意識せられたもの、意識するもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 268頁3行目「有の場所が」から268頁8行目「私の所謂真の無の場所である」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーセンテンスは「最初の単なる有はすべてを含む場所でなければならぬ」(269,5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「最初の単なる有」とは西田にとっては最も大切な充実した「有」つまり純粋経験であったと思います。ヘーゲルの「絶対者」もそれに近い物だと私は理解しました。決定的に違うと西田が主張するのは「それが於てある場所」を考えたかどうか。私が分からないのは、確信の純粋経験から明白の純粋経験に至るために「場所に於てある」ということがどうして必要であったか。「場所に於てある」ということがどのような事態であるのかということです」(204字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
問いの核心部分だけを問題にしましょう。そうするとヘーゲルは「於てある場所」を問題にしなかったが、どうして西田はそれが必要であると考えたのか、また「場所に於てある」とはどのような事態であるのか、ということになりますね。たしかに西田の言うように、ヘーゲルは「於てある場所」と取り立てて問題にしているとは思えません。しかしヘーゲルの絶対者は主体(主観)でも実体(客観)でもなければ、主体でも実体でもあるというようなもので(「真なるものを、実体として把握し表現するのでなく、同様に主体(主観)として把握し表現すること」das Wahre nicht als Substanz, sondern ebensosehr als Subjekt aufzufassen und auszudrücken(『精神の現象学』「序文」第17段落の奇妙な句はそのように解釈すべきだと思います)、その意味では、西田が解釈するように、ヘーゲルの絶対者は主語の側に立つ実体とは言えません。それは主語でもなく、述語でもなく、主語でもあれば、述語でもない、そうしたものだと考えられます。西田は主語と述語を分けたうえで、こうしたヘーゲルの絶対者を主語(実体)の側に押しやり、自分は述語の側を押し詰めて「真の無の場所」を考えた、とも考えられます。こうしたやり方は不当なのか?それともこうしたことを踏まえた上でも述語の側に「於てある場所」を考えることは必要なのか?またそれはどのような事態なのか?そのようにMさんの問いを捉えてみたいと思います。このプロトコルは本日の講読箇所に深くかかわっていますので、まずその箇所を読んで見ましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(269頁8行目~12行目)
佐野
指示語が多いので確認しておきましょう。「前者」と「後者」はそれぞれ何ですか?

A

「前者」は「自己同一なるもの」あるいは「自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むもの」で、「後者」は「私の所謂真の無の場所」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると先程申し上げたことがはっきりしましたね。「或は前者の如きものに到達した上、更に於てある場所という如きものを考える要はないと云う」のはヘーゲルですね。たしかにヘーゲルは絶対者の於いてある場所というものを特に取り立てて問題にしませんでした。しかし西田はヘーゲルの絶対者は「判断の主語の方向に押し詰めたもの」で、自分の「真の無の場所」は「その述語の方向に押し詰めたもの」だとしています。その上で「内在的ということが述語的ということ」で、「主語となって述語とならない基体も、それが内在的なる限り知り得るとするならば」「後者」、つまり「真の無の場所」から出立せねばならぬ」と述べ、「後者が最も深いもの、もっとも根本的なるものと云い得るであろう」と結論付けています。

B

「内在的」とは何に内在的なのですか?人間に内在的ということですか?
佐野
「人間」とすると、人間が対象化され、主語に立ちますね。2行目に「判断の主語を外に見る」とありますが、主語に立ったものは外になります。そうすると何に内在的か、と言う問いに対しては、決して対象化されないもの(そう言えばまたしても対象化されますが、その点は措き)に内在的だ、ということになり、それが「真の無の場所」ということになりますね。

B

「内在的」ということが「述語的」だったら、「内在的なる限り」、つまり述語となる限り知り得る、となりますね。これはどういうことですか?
佐野
述語化する、ということが知るということ、例えば、これはバラである。このバラは赤い、というように述語化することで、主語を知ることができる、そのように考えることができるのではないでしょうか。そうすると、「知る」ということが主語を述語化するということだから、述語の方から「出発しなければならない」と言っていることになりますね。

B

主語をすべて述語化したら、主語も述語もなくなると思います。主語と述語の両方があるか、両方ともなくなるかのいずれかだと思います。
佐野
それは西田批判ですね。ヘーゲルに一票ということでしょうか?

B

そこまでは考えていませんでしたが。

C

私はそういうことだと思いました。述語の方面に「最も深いもの、もっとも根本的なもの」として「真の無の場所」があるとするのはどうかと。

D

我々日本人の空気からすると、述語だけの世界が根本だと思います。西洋は神という実体が根本で、ヘーゲルの絶対者も同様です。しかし根柢からすれば、「絶対無」こそが真の実在です。
佐野
それは日本の風土が根拠になっていませんか?

D

いえ。もともと「絶対無」が根柢であり、これから(の時代において)もそれが明らかになるのだと思います。このことは風土が根拠というのではなく、論理的な必然です。

C

「絶対無」ないし「真の無」の場所というのは知り得るのですか?

D

ええ。知り得ます。それは実感できるものです。そうしてそれを知的に構成することもできる。

C

私は知り得ないと思います。

D

「真の無の場所」がなければ生きることも、考えることもできない、そういう意味で「真の無の場所」は不可欠なものだと思います。ミカンの皮のようにそれを包むものです。それがなければ存在し得ません。しかもそれは究極的には無なのですが、東洋の人間には、言葉で言い表せなくても体で分かっているものだと思います。柔能く剛を制す、のような有とは別の原理です。これは西洋から言えば不可能という外ない。
佐野
それがなければならない、ということと、それが直観されているということとは別のように思われますが、Eさんはどうお考えですか?

E

私は西田が、述語の結果として主語が出てくる、と言おうとしているように感じられます。
佐野
たしかに、我々の常識の世界は有の場所の上に成り立っていて、その世界に出会われるものは有の場所の結果、つまり我々が前提としている世界のうちですでに理解されているとも言えますね。その場合、我々は対象的に理解することはできないにしても我々の常識がそのうちに成り立っている「有の場所」をすでに直観しつつ、それを前提して生活しているとも言えますね。ただそのことはその場所(ないし一般概念)の外に出て見ないと理解することはできません。ところで同様のことは「真の無の場所」についてはどうでしょうか?我々はどんな場合でも、ということはつまり日常的な生活の一々において、実は気がつかないだけですでに「真の無の場所」を直観している、と言えるのですか?

E

「真の無の場所」が直観の場であることは認めますが、場所自体は直観するものではない気がします。

F

「真の無の場所」は「矛盾の場所」だったと思います。これは我々が矛盾を感じる時に顕わになるものでしょうか?それとも我々が矛盾を感じていない、合理的だと思っているところに隠れている矛盾だということでしょうか?

G

後者だと思います。この花は赤い、ということの中にも実は言い尽くせない、という仕方で矛盾を含んでいると思います
佐野
そうした矛盾が、したがって「真の無の場所」が、我々はそうしたものを日常生活の一々において、取り立てて意識はしないけれど、実は根柢において開かれている、とお考えですか?それともそうしたものは我々に隠れているとお考えですか?

G

開かれていると思います。だから我々は日常的にも生活できますし、判断もできるのだと思います。
佐野
しかし、他面ではどこまでも隠れている、とも考えられますね。そうした立場からすると、「真の無の場所」が何故「最も深いもの、もっとも根本的なもの」として真実在となり得るのかが問題になりそうですね。そうした「場所」がなければならない、そのことは理解できるとしても、それが真実に「ある」、とは言えないと思うからです。プロトコルはこれくらいにして、講読に移りましょう。それではBさん、お願いします。

B

読む(269頁12行目~270頁8行目)
佐野
「判断の立場から意識を考えるならば、述語の方向に求めるの外はない」とありますね。この意識は「意識する」意識です。これが「包摂的一般者の方向」つまり「述語の極致」に求められなければならない、というのです。これはちょうど図に対する地のように決して対象化されないもので、これまでも意識現象に対する「意識の野」と呼ばれてきたものです。「我々は一切の対象を映すものを述語の極致に求めねばならぬ」、こうした「単に映す意識の鏡、私の無の場所というものも論理的意義を有するものでなければならぬ」と言われます。西田はこうした立場に相当自信を持っていたようで、「従来の哲学は意識の立場について十分に考えられてない」と言い切ります。次の論文「左右田博士に答う」の初めに、「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった高考に到達し得たかと思う」(290,3-4)と述べていますが、この「場所」の「終」とはこの辺りからを念頭に置いているのかもしれません。(因みに、「論理的意義」について言えば、西田は『善の研究』「版を新にするに当って」で「「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う」と述べ、また『働くものから見るものへ』の「序」でも「「場所」に於ては超越的述語という如きものを意識面と考えることによって、多少ともかかる論理的基礎附の端緒を開き得たかと思う」、とも述べています。この「論理化」「論理的基礎附」がどういう意味なのか、それらは今講読している箇所の「論理的意義」と関わっているのか、は大変興味深いところです。さらにこうした「論理化」ははたして十分になされているのか、はもっと興味深いと思います。仮にこの「論理化」が今講読している箇所の「論理的意義」に関わっているとするならば、少なくとも私には「私の所謂真の無の場所」が主語述語に分けた上で述語の方向へ徹底した方向に求められたというのは、「論理的に」大変気になるところです。主述の区別は「意識せられたもの」と「意識するもの」、つまり客観主観の区別、対象と自己の区別に重なりますから、そうした各区別の後者を根本としてとるということは、きわめて自己(真の自己)に強いアクセントが置かれることになります。必然的に、主語、客観、他者の契機が抜け落ちていくことになります。場所の論理の成立に関わるこうした根本問題については、さらに皆さんと考えていきたいと思います。)

F

アリストテレスに関する叙述の所で、「純粋作用」「純粋なる形相」というのが出てきますが、それがよく分かりません。
佐野
見て見ましょう。「アリストテレスは変ずるものはその根柢に一般的なるものがなければならぬと云ったが、かかる一般的なるものが、限定せられた有限の場所である限り変ずるものが見られ」とあります。「変ずるもの」の「根柢」にあるものは「質料」だと考えられます。それが「限定せられた有限の場所」だと。この「変ずるもの」の変化(運動)は「キーネーシス」ですね。ついで「それが極微である限り純粋作用というものが見られる」とありますね。「それ」とは「限定せられた有限の場所」つまり「質料」のことだと考えられます。それが「極微」になる。そうするとそこに「純粋作用」が見られるとありますから、この「純粋作用」は「純粋活動態(エネルゲイア)」のことであると解釈できます。アリストテレスの『自然学』が対象とする月下の世界では、すべての実体が形相と質料とから成り、すべての実体は質料から形相へ、可能態から現実態へと向かう運動(キーネーシス)の内にあります。しかし完全なる純粋な現実態に至ることはありません。それ故純粋な現実態は『自然学(physica)』を超えた『形而上学(metaphysica)』で扱われます。それが「不動の動者」としての「神」です。それは純粋な現実活動態であり、形相の形相として純粋形相です。それは美しい人が恋する人を惹きつけるように、それ自身は不動でありながら、すべてのものを動かす(不動の動者)。またそれは純粋な知の対象として、知性の活動とその対象とが一致しています(思惟の思惟)。しかし西田はこうした「純粋作用」においてすら「極微」に質料を残していると考えていることになります。したがってそれはさらに徹底して「唯全然無となった時、単に映す意識の鏡というものが、見られねばならぬ」とされます。この「鏡」は「単に映す意識の鏡」とありますが、それは「単に(外を)映す鏡」(231,8)ではなく、「自ら照らす鏡」(260,1)のことです。こうした「一層深き無の鏡」からすれば、「純なる作用」(エネルゲイア)の根柢をなす、「希臘人」(アリストテレス)の「所謂純粋なる形相」(神)も「遊離されたる抽象的一般概念」に過ぎない、ということになる、そのように解釈されるでしょう。今日はここまでとします。
(第59回)
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真の無の場所と充実した有(erfülltes Sein)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 267頁5行目「有が無に於てある」から268頁3行目「実は之によるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーセンテンスは「眞の無の場所は有と無が重なり合った場所なるが故に、作用の対象は何處までも對立的でなければならぬ」(267.10-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「この文は、「有と無の矛盾が根本にあるから」「作用の対象は何處までも對立的でなければならぬ」と解釈された(読書だより(23.4.25))。しかし、「矛盾」が単純に「對立的で」、しかもこれを包むべき「眞の無の場所」で「何處までも對立的でなければならぬ」という意味が理解できない。「すべての物は対立によって成立するというならば、その根底には統一的或者が潜んでいる」(『善の研究』二編五章)はず。従ってここで「對立」が強調されるのは、「判断作用」を「感覚」との差異を際立たせる一種の修辞と解する」(234字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
趣旨の確認なんですが、「真の無の場所」が「何處までも対立的でなければならぬ」ことが理解できないということでよいですか?

N

はい。対立と統一と両方あって、それらを統一するという意味でむしろ「統一」こそが「真の無の場所」だと思います。「真の無の場所は有と無が重なり合った場所」ともあります。
佐野
これまでも「真の無の場所」は矛盾の場所といわれていましたが。

A

私はむしろ「対立」の場所だと思います。

B

私は対立も統一もない、すべてが映される場所だと思います。
佐野
テキストでは「何處までも対立的でなければならない」の主語は「作用の対象」ですね。この「作用」って何ですか?テキストに即して考えてください。

C

判断作用です。
佐野
そうですね。さしあたり知覚作用と判断作用の両方を含ませて「作用」と言っていますね。しかしすぐ後で「知覚」は「厳密なる意味で作用でない」と除外されますから、判断作用でいいと思います。「(判断)作用の対象は何處までも対立的でなければならぬ」ということはわかりやすいですね。判断はつねに対立的です。そうである(有)か、そうでない(無)が常に対立している。

N

でも、「真の無の場所は有と無とが重なり合った場所なるが故に、作用の対象は何處までも対立的でなければならぬ」とあります。「重なり合った場所」から判断の対象がどこまでも「対立的」でなければならないが出てくるとすれば、一方通行的だと思います。
佐野
たしかに「真の無の場所」からいかにして「判断」が出てくるか、ここにはギャップがありますね。〈あるとないとが重なったところ〉、こうした矛盾の場所からどのようにして〈あるとないが対立する〉場所が生ずるか、という問題です。プロトコルはこのくらいにして講読に移りましょう。Dさんお願いします。

D

読む(268頁3行目~9行目)
佐野
冒頭「有の場所が直に真の無の場所に於てある時、我々は純なる作用の世界を見る」とありますが、この表現は267頁2~3行目の「限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ」とよく似ていますね。これを同じものと見てよいか、という問題があります。その場合は先の文章は「有の場所が直に真の無の場所に於てある(と考えられる)時」と補って読まなければならないことになります。西田は267頁14~15行目でも「判断意識は有が直に(真の)無(の場所)に於てある(と考えられる)ことによって現れる」というように省略した述べ方をしていました。ここもそのように「と考えられる」を補って読んでよいか、ということです。それでよいということになれば「純なる作用」とは「知覚作用」のことになります。

A

私は違うことを言っていると思います。「純なる作用」とは意志作用のことだと思います。
佐野
しかしすぐ後に、「純なる作用の世界」は「普通に意識の世界」だとされていますから、それを「意志の世界」と呼ぶのは少し無理がありませんか?

A

そうですね。
佐野
もし、今の文章を前の文章と同じ意味だとすれば、この「純なる作用」とは「知覚作用」のことを指すことになります。その直前にテキストでは知覚の話をしていましたから、続き具合からいってもそう読むことに無理はないと思います。そうなると「純なる」とはとりあえず〈対立を含まない〉(実は知覚が「意識」である以上対立を含むように対立を含んでいるのですが)という意味になります。そうしてそれが「普通に意識の世界と考えられるもの」とあります。知覚の世界が「意識の世界」だというのは普通に理解できますね。ただしこうした理解は「普通」じゃありません。我々は普通、この世界が意識の世界だとは思っていません。目の前のボトルが知覚だとか意識だとかいうのは普通じゃあありませんね。我々はこれを「ある」と思っています。それはともかく「純なる作用の世界」とは「知覚の世界」のことで、それが「意識の世界」だということになる。ついでそれが「内在的対象界」とされていますから、この「内在的対象界」というのは以前出てきた「内部知覚」(75頁)につながっていきますね。そこではそれは「直接経験」(同)とも呼ばれていました。

B

内部知覚は「明白」には至らない「確実」にすぎない(76頁)とされていましたね。
佐野
そうです。微小に対象化されているのです。今読んでいる箇所でも「内在的対象界」というように「対象」化されていますね。「内在的対象界として概念的に限定せられた一つの対象界たるを免れない」と言われています。

C

この一文はの前のページの「内在的対象とは真の無の場所に於て固定せられた一般概念である」(267,8)の言い換えじゃないですか?
佐野
そう読みたくなりますね。

C

「無を以て縁附けられた有の場所」も言い換えですね。
佐野
ええ。そう思います。そうしてそれが「対立的無によって限定せられた真の無の場所」だとされています。「真の無の場所」そのものではなく、「対立的無によって限定せられ」ている、それ自体は「対立的無」の場所だということです。つまり実は「純なる作用の世界」としての「知覚の世界」も対立を含んでいたことになるのです。そうして「真の無の場所は尚之より深きものでなければならぬ」となります。「真の無の場所」は「意志の世界」だとされています。(因みに、私は「知覚の世界」は『善の研究』第2編の純粋経験、「意志の世界」(「真の無の場所」)は第1編の純粋経験に相当する、というように理解しています。)この「意志の世界」が矛盾の世界ですね。有と無が重なり合う場所です。こうした矛盾を我々は通常考えることができません。その意味ではどこまでも分からないものですが、他面で我々はこういうものを知ってもいるんです。例えば〈山は山でない、それ故に山である〉という所謂(鈴木大拙の)〈即非の論理〉がありますね。これがまさにこうした矛盾の表現です。次に進みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(268頁9行目~13行目)
佐野
この箇所は後でヘーゲルの名前が出てくように、ヘーゲルのことを念頭に置いているのかもしれません。「知識的対象としては有と無との合一以上に出ることはできない、主語と述語の合一に至って知識はその極限に到達する」とありますね。「知識対象」としての「有と無との合一」とは、ヘーゲル哲学における〈絶対者〉のことを念頭に置いていると思います。判断は有と無の対立を含みますが、それが対象的(客観的)には合一に至って〈絶対者〉に到達し、知識的(主観的)には主語と述語の合一に至って「知識の極限」つまり〈絶対知〉に到達する、ということでしょう。こうした合一(絶対者)を意識する時、「かかる合一が於てある意識の場所がなければならぬ」というのは西田のヘーゲル批判です。ヘーゲルはそうした場所を考えなかったということです。「合一」が「同一なるもの」と言い換えられていて、さらに「同一の裏面に相異を含み、相異の裏面に同一を含む」と言い換えられていますが、これもヘーゲルの〈絶対者〉を念頭に置いたものだと思われます。ヘーゲルの絶対者は単なる「同一」ではなく、「同一と非同一の同一」でした。まさに同一と相異(区別)の同一、ということです。そうしたものの「於てある場所」がなければならない、ということです。次に進みましょう。Gさんお願いします。

G

読む(268頁13行目~269頁8行目)
佐野
ここもヘーゲル批判ですね。最初に「有と無と合一して転化となる」とありますが、ヘーゲル哲学ではAという規定性を徹底するとAの反対に移行する、とされます。これが弁証法というものです。その意味で弁証法は全般的にA(有)が非A(無)に転化すると言えますが、文字通り有が無に転化し、無が有に転化して、両者が合一すると、ヘーゲルの『論理学』では〈成〉が出てきます。これも転化ですね。〈ある〉という規定性を徹底すると、〈ない〉も意味がある以上〈ある〉、ということになってすべてが〈ある〉になってしまう。そうなると〈ある〉はその規定性を失ってしまう。そこでそれを今度は〈ない〉と言うと、それが〈ある〉と同じものになってしまう。こうした有と無の相互移行(転化)のうちに〈成〉が定立されることになります。有から無へと移行することが消滅、その反対が生成で、両方向合わせて〈成(なる)〉ということになります。西田はこうした転化が成立するためには、「転化を見るもの」「転化が於てある場所」なければならぬ、そうヘーゲルを批判します。しかし私が見る限り、そう簡単には言えないと思います。「転化を見るもの」について言えば、ヘーゲルはそれを問題にしており、それを「我々」と呼んでいます。「我々」とはいわば万能の語り手のようなもので、全体をすでに見渡しつつ、思惟(視点人物)の運動に手を加えずにじっと「見る」だけ、その様子を基本的にただ語るだけの存在(哲学者)のことです(時々、理解を助けるために登場して全体を見渡すことのできるようなヒントを与えてくれますが)。また「転化が於てある場所」についてもヘーゲルは〈エレメント(境位・場面)〉ということを問題にします。『論理学』のエレメント(場所)は純粋知(主客同一の境位)で、『精神現象学』のエレメントは意識(主客対立の境位)です。『論理学』がそこから始まる所、あるいは『精神現象学』がそこから始まる所、そこは実は同じところで、それが〈絶対理念〉とか〈絶対精神〉とか〈絶対知〉と呼ばれるものです。そこから『論理学』や『精神現象学』の円環が始まり、そこへと還って行きます。そこは主客あるいは実体と主体(主観)が同一でも対立でもない、同一でもあれば対立でもある、そうした場所です。ヘーゲル哲学体系の全体がそこに於て成り立つエレメントです。西田はこうしたヘーゲル哲学の側面を見ていません。さらに西田はこうしたヘーゲルの〈絶対者〉が無限に矛盾を含むものであっても、それは「尚判断の主語を外に見」ている、と批判します。「知識的対象」になっている、実体化しているということです。この批判も私が見る限り当たらない。ヘーゲルの〈絶対者〉は実体(神)でもなく主体(自己)でもなく、実体でもあれば主体でもある、換言すれば主客の同一と非同一の同一です。単に〈実体化している〉とも〈実体化していない〉とも言えないものです。それはともかく、西田はヘーゲルの絶対者は「判断の主語を外に見ることであり、真に述語的なるものが主語となることではない」と言います。

H

「真に述語的なるものが主語となる」とは西田の「意志の立場」と考えてもよいでしょうか?
佐野
そうですね。そのことについては271頁で出てきますのでお楽しみに。次いで「ヘーゲルの理性が真に内在的であるには、自己自身の中に矛盾を含むもの(絶対者:引用者)ではなく、矛盾を映すもの、矛盾の記憶でなければならぬ」と西田は初めてヘーゲルの名を挙げて批判しています。これまでと同じ批判です。

A

こういう批判はあまりよくないですね。
佐野
えらい哲学者は皆こういうことをするものです。自分の土俵の中に引っ張り込んで批評するんです。次に出てくる「最初の単なる有」とは『論理学』の最初に出てくる、先程述べた「有」のことです。その「有」が「すべてを含む場所」「その底には何物もない、無限に広がる平面」「形なくして形あるものを映す空間の如きもの」でなければならない、そう述べます。ヘーゲルの「有」がヘーゲル哲学のすべてがそこに於てあるヘーゲル哲学にとっての「真の無の場所」であるべきだと言おうとしています。しかしそれを言うなら「有」ではなく、先程述べた〈絶対者〉〈絶対知〉〈絶対理念〉〈絶対精神〉を挙げるべきでしょう。ヘーゲルはそこにおける有を最初の「有」とは区別して「充実した有(erfülltes Sein)」と呼んでいます。最初の「有」は最も貧しい規定です。我々は言葉に言い表すことのできないものに出会った時、「ある!」としか言えません。もっとも具体的なものを言い表す言葉を持たないからです。しかしそのように言葉にすると最も貧しいものになってしまう。思惑(ヘーゲルはこれを「私念」とも呼びます)は最も豊かなものを思惑しているのに、言い表している言葉は最も貧しい。このギャップ故に最初の「有」は「無」に転ずるのです。最後に「自己同一なるもの」「自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むもの」、どちらもヘーゲルの〈絶対者〉のことを念頭に置いています、そうしたものすら「之に於てある場所が私の所謂真の無の場所である」とされています。「之」とは後に出てくる「私の所謂真の場所」のことを指していると思います。今日はここまでとしましょう。
(第58回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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