読書会だより

意識の棲む世界とは

今回の哲学的問いは「我々の意識の棲む世界とは、哲学的にどのようなものなのだろうか」でした。

A

意識は分別された世界を生きているんじゃないんですか?
佐野
でも意識が「棲む」とありますね。

B

この「棲む」って文学的で好きです。

C

(出題者)
私は文学は嫌いです。
佐野
まあまあ。

A

その意識は「意識する意識」ですか?それとも「意識された意識」ですか?

C

(出題者)
「意識する意識」です。
佐野
だったら分別できない世界に棲んでいる、ということになりますね。

C

(出題者)
そうです。
佐野
でもそのように分別・無分別を分けて無分別の世界に棲んでいる、といったらすでに分別ですよね。そうした分別の世界に棲んでいるのではない、と言いたいのでしょ?西田が晩年好んで引用した大燈国師の語に「億劫相別れて須臾も離れず、尽日相対して刹那も対せず」という言葉があります。「億劫」とは非常に長い時間、永遠と言い換えてもいいと思います。「永遠にお互い分かれていて」。「須臾」とは非常に短い時間です。「一瞬も離れない」。後半は「尽日」、一日中、つまり「つねに」ということですね。「つねに向き合っていて」。「刹那も対せず」、「一瞬も向き合っていない」。まとめると「永遠にお互い別れていて一瞬も離れない。つねに向き合っていて一瞬も向き合っていない」。みなさん、これ何だと思いますか。

D

自分だと思います。
佐野
なるほど。実はこれと同じ質問を離任式の時に中学生にしたんです。そうすると「自分と他者」あるいは「忘れられない体験」という答えや「世界」という答えが返ってきました。面白いでしょ。何故「世界」か、と聞いたら、自分はすでにその中に住んでいるからそこから離れられないけど、それを見ようとするともう自分がそこに住んでいないものになっているからだ、というんです。「意識が棲む世界」もまさにそういうものですね。

E

私は夫婦だと思いました。一日中向き合っていて、一瞬も向き合っていません。
(笑い)
佐野
確かに一日中イエスといっしょににながら一瞬もイエスと出会っていないということはありそうですね。
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読書会だより

転換とは

 みなさんこんにちは。山口西田読書会でコーディネーター役を務めます佐野之人と申します。山口西田読書会では原則毎週土曜日に佐野の司会の下で西田幾多郎の講読を行っております。(木曜日には岡村康夫山口大学名誉教授の御指導の下でニーチェの講読が行われています)。毎回の講読に先立ちまして、前回のプロトコル(議事録)を担当者が発表します。その最後に「哲学的問い」というのがあります。そこでの議論が結構楽しいので、是非皆さんにもその一部を(私の記憶に基づいて編集してありますが)ご紹介してみたいと思った次第です。

 私はこの3月まで山口大学教育学部附属山口中学校の校長を務めておりました。この文章をご覧の皆様の中には中学校のHP内の「校長の部屋」でお目にかかった方もいらっしゃるかもしれません。

 そうした方は引き続き、また初めての方も共に哲学の対話を楽しんでいただけたらと思います。

 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

それでは、どうぞ・・・

A

ききたいことがあるって?言ってたんじゃないの?

B

(高校生)
はい。前回問題になっていた「転換」ということが分かりません。
佐野
生き方の転換のことですね。人間は「自分」という言葉を知ってからは「自分」を出発点にして生きる以外ない。自分が生きる、という生き方です。それが「生かされて生きる」ことへ転換する、そういうことでしたね。

B

ええ。それがよく分かりません。やっぱり自分が生きるんじゃないですか?
佐野
たしかに人間は自分ではそれしかできません。でも・・・たとえば「驚く」というのはどうですか。Bさん。驚いてみてください。

B

できません。
佐野
ですよね。「頷く」というのもそうです。頭でいくらそう思おうと思っても身が頷かないんですね。「帰る」といっても待ってくれている人や場所がなければ帰ることはできません。人間はつねに何かに促されて始めて行動できるんです。そういうことからも「生かされて生きる」ということは言えるんじゃないかな。ただ「生かされて生きる」ということを聞くと人間は、「よし、じゃあこれからは生かされて生きよう」ってなってしまって、結局「自分が生きる」になってしまうんですね。それしかできない。だけどその「それしかできない」というところに身が頷くところで「生かされて生きている」ということが現成しているんです。
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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 8(最終回)

第7段落

最後の段落です。ここでは知識および意志の根柢における知的直観として宗教的覚悟が扱われています。少しずつ読んでいきましょう。

真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また盲目的感情でもない、知識および意志の根柢に横たわれる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。

第6段落の最後で知と意を超越しつつ、両者の根本となる直覚において知と意の合一が見出されました。宗教的覚悟はこの知と意の根柢に横たわる統一そのものを直覚するということです。しかし偉大な美術家や思想家、道徳家も偉大な宗教家同様、その直覚するところのものは知識および意志の根柢に横たわれる深遠なる統一、深き生命でしょう。

故に如何なる論理の刃もこれに向うことはできず、如何なる欲求もこれを動かすことはできぬ、すべての真理及び満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、すべての宗教の本にはこの根本的直覚がならぬと思う。

どんな宗教でもこうした根本的直覚を本にしなければならない、これも頷ける話です。しかし最後の一文はどうでしょうか。

学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれによりて成立するのである。

この一文はどうにも不可解です。これまではずっと学問、美術、道徳、宗教は同列に扱われてきました。偉大な学者、美術家、道徳家、宗教家も皆同列に知的直観の極致の位置づけを与えられてきました。しかるにここでは学問道徳の根本に宗教が置かれています。しかも美術が抜けています。美術の根本に宗教は不要なのでしょうか。ここにも大きな問いがあります。

おわりに

以上で「知的直観」の章を一応読み終えたことにします。分からない部分が幾分分かりやすくなったというのであれば私にとって大きな喜びです。しかし同時に分からない部分が正反対の意味で分かってきた、つまりこの章が深くて難しい問いを抱えているということが一層明らかになったとすれば、これは上の喜びに増してこの上ない喜びです。この問いにどう答えていくか、9月24日の会で皆さんと一緒に哲学しながらじっくり考えたいと思います。その結果はまたご報告したいと思います。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 7

第6段落

ここから第6段落です。ここでは意志の根柢に知的直観があることが示されます。西田は次のように簡潔に述べます。

我々が或ることを意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚によりて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根柢には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。

この箇所は我々の普通の意志について言っているように見えますが、大道徳家の意志の場合にも適用可能な記述になっています。まずは普通の意志の線で考えて見ましょう。

意志が起るためには、意志を起こす力が必要です。これが「動機」とよばれ、意識にとっては「衝動」ないし「欲求」という仕方で現れます。この「衝動」ないし「欲求」はどこまでも説明のできない「直接経験の事実」だとされます(第3編第4章第4段落)。我々はよく〈食べるのは生きるためだ〉と言いますが、西田によればこの〈生きるため〉というのは後から加えた説明であり、我々は食べるために食べるのだと考えます。この食欲は「説明しうべからざる、与えられたる事実」で、性欲も同様です。子供が欲しくて性欲が起こるわけではありません。とはいえ人間の場合は本能(衝動)のままに行動することはありません。必ずそれにピッタリとした言葉(観念)を与えます。言葉にしなければ自分が何をしたいのかも分かりません。「食べたい」も立派な言葉です。この言葉(観念)が上の引用文の「主客合一の状態」すなわち「結果の観念」です。これには必ず「快」の感情が伴います。過去の経験が結び付いているからです。そうしてこの「結果の観念」が「目的観念」となるのです。快が必然的に伴うからと言って快そのものを目的にしているというわけではありません(快楽を唯一の目的と考えるのが快楽主義ですが、西田はこの立場をとりません)。このように我々の欲求は常に言葉(観念)を介したものですから、我々の欲望は常に「観念的欲望」です。つまり「如何なる人も何らかの理想を抱いている」ということになるのです。「守銭奴の利を貪るのも一種の理想より来るのである」、そのように西田は言います。我々の内には様々な観念的欲望が渦巻いているわけですが、これを統制しているのが理性で、これが我々一人ひとりの中では人格として働いている、このように考えるのです。

この「人格」については特に注意が必要です。西田は第3編「善」第10章「人格的善」第6段落で次のように述べます。

ここに所謂人格の力とは単に動植物の生活力という如き自然的物力を指すのではない。また本能という如き無意識の能力を指すのではない。本能作用とは有機作用より起る一種の物力である。人格とはこれに反し意識の統一力である。しかしかくいえばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主観的なる種々の希望の如きものを言うのではない。これ等の希望は幾分かその人の人格を現わすものであろうが、反ってこれらの希望を没し自己を忘れたるところに真の人格は現われるのである。

我々人間に対しても本能は衝動という形で働き、これが意志の原因である動機となる、ということは申し上げました。しかし人間はこれに言語を与え、目的観念とするので観念的欲望を持つということも申し上げました。意識はこの観念的な活動を理性によって制御しつつ統一しなければなりませんが、表面的な意識の場合、この目的観念が希望という形をとり、これが中心となって意識が統一されることになります。そうしてこれが我々の普通のあり方です。西田はこうした自我のあり方を「偽我」と呼びます(第3編第13章第5段落)。そうしてこれ等の「希望」を没し、「偽我」を殺し尽した所に、「真の人格」ないし「真の自己」が現われる、そのように考えます。したがってこの人格は唯一実在としての意識の根本的統一力ということになり、人格は「直ちに宇宙統一力の発現(第3編第10章第6段落)」ということになります。

この統一力は意識には「人格の要求」という形で現れますが、当然それは容易ではありません。「自己の知を尽し情を尽した上において始めて真の人格的要求が現われてくる(第3編第11章第4段落)」と言われます。そうしてここでまたしても画家の例が出てきます。

試みに芸術御作品について見よ。画家の真の人格即ちオリジナリティは如何なる場合に現われるか。画家が意識の上において種々の企図をなしている間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随う所に至って始めてこれを見ることができるのである。(同)

「多年苦心の結果」です。そうしてそれは道徳の場合も同じだというのです。すなわち、

道徳上における人格の発現も之と変わらぬのである。人格を発現するのは一時の情欲に従うのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従うのである。放縦惰弱とは正反対であって反って艱難辛苦の事業である。(同)

ここでも「艱難辛苦の事業」とあります。ここに至って普通の意志は極致にまで発展して大道徳家の境地に至ることになります。

大道徳家の例として『倫理学草案』では文天祥がよく登場します。『善の研究』ではソクラテスが大道徳家の例と見ることができます。第3編「善」第3章は「意志の自由」と題されていますが、そこでソクラテスは「自由の人」として登場します。彼は自分が刑死することを已むを得ぬ必然ということを知りつつ、しかもそのことを自らの根柢たる「理想」が自らを実現する一過程にすぎないと見ていたからこそ自由だ、と西田は考えるのです。芸術家が銅像の内に美を直観するのと同様に、道徳家は自らを死に至らしめるような必然の法則の内に善を直観するのです。芸術家が直観する美も道徳家が直観する善も唯一の実在の統一力としての理想に他なりません。

注意しなければならないのはこれが極致の例だということです。我々の意識には通常このような人格的要求は現われて来ないということが重要です。もちろん我々はそのつど目的観念ないし希望を中心に自らの意識を統一していますが、それは表面的意識ないし偽我による統一にすぎません。我々の意識を根底から統一している人格ないし真の自己の働きは、我々にとってはどこまでも分からないものです。

ところでここにも普通の意志が自らの直観を発展させ、もちろん才能があればの話ですが、大道徳家の直観という極致に至るといった図式を認めることができます。

解説が長くなりました。もう一度問題となっているテキストを引用します。

我々が或ることを意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚によりて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根柢には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。

すでに申しました通り、この箇所は我々の普通の意志と大道徳家の意志の両方をカヴァーするものとなっています。その場合直覚している「主客合一の状態」に雲泥の差があります。普通の意志が直覚しているのはそのつどの「結果の観念」すなわち目的です。これに対し大道徳家の目的とする所は人格ですが、西田は個人のみならず、家族、国家、人類社会にも人格を認めます(第3編第12章)。それらを貫いて唯一実在の統一力が働いているからです。当然のことながらその究極目的はこの「統一力」つまり「主客合一の力を自得する」こと、すなわち「真の自己を知ること」です。ですから人格の要求とは〈真の自己を知れ〉という要求に他なりません。「我々の真の自己は宇宙の本体」ですから、「真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合する」(以上第3編13章第5段落)ことになるのです。大道徳家は真の自己を直覚し、これを目的としているのです。

ですから上の引用文は普通の意志でしたら、例えば〈水を飲もう〉と意志した場合、その意志は〈水を飲む〉ということに局限されているわけです。ところが大道徳家の場合はそうではない。〈毒を飲もう〉という意志が、そのまま「真の自己」が自らを実現せんとする意志になるわけです。普通の意志でしたら〈水を飲み終わった状態〉が「主客合一の状態」で、これに快の感情が伴っている、とこういうことになるのです。普通の意志はこの状態を直覚することで成り立っています。そうしてこの目的観念に対して、コップを取り出す、冷蔵庫のペットボトルを取り出す等の手段を設定しながら、そのつどその運動表象に注意を向けていきます(第1編第3章第2段落参照)。これが「意志の進行」で、それが完成した時が飲み終わって〈あー、うまかった〉となった時で、「意志の実現」の時です。この間、始終〈水を飲み終わった状態〉の直覚が働いて、この進行を導いています。

モーツァルトの例がありましたね。モーツァルトはいわば出来上がった曲の方から作曲している、そんな話でした。これと同じことが普通の意志でも起こっていることになります。私は小学生のころはとても野球、と言ってもソフトボールでしたが、大好きでした。ところが中学の頃、突然ボールが投げられなくなってしまったのです。ボールが指を離れる瞬間、角度などが少しでも狂えば思ったところには投げられないはずだ、などと考えているうちに分からなくなってしまったのです。投げる直前に大変不安になり、結局ボールはとんでもない方向へ。悲惨なものです。今でも克服できていません。しかし他の人が普通にボールを投げる時はそうではないのですね。相手がボールを受け取ったところからボールを投げているのです。一種の知的直観です。

大道徳家の場合は〈真の自己を知り、宇宙の本体と融合し神意と冥合した状態〉が「主客合一の状態」となります。大道徳家にとってはこの状態が目的観念となって、この目的(理想)を直覚することで意志が成立します。〈毒を飲む〉という観念はこの目的に対しては手段となります。この手段の観念が運動表象の体系を占領することによって実際に毒を飲むことになります。しかし大道徳家にとっては、毒を飲むという行為はそれだけにとどまるのではなく、神意である理想の実現ということになります。しかもそれが同時に真の自己の意志の発現ですから、自由ということになるのです。テキストでは次のように述べられます。

我々が意志において自己が活動すると思うのはこの直覚あるのゆえである。自己と言っても別にあるのではない。真の自己とはこの統一的直覚を言うのである。

「真の自己」が出てきますね。ですからここは美術家や道徳家の「極致」の話と解釈してもよいのですが、思惟の根柢に働く知的直観の場合もそうだったように、意志の根柢に働く知的直観の場合も、大と小、つまり極致と普通の両方をカヴァーできる話として理解すべきでしょう。だとするとこの「真の自己」は「自己と言っても別にあるのではない」を受けたものと理解すべきです。〈別にあると考えられた自己〉に対して「真の自己」。自己が意識を離れて独立に存在するというのは独断ですから、このように誤って考えられた自己に対して「真の自己」と言っていると理解した方がよいと思います。

普通の意志でも、我々は自己が活動していると思っていますよね。もちろんこの自己は先程の話では「偽我」「表面的意識」です。それでも自己が活動していると思えるのは目的観念の直覚があるからだということになります。この直覚が意識を統一しているのです。極致の意志ではこの自己が神意と冥合しているような「真の自己」となるわけです。テキストは次のように続きます。

それで古人も「終日為して而も行せず」と言ったが、この直覚より見れば動中に静あり、為して而も為さずと言うことができる。

何故そんなことが言えるのか。行為の最初から最後まで目的観念の直覚が動いていないからです。目的観念の直覚が自己だということでした。ですから自己は動いていません。何も為していません。しかしそれが行為の全てを導いています。「動中に静あり、為して而も為さず」などということは、普通の意志ではそのつどの目的の間だけしか成立しません。しかし美術家や道徳家の極致ではいつでも究極の理想を見ているということになりますから、「終日為して而も行せず」などということが可能となるわけです。テキストでは次の一文でこの段落が締めくくられています。

また知と意とを超越し、しかもこの二者の根本となる直覚において知と意の合一を見出すこともできる。

これは第5段落と第6段落の結論を受けて言われています。第5段落では知的直観は思惟(知)の根柢に働いていました。第6段落では知的直観は意志(意)の根柢に働いていました。知と意の根柢がともに直覚であるから、この直覚において知と意の合一を見出すこともできる、こう言っているのです。思惟と意志、あるいは知と意の合一については『善の研究』の様々なところで扱われています。第1編「純粋経験」第3章「意志」は殆どその叙述に費やされています。また第3編「善」第1章「行為上」の第5段落にもそうした叙述が見られます。どちらにも「知行合一」と言う語が見られるのが印象的です。

ここでは第1編第3章第8段落に見られる例を用いて、上に引用した部分が理解できる程度に簡単に説明しておきます。西田は次のように書き起こします。

例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である。

厳密に言えば「ここに一本のペンがある」というのは判断ですからすでに知識的です。ですから厳密に言えばその前、判断以前のところで見ているものが問題なのです。それは純粋経験の事実として「ただ一個の現実」であり、これを統一しているところのもの(統一的或者)を見ることが「直覚」ないし「知的直観」です。しかしそれはまだ可能的含蓄的であり展開されたものではありません。

これについて種々の聯想が起こり、意識の中心が推移し、前の意識が対象視された時、前意識は単に知識的となる。

上で述べた「ここに一本のペンがある」という判断がこの段階に該当します。ここではすでに知と意が区別されています。根本にあるのが意志であることは変わりがないのですが、その意志が知識的表象の体系へと注意を向けているのです。

これに反し、このペンは文字を書くべきものだというような聯想が起こる。…この聯想的意識が独立に傾く時、すなわち意識中心がこれに映ろうとしたときは欲求の状態となる。

ここでも知と意は区別されています。意志は今度は運動表象の体系へと注意を向けています。西田は次のように言います。「知と意の区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一を失った場合に生ずるのである。意志における欲求も知識における思想も共に理想と事実と離れた不統一の状態である(第1編第3章第6段落)」。不統一の状態と言われるのは、直覚が「理想」を直覚しているのに、「事実」としてはそれがまだ実現していないからです。

西田は「ここに一本のペンがある」というような一般的抽象的な真理は反って真理と遠ざかったものであると考えます。「真理の極致は種々の方面を総合する最も具体的なる直接の事実そのものである(同)」と言います。「欲求」が不満足の状態であり、不統一だというのはその通りでしょう。

而してこの聯想的意識が愈々独立の現実となった時が意志であり、かねてまた真にこれを知ったというのである。

最初の「独立の事実」が戻ってきました。知も直接の事実として完成していますし、意志の欲求も充足しています。状態としてはペンを使うことにおいてペンを忘れてしまった状態です。この時にペンを真に知ったことになる、そのように西田は言うのです。ここにおいて最初に直覚されていた一般的な直覚が限定され個体的な事実となっています。これは最初に直覚されていたものが知においても意においても根柢として働いていたからです。つまり直覚において知も意ももともと合一されており、それが知と意に分かれてもその根柢に両者の合一としての直覚は働いており、そうして最後にまた知と意が「独立の事実」において合一されるのです。

ペンを知る、ペンを使う、こんな日常的なことでもその内に何を直覚するかによって超凡的極致的直覚にもなれば、普通の直覚にもなるというのが西田の考えだと思います。判断以前の直接経験の事実、ただ一個の事実は同時に我々にとっては衝動として現われます。我々はこの衝動を解釈して言葉を与えます。「ペンを知りたい」「ペンを使おう」、これが目的観念となります。しかしそこに止まってしまってその先を見ようとしません。それは「モナリザ」を見て単に「画だ」「女の人だ」と言っているのと同じです。こうして理想(目的観念)は表面的意識、つまり偽我の抱く希望となってしまうのでしょう。

しかし西田は普通の意志でもその根柢には知的直観が働いており、その理想的要素をどこまでも豊富、深遠とすることによって、もちろん才能があればですが、極致に達し大道徳家の意志の如きものになる、ここでもそのように考えているようです。

次回は第7段落についてお話しします。更新は15日を予定しています。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 6

第5段落

ここから第5段落です。第5段落では思惟の根柢に知的直観があることが述べられます。思惟とは「表象間の関係を定めこれを統一する作用(第1編第2章第1段落)」のことですが、この関係の本にどこまでも説明のできない、神秘的或者の直覚がある、と西田は言います。それは小にしては主語述語の関係としての判断の根柢に働く直覚であり、大にしてはプラトンやスピノザの如き体系的思想の背後に働く大なる直覚となります。

小の場合から考えていきましょう。「馬が走っている」でも「カルタの一束が机上にある」でもいいですが、そういう判断が起こる本に説明のできない直覚があるわけです。それにピッタリとした言葉を与えようとしてまず主語から語り起こす。しかしその時すでに客語が暗に含まれており、その客語が発せられた時にも、そこに主語が暗に含まれているということになります。こうして語り終えた時、ようやく自分が何を言いたかったかが顕わになります。先程の言葉で言えば、一般的なるものが個体となるわけですが、それはピッタリとした言葉を与え、過不足なく説明し尽くしているにもかかわらず、どこまでも説明のできないものの説明という性格を帯びます。

この点は大なる場合も同様ですし、芸術作品でも同様でしょう。「芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わす」と西田は述べていますが、どこまでも形にできないものを形にできないままに形にしているということだと思います。「画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない」、とありますから画の精神は個々の事物と一つでありながら、それとはあくまで異なるのです。こうして語られた「思想の根柢にはいつでも神秘的或者が潜んでいる」「我々が如何に縦横に思想を馳せるとも、根本的直覚を超出することはできぬ、思想はこの上に成立する」などと言われることになります。しかも芸術家の場合同様、この神秘的或者が我々の「思惟の力」となり、我々の思惟と言葉を導くのです。

ここでも大と小、しかもこれまでの叙述からすればプラトンやスピノザ哲学の背後に働いている直覚の大は極大ですが、そうした大と小が区別されつつ、「思想において天才の直覚と言うも、普通の思惟と言うもただ量において異なるので、質において異なるのではない、前者は新たにして深遠なる統一にすぎない」というように、大と小の区別が量的差異に還元されています。しかもすでに指摘しましたが、第2段落ではモーツァルトの例が持ち出されて、この違いは単に数量的でなく、性質的だとされています。つまり単に大小の量的差別では済まない、ということです。第2段落の記述と第5段落の記述には明らかに齟齬があるように思われるのです。

つまりここでも凡人の見ているものをどこまでも発展させれば偉大なる思想家の見ているものに行き着く、あるいは大思想家の見ている神秘的或者が凡人の見ているものにまで逆に拡大されて適用されている、というような印象があります。西田は「幾何学の公理の如きものすらこの(神秘的或者:引用者)の一種」と言っています。たとえば〈2点を直線でつなぐことができる〉などという公理は誰でも直観できるでしょう。このような直観が大思想家の直観とどのような仕方で直結していると言えるのでしょうか。

次回は第6段落についてお話しします。更新は13日を予定しています。

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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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