言われるのだと思います。「無限に」とありますね。これは転換・超越の体験のあったところから見ているのです。次を読みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(265頁1行目まで)。
佐野
「斯く考えれば一つの立場から高次的立場への接触は、直線と弧線とが一点に於て相接するのではなく、一般的なるものと一般的なるものと、場所と場所とが無限に重り合って居るのである、限なく円が円に於てあるのである」とありますね。Cさんの着目する「重り合う」が出てきました。「限なく円が円に於てある」、こういう所、Bさん、好きですよね。

B

はい。好きです。
佐野
この円はもちろん「鏡」と置き換えてもいい。要は究極的な大語に迫っていってそれに一点で触れるというのではなく、もちろんこれは真の無の場所に触れた所から言えることですが、場所と場所、円と円が無限に重なっている、そのように体験されているということです。そうして「限定せられた有の場所が限定する無の場所に映された時、即ち一般的なるものが限なく一般的なるものに包摂せられた時、意志が成立する」と来ます。この「時」も体験の刹那です。次に行きましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(265頁3行目まで)。
佐野
「限定せられた有の場所」と「無の場所」が対置されていますね。そうして「意識する」とは「無の場所に映す」ことだと。そうしてこの場所(真の無の場所)から見れば、有の場所を超越した個物(「主語となって述語とならない基体」「無限に働くもの」)は「内面的なる意志の連続」に過ぎない、とされます。まさに純粋経験の世界ですね。今日はここまでにします。難所はまだまだ続きます。
(第53回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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