無から有を作る

お久しぶりです。「読書会だより」を再開しました。架空対談の形で今後の読書会の在り方を考えて見たいと思います。
佐野
読書会では毎回前回の講座を思い出すために「プロトコル」をメンバーが当番で作成していましたが、いろいろ問題が生じてきました。

A

どういう問題ですか?
佐野
まずテキストが超難解で作成が困難だということ、したがって当番の成り手が少なくなってしまったこと、が挙げられます。

B

まったく成り手がいないというわけではないのでしょう?
佐野
ええ。しかし 勇気をもって引き受けていただいた場合でも、内容が難しいために、プロトコルの紹介で読書会の時間の多くをとられ、必然的に本来の読書会の時間が少なくなってしまうんです。そこで仕方なく佐野がプロトコルを作成するケースが増えてきたわけです。

C

それだと参加者が自ら時間をかけてテキストを読み込む機会を奪うことになりませんか?
佐野
そうです。結局佐野の講義みたいになってしまう。それはこの読書会の理念とする在り方とは違います。読書会はあくまで「共に読み、共に考える」ことを理念としています。参加者が主体です。

C

困りましたね。どうするんですか?
佐野
今回「共に読み、共に考える」時間を確保し、しかもプロトコルをできるだけ輪番に近い形にするために、工夫をすることにしました。まず「プロトコル」は「キーワード」ないし「キーセンテンス」を挙げ、それについて「考えたこと」あるいは「分からないこと」を200字程度で報告していただき、次回はそれをもとに紹介を含め、30分以内で議論する、という方式をとろうと思います。

A

それだと輪番でもできそうですね。
佐野
そう言っていただけるとありがたいです。

B

でも、これまでのプロトコルのような記録はやめにしてしまうということですか?
佐野
たしかにそれはもったいない気がしますが、一番大切なことは、どんなに難しくても、まずは自分で解釈してみることだと思います。初めての楽譜を音にするみたいにね。初めての楽譜を音にする時って、曲にもよるけれど、何をやっているか分からないことが少なくない。しかし繰り返し、もちろん考えながらですが、音にしていると、いろいろな発見がある。音楽になって来る。この過程がとても大切だと思うのです。

B

そうですが、専門家でもない人が、西田の難しい文章を一人で読むことはやはり難しいと思います。
佐野
ええ。だから「共に読み、共に考える」。

B

そうはおっしゃっても、読書会の時間内では結局分からないまま、次に進む形になっていますよ。少なくとも私はそうです。
佐野
分かっても分からなくて続けることが一番大切なのですが、西田の「場所」論文のようなものの場合、極端に難しいですから、かなりの苦痛になるだろうと思います。そうかといって私が、分かったような顔をして教えを垂れ、参加者が私に教わるという形にはしたくない。私が読書会のために準備してきた解釈は一つの解釈でしかありません。皆さんと共に考えることで、それは変わっていくものです。

B

結局、どうするんですか?
佐野
やはり、「共に読み、共に考える」時間を確保したいと思います。私も準備はしてきますが、そのことは一応横に置いておいて、皆さんと一緒に考えます。

B

それだと結局、分からないまま次へ進むことになりませんか?
佐野
そうなりますね。ですがそれを持ち帰って考えることはできますね。それは私も同じです。そこで読書会を終えた後、ポイントとなるところ、面白そうなところ、あるいは難しいところなど、思いついたことをこの「読書会だより」のスペースを利用してアップし、それを皆さんと共有したいと思います。皆さんはそれをヒントにして、自らこの難曲を音にしていくわけです。

A

やって見ないとわかりませんが、とにかくやって見ましょう。

D

今回の講読箇所について何かコメントはありませんか? 今回は旧全集版247頁1行目から248頁13行目まででしたね。
佐野
まず「我々に真に直接なるもの」を「純粋性質」と呼んでいますね。これは「真の無の場所」に「於てあるもの」です。そこでは「物」も「作用」も消え失せる、とされています。「物」(本体)も「作用」(働き)も消え失せるから「性質」と呼ばれていると考えられます。

D

『善の研究』の純粋経験を思わせますね。
佐野
そうですね。「物心の独立的存在」を否定しているところ、「色を見、音を聞く刹那」に「外物の作用」や「我がこれを感じて居る」といった作用を否定しているところなどにそれを感じさせますね。このように物や作用が否定された、だからそこに見えるのは「すべてが影像」ということになります。しかしそれは「判断の立場から云えば」ということです。

D

続いて「真に無の立場に於ては所謂無其者もなくなるが故に、すべて有るものはそのままに有るものでなければならぬ」とありますね。
佐野
ここには立場の転換がありますね。

D

しかしさらに続けて「有るものがそのままに有であるということは、有るがままに無であると云うことである、即ちすべて影像である」とありますよ。また「判断の立場」に転換するということですか?
佐野
「判断の立場」そのものは「すべては影像」とは考えないでしょう。「すべては実在」と考えています。ですから「すべては影像」と言い得た「判断の立場」は立場としてはすでに破れています。そうした破れた「判断の立場」においてはじめて「すべては影像」ということが受け入れられるのです。そのことと「有るものがそのままに有るものである」と言い得る「真の無の立場」が同時だということです。「AはAでない、それ故にAである」という即非の論理を思わせますね。

D

続いて「有るものを斯く見るということが、物を内在的に見ることである」とありますね。これは?
佐野
「斯く」とは「有るものが有るがままに無である」ことが直ちに「有るものがそのままに有るものである」と見ることですね。それは同時に自らが無になって物となって見ることです。西田はこれを「無から有を作る」と言おうとしていると思います。だから「作るというのは…見ることである」と言われます。ただそのためには「判断の立場」が破られる、という契機が決定的に重要であり、さらに言えば絶対的な他者との出会いが不可欠ですが、その点はここではあまり述べられていないように思われます。今回はここまでにしましょう。
(第37回)
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読書会だより

美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている

本日の「哲学的問い」は「『美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている』(マルセル・プルースト『サント=ブーヴに反論する』)とは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが好んで使った言葉である。この言葉を踏まえる時、哲学書のテキスト解釈とは、どのように考えるべきであろうか」でした。
佐野
どういう質問ですか?

A

(出題者)
人間は自分の知識で書物を読みます。この知識が枠になっているのです。テキストに「ニュートンの絶対時」が出て来ましたが、これがどういうものか知らないと、繰り返しの利かない「唯一時」というものが理解できません。このように人によって知識が異なるわけですから、解釈も人によって違うことになります。それなら唯一の正しい解釈はないのか、そういうことです。

B

「外国語で書かれている」というのは、文学のテキストにおける異化作用の問題ですね。文学を読む場合は日常言語の理解では間に合わない、ということです。哲学の書を読む場合にも哲学の常識を踏まえた読み方をしなければ読めません。伝統を踏まえた読み方のトレーニングが必要です。その意味で哲学の書は真実に向かって積み上げていく営みですから、哲学のテキストは誤読を許しません。

C

それなら私は哲学の書が読めません。

D

私は誤読しかないと思います。哲学は誤読と誤読のコミュニケーションであり、読者は独善的だと思います。ただ宇宙の真理を目指しているという点ではBさんと同じだと思います。
佐野
誤読と誤読でどうやってコミュニケーションをとるのですか。

D

ディスコミュニケーションです。(会場笑)けんかという愛し方というか。小林秀雄が言うように、西田の文章は言語体系を壊している。ですがそれが快感で、離れられない。

C

私は感じるだけでいいと思います。自分の人生を重ねて読むというか。それは文学的なテキストでも哲学的なテキストでも同じです。

E

問題となっているのは「美しい書物」がそれ自身として存在しているかどうかということだと思います。読み手がゼロでも。

B

美しい書物は「つんどく」だけでも美しいのです。

D

確かに分からないけれど美しいということはあると思います。

F

しかし誤読だったというのは違うパラダイムにおいて初めてわかることだし、そういうプロセス自体が真理の探究ということを前提していると思います。

D

しかし正解はない。

G

正解がない、って言ってしまうとそれが正解になってしまいます。

E

それでもそこに歴史の中で伝えられてきた哲学書がそこに在るから、求めようとするんじゃないですか。お経は分からないけれどあるだけでありがたいというような。

C

それでも結局「本当の本当」にはたどり着けないと思います。

D

公文書というのがあって、これは誤読のないように書かれてあるんですね。ところが最終的には役人の解釈や、裁判所、学者の解釈に委ねられてしまう。

E

この読書会では「テキストに忠実に」ということがモットーになっていますが、これはどういうことですか。
佐野
テキストに忠実に、とかテキストに向き合って、よく言いますが、難しいですね。ほしいままの意志(恣意)を持ち込まないように、テキストを文脈において読む。分からないところはそのままにして、何度も読む。その内テキストの中にいろんなつながりが見えてきます。最初に出題者が人間が携えている枠についてお話してくださいましたが、確かに我々はいくら注意したところで、そうした前提を携えて読むしかない。しかしそれでは読めない、ということになる。その意味でそれは外国語ですが、その中で我々の前提が破れてテキストの方から聞こえてくるものがある。歴史的に読み継がれてきたテキストにはこうした我々の呼びかけに応えてくれるものがあります。それではテキストに入りましょう。
(第36回)
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意識現象の知

本日の「哲学的問い」は「「三」の最後に、「判断意識が精神現象を対象とする時、判断意識は自己自身の中に省みるのである」と言われているように、ここで成立した立場は「意識現象の知」であり、しかもそれは「意志」を根本としている。この立場は『善の研究』の立場と同じと考えてよいか、それとも異なるか」でした。今回(令和2年6月6日)より対面式での講座の再開です。予定していた範囲を終えるには時間が足りなかったようです。急いでも仕方がないので、今回は頁行目まで読了し、次回はその続きを皆さんと一緒に読み進めようと思います。なお予期していたことではありませんが、依然オン・ラインでの対話も続いており、こちらも貴重なので、この読書会だよりで紹介したいと思います。それでは最初の方とのやり取りです。

A

プロトコルありがとうございました。自分なりにノートを作ってみたのですが、プロトコルでかなり頭の中が整理できました。
佐野
それはうれしい限りで。

A

その中いくつかで質問させてください。
佐野
はい。

A

第4段落144頁8行目、「原因と結果は一つのものの両面である」、の件で、「前にも云った如く」という文言の意味ですが、これは、136頁最終行から137頁1行目「原因は結果から独立するものではない、…相関的でなければならぬ」を指すという理解でいいのでしょうか?
佐野
そうですね。

A

これとの関連で、というより、ここから、始と終の結合、無始無終にして繰り返すことのできない時の系列の成立(145頁9行目)につながり、高次的なる直観の立場を時の成立の起源であり、終極とせしめている(145頁9~10行目)、と考えていいのでしょうか?
佐野
そうだと思います。

A

哲学的問について、問いの趣旨を整理させてください。
佐野
はい。

A

「すべて意識現象とは、純粋統覚が自己自身の中に省みることによって、見られ得る対象界」、とあります。「純粋統覚が自己自身を省みるということは、純粋統覚自身が働くものとなること、意志に形をとること」(以上147頁終わりから1行目~148頁2行目)とも書かれています。
佐野
ええ。

A

他方で、「純粋統覚の対象界には、如何なる形に於ても意志をみることはできぬ」(同2~3行目)とも書かれています。
佐野
はい。

A

すなわち、純粋統覚は意志その者ということか?その「意志」は、善の研究第3章「意志の自由」における「意志」と同じものなのか?いろいろまとまらないままに書いてしまいました。
佐野
いえいえ。ここは注意して読まなければならないと思います。後の方の引用では「対象界」という言葉に注意すべきでしょう。これは前のページでは「自然界」と呼ばれていたものです。そこで統覚が「対象」とするものが「機械的因果」と「合目的的因果」です。これを統覚は外から見るのです。こうした「対象界」ないし「自然界」に対するのが「意識現象界」です。これは内に省みる他はないものです。ただプロトコルでも申し上げましたが、この「省みる」は自分を残したまま反省的に省みるのではなく、自分を没して有ないし客観に成り切って、そこから省みるということです。

A

失礼しました。西田の使う言葉に重点を置いて整理ノートを作っているのですが、先生のプロトコルで、いくつかの点に線を引いていける感じで面白く思っています。
佐野
ありがとうございます。

A

今日は失礼しました。終日、田の畔草刈りでした。哲学的問いとの関係ですが、「精神現象」という言葉について、改めてこれまでの西田の著述から振り返ってみました。その中で、71頁に「意志が能動的自己に還ったとき、内的知覚の立場から内容ある時を見る。それが所謂精神現象である」とあります。
佐野
ええ。「物理現象の背後にあるもの」という論文ですね。今読んでいるところと同一のテーマを扱っている箇所です。

A

そして、142頁で「すでに、統一が内在的と考えられる精神現象においては、合目的的というのは、統一が統一自身に還ることでなければならぬ」とある。
佐野
これは今読んでいるテキスト(「表現作用」)ですね。

A

ここでの「統一が統一自身に還る」というのは、意志が能動的自己に還るということと同じでではないか。
佐野
ええ。その通りだと思います。

A

142頁では「(合目的的とは)統一が自己自身を客観化すること」と言っています。これは、判断意識が、精神現象を対象としたとき、統一が自己自身を客観化し、すなわち、統一が統一自身に還り、判断意識は、自己自身の中に省みて、自己の精神現象を合目的的とする。
佐野
ええ。そういうことになると思います。

A

善の研究との関係ですが、純粋経験における統一と基調は同じ気がするのですが、「合目的的」という観点が、そこにあったか、という点がよくわかりません。
佐野
『善の研究』で「目的」が論じられるのは第3編第4章の「価値的研究」で、その後、善を目的としてその実現が第3編の最後まで目指されます。第12章は「善行為の目的」となっています。善の実現を目指すとは「真の自己を知る」ことだと第3編の最後で言われていますが、どこまでも「ねばならぬ」と命令形で書かれています。私はここに「挫折」を読み取ります。そうして第4編の宗教が始まり、ここで「自己の変換」「生命の革新」が起り、いわば逆説的な仕方で「目的」が実現します。ここで「神を見る」といわれるものは同時に「真の自己を見る」ということで、まさしく統一自身に還ることだと思われます。それでは次の方とのやり取りです。この方は6日の読書会を終えた後のメールから始まります。

B

今日はありがとうございました。色々失礼で生意気ですみませんでした。実は久しぶりに西田を読んだのです。ずっと旧全集3巻を読んでいて少し疲れてしまっていたのです。西田幾多郎という人の文章は非常に難解で、しかも「逃げ」がないのです。なんだか逃れられない何かそのもののような気がして真剣に取り組む程辛かったのです。でも、久しぶりに西田に触れ、もう逃れることができないんだなあ。と思いました。あきらめてまたこつこつ勉強しようと思います。
今日びっくりしたのは『善の研究』の第三章を私はほとんど理解していないということです。もう一度『善の研究』第三章を読み直したいと思います。
佐野
それはよい「あきらめ」です。今読んでいるところもそうですが、西田は一つのことをしつこくずっと見つめて考えていくところがありますね。徹底性、それが「逃げ」のなさを感じさせるのでしょう。
しかしそうかといって、禅のように突き抜けていかないのは「悲しみ(悲哀)」といった人間の有限性を深く自覚し、おそらくは愛してさえいたからだと思います。この辺り、不徹底とも思われるかもしれませんが、魅力でもあるわけです。
西田が気にしている一つの極が禅だとすれば、もう一つの極がカントだと思います。カントは認識に関する人間の有限性にあくまでとどまった。それに対し西田はどこまでも真理の把握が可能であるという立場に立とうとします。この辺り、カント主義者からは自覚が足りない、と非難されるかもしれません。
禅のように突き抜けもしない、カントのように有限性に徹底することもない、そこのところ、矛盾を矛盾のままに徹底したと言えるでしょうか。
それにしても今読んでいるところなど特にそういう印象が強いのですが、『善の研究』で到達したところを、繰り返し確認しているような気がしてなりません。ある意味で西田は一生をかけてその作業をしている、そんな気さえします。どう思われます?

B

(「私には無理なように思われます」のタイトルの下で)佐野先生に どう思われます。と、問われて「私にはわかりません。」と正直に告白したいです。つまり、『善の研究』で考えたことを生涯反芻し続けたのではないか。ということですよね。
例えば「意志の自由」についてもう一度『善の研究』「意志の自由」を読み返してみました。西田は、意志の自由についてつまり
「動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でたとき、最も自由と感ずるのである」(151頁)、
「己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである」(151頁)意志の自由」について「自己の自然に従うがゆえに自由」である。
としています。おそらく「自己の自然に従う」とは真の自己に従うということ真の自己になるということでしょう。しかし、ここで重要なのは「生じたことを自知している。」(152頁)「我々はこれを知るが故にこの行為のなかに窘束せられて居らぬ。」(153頁)ということではないか。と思います。
岡村先生の先日の論文に「完全な脱落」をたんなる「忘我状態」ではなく、「きわめて明瞭な意識をもった」経験として記述していることは注目に値する。(4頁)とありました。「きわめて明瞭な意識をもった」経験とは忘我状態にある自己自身をもう一人の自分が透徹した眼でみているような感覚です。これを『善の研究』における「生じたことを自知している」や『内部知覚について』における「全然我を没し尽くして、主客合一となるところに有を見る」と重ねて考えることはできないでしょうか。
西田はやはり『善の研究』を生涯をかけて何度も繰り返しているのかもしれません。すみません。何が何だかわかりませんね。
佐野
そうなんです。重なるよう思われるのです。自己を没して自己に還る、ということです。「脱落」に通じます。
「忘我」と訳さずに「脱落」と訳されたのは何かに夢中になって我を忘れるというようなものではなく、また単なる茫然自失というのでもない、自我意識が抜け落ちる体験を言ったもので、おそらく岡村先生自身、そうした体験がおありなのでしょう。
ところでタイトルの「私には無理なように思われます」って何が無理なの?

B

先生のメールを読んだ時、今日の夕飯のおかずの事を考えていたので、『善の研究』の難題にお答えするのが無理なように思われます。という意味です。
私はずっと人間はある一定の方向に発展していくつまり「真の自己」なるものに神のような存在に近くなっていくのだと信じていました。きっと西田の作品もそのように発展していくのだとそう思いたかったしそうかも知れません。
でも、もし、『善の研究』を何度も繰り返しているのなら既に最初の『善の研究』を完成する段階でニーチェにあった「きわめて明瞭な意識を持った完全な脱落」のようなものを西田が意識していてそれを何度も反芻していたのならばそこに何の意味があるのか。
しかし、すぐ何らかの意味を見出そうとするのもどうなのかと、またくどくど考えてしまいます。考えるのが好きなので。とりあえず、もう少し『善の研究』を読みたいです。
あと、とても及ばないですが私にもそのような体験があります。ますます変わった人になりたくないので、またコロナが収束したらいつかお酒でも飲みながら聞いてください。今日の夕飯はから揚げになりました。
佐野
から揚げですか。ご家族は幸せ者です。
根本経験のはなしですね。実は我々がいつも迷っているので、おそらく何かがいつも呼びかけてはいるんですね。だけれど我々は自分のことに忙しくて、一向に聞こえない。それが、ふと、聞こえることがある。これが根本経験ですが、これがまた「あった!」とは言わせてはくれないもので、それが何だったのか、本当にあったのか、繰返し問わざるを得ないもの、それが根本経験だと思います。
私は今のところ、西田にこうした根本経験があった(?)、それが 『善の研究』の原形となる「実在論」を執筆する以前、つまり明治39年の初夏ではないかと思うのです。そうして彼の天才によって、『善の研究』が奇跡的に現在あるような形で出来上がった。
自分の経験もそうですが、自分が書いたものを自分が分かっているかどうか、それは分かりません。作者はいわば忘我(脱落?)状態で書いている場合があり、そのことの反省的な意味が分かっているわけではない、ということはよくあると思います。
どうでしょうか。(「私には無理です」などと仰らないでください)

B

こんにちは。今日は本当に暑いですね。メールありがとうございました。
西田の根本経験が明治39年の夏だったというのはその通りだと思います。
明治39年は次女の幽子が病にかかり、西田はその看病の合間に「実在」を書いています。日記には3月25日「今日宗教問題を考ふ、解決を得ず」とあり、4月4日を最後に40年の1月まで長い空白があります。西田のような性格の人が日記を中断するようなことなまれな事だと思います。なんらかの精神上の強い緊張があったのではないでしょうか。
注目すべきはこの頃、網島梁川の「病間録」などに深く感銘をうけていることです。ちょうど病の子を看護しながらおそらく眠れぬ夜も何度もあったでしょう。なんの罪もなくそれなのに苦しむ我が子の細い背中を抱くなかで、小自我をなくすような宗教的な体験がおそらくあったのでしょう。
この体験はある時はっきりとやってくるもので、強い「多幸感」のなか、まるで光に包まれているような安心感と自身を失うような感覚を伴い、しかしそれは忘我ではなく極めて明瞭な意識をもっているのです。西田が忘我の中で完成させたのではなく極めて明瞭で透徹した眼でそれをみつめていたのではないでしょうか。自身を失いながら失えば失うほど自らを見つめる目はより明瞭になっていく感覚です。
佐野
これはこれは。力強いメールをいただきました。ご自身の体験が背景にあるのではないかと推察しております。言葉にして、論理化しましょう(笑)
(第35回)
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カントと西田はどちらが正しいか
(判断的知識と直観的知識)

本日の「哲学的問い」は「『判断的知識』を超えることができないとするカントの立場と、それを超えた『直観的知識』が可能であるとする西田の立場、どちらが正しいだろうか」でした。それでは最初の方とのやり取りです。その前に次回で取り扱うテキストの箇所を示しておきましょう。5月30日までに「表現作用」「三」。141頁4行目から148頁7行目までを読んでおいてください。5月30日に「プロトコル」にて佐野の解釈案をアップしたいと思います。なお、6月6日からは対面型の読書会に復帰したいと思います。マスクの着用をお願いします。6月6日は佐野の解釈案の検討と、哲学的問いの考察を行います。6月13日からは通常の読書会のやり方で進めます。

A

おはようございます。プロトコルありがとうございました。冒頭での、「序」の確認。全体を見失わないで個別の章立てを読み進めていくうえで大切だと思いました。さて、哲学的問いですが、その問い方に驚きました。「いずれが正しいか」という問い方が哲学においてあり得るのか、このことをまず感じました。
佐野
もちろん、決着をつけることが目的ではなく、むしろ決着がつかないところをどう考えるか、これをしてみたいのです。

A

そして改めて、問いを考えた時、「働くもの」は、「判断知識」において成立するものなのか、それとも「判断知識」を超えた「直観的知識」において成立するものなのか、ということなのだろうか、と考えました。
佐野
ええ。

A

そして、そこでは、「時」についてのとらえ方の違いがキーではないか。そんなことを考えてみました。とりあえず私の思考の出発点です。さらに考えてみます。よろしくお願いいたします。
佐野
なるほど。楽しみです。自分がその身である「人間とは何か」に迫ればと思います。

A

御教示ありがとうございます。ただ、まだ、考える道筋が見えてきません。ただ、おぼろげに感じるのは、人間に対するとらえ方、その人間社会の中で起こる様々な変容、発展に対するとらえ方が、カントと西田では異なっているにではないかと感じます。
佐野
なるほど。

A

カントに於いては、「考える」ことで、人間は発展し、社会の変容、発展も生じる、しかし、西田に於いては、「考える」ことでは解決できない矛盾を抱えるものとして人間をとらえている、そして、その矛盾を解決する継起として「知的直観」、直覚の立場を見出す、そんな感じがしています。
佐野
なるほど。理性への信頼が「近代」とされますが、西田はそうした「近代」以後ということでしょうか。そこなんですね。よく言われることなのですが、本当にそうだろうか。そんな割り切り方をしていいのだろうか。
これに西洋と東洋を重ね合わせる時、そうした疑念はさらに深まります。そのように考えたくさせるものは何か、そちらの方に関心がでてきます。むしろ人間とは何かが歴史を通じてさらに問われているのではないか。
歴史を見る場合もそうなんですが、答えを出すのではなく、歴史を通じてどこまでも分からない「人間」が問いとして顕になってくる、そう考える方が、しっくりきます。少なくとも、近代を超克する使命が東洋にあるなどというように考えるよりは。どうでしょう?
もちろんこのように答を出そうとする傾向から人間は自由ではありませんが、その一歩手前、そこに留まる。これも答えですが。その矛盾を通して見えてくるもの。まあ、どう言っても答えなんですが。

A

「時」についても「善の研究」の叙述などとの関係をもう少し考えてみたいと思います。少しずつ考えてみたいと思います。よろしくお願いいたします。
佐野
はい。またお聞かせください。それでは次の方です。

B

こんにちは。今回のプロトコルはカントを知らない私にも理解できました。つまり、「知ることを知る」自覚の根柢に在るものについてのカントと西田の違いということでしょうか。自覚の根柢に或るものがカントにとっては「空無」であり、西田はそこにその場所に何者かを「知的直観」により見出そうとしたということでしょうか。
佐野
ええ。そういうつもりで書きました。

B

記憶とは、昨日の我と今日の我が続くというのは、自分が映っているビデオの映像を見ているようなものではないかとも思えます。カントの場合それを見ている人がいない、しかし西田は自身がそれを見ているとも思えるのです。
佐野
なるほど。面白い表現ですね。一応カントの場合見ているのは超越論的自己ですね。誰でもない自己です。西田の場合は真の自己、映す自己ですね。

B

見ているのは「我」です。併し、「我」とは何か。現在か。現在は掴めない。
佐野
そうですね。

B

しかし、「現在意識」においてのみ我々は「物を覚知せらる」のです。ならば「現在意識」とは何か。
佐野
うん。うん。これは「何か」を見る西田の立場ですね。

B

意識は必ず或る人の意識でなくてはならない。とありました。
佐野
カントではそれはありませんね。意識一般です。誰でもない意識です。

B

「我」とは「或る人」とは誰なのか。
佐野
そうそう。

B

カントの「我」は外に見る我であり、「我」でも「或る人」でもないと思います。
佐野
カントの超越論的統覚の「我」(私は考えるの「私」)は誰の意識でもありません。西田はその点を批判して「意識は必ず或人の意識でなければならない」と言ったのです。それに対して、カントの経験的な自我は対象として見られた経験的な自己、外に見られた自己です。

B

カントのペンも今ここにあるこのペンではなく過去にどこかで見たペンだと思います。
佐野
ええ。経験の対象となるペンです。カントの場合ペンになる、という認識はありません。

B

「私が赤の点から青の点に移る時どこか私の心の中の一点を通るのであろうか。」(88頁)「私の心の中の一点」が空無なはずがないと思うのです。
佐野
そこですね。その「一点」のうちにカントは「私は考える」の「私」を見た、ということですね。カントにおいてそれは決して直観できない。それ自身は空無でありながら、すべての経験的実在性を現象に引き下げると共に、現象に経験的実在性を与える。私の友人のカント研究者はこうしたカントの自我を大乗仏教の「空」になぞらえています。西田はそうした絶対の無の内に真実の有にして真実の自己を直観します。
さて、ここなんです。こうした見方は「空」を実体化した、とも考えられます。その場合何故実体化したかというと「空無なはずがない」という我々の願いだ、ということになります。我々の根柢の空無を嫌った、そういう批判が成り立ちます。考えて見れば「自我」の根拠は一面において底無しの深淵です。我々が直視できないものです。そこに何かを「見た」というのは救いにはなるかもしれないが、怪しいのではないか、逃げではないか、そんな風にも考えられます。
しかしですね、では「空」の立場に留まる、と言ったら解決するのでしょうか。しませんね。やめられないんです。人間は何かを究極的な立場として立ててしまうということを。しかしどうにもならないというところに開けているものがある。もちろんそう言ったとたんに立てている。これを決してやめられない。だからますます絶えることなく開けているものがある。それが「現在」だ。

B

何だか訳がわからないのですが、昨日はもう少しわかっていたのです。考えれば考えるほどわからないのです。あんまりぶつぶつ言うとますます娘に嫌われます。
佐野
娘さんは幸せ者です。

B

お忙しいのにメールありがとうございました。西田の「意識は必ず或る人の意識でなければならない。」とあったのを見たとき、ならば或る人が、例えば私が死んでしまったら私の意識は消えてしまうのか。人が死んだら意識は一体どうなるのだろうか。と思いました。西田が「私の心の中の一点」に空無以外のなにものかを願ったのは、次々と亡くなってしまった家族への思いがあったのではないかと思います。

「特に深く我が心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというのならば、人生ほどつまらぬものはない。此処には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義なものではない。」

有名な一節ですが、いずれ皆消えてしまうのですから、西田は「空」であることをもちろん知っていたでしょう。しかしその「空」「空無」は何もない「空無」ではない。むしろ「空無」だからこそ沈黙しかそこにはないからこそ、なんとかその場所に空無以上の「深き意味」を願ったのだと思います。ありがとうございます。
佐野
思索がぎりぎりのところに来ていますね。そこなんですね。思索すべきところは。それでは次の方です。

C

当方久しく無音続きにて、誠に恐縮に存じます。遠隔読書会の開始以降,先生のプロトコルを拝読させていだだいておりましたが、解釈して読み切るのが精一杯でありまして、当読書会に中々参加できずにいました。遅ればせながら 、参加させていただければ有り難く思います。よろしくお願いいたします。先生におかれましては、御多忙のことと存じますが、以下につき御教授をいただければ幸甚でございます。哲学的問いについて、以下のように考えます。最初に、カントの「判断的知識」とは、「物を知る・物を思惟する」ことであると考える。
佐野
ええ。ですがカントの超越論的統覚は「私は考える」が伴いますから、「知ることを知る」が伴います。カントもこの統覚を明確に自己意識(自覚)であるとしています。

C

西田の言によるならば、直観の形式を時間とし、時間の形式によって、思惟の内容は感覚の内容と結合して、実在界を構成し、同時に経験内容が与えられることである。
佐野
ええ。カントでもそうなると思います。

C

別言するならば、直観(内的直観)とは、感覚器官(内部感官)に対応するア・プリオリな認識形式である時間によって、感覚の内容としての対象(現象)が意識に受容されることである。そして、思惟の内容(知識・判断)は、時間の形式によって、感覚の内容と結合することで、実在を間接的に成立させる。
佐野
この「間接的」の意味が〇〇さんにとって重要ですが、それはどういう意味でしょうか。おそらく実在が「現象」に過ぎない、ということを含意していますね。

C

これに対して、西田の「直観的知識」とは、「自覚」のことであり、「知ることを知る・思惟することを知る」(「単なる対象以上のものを知る」、「作用が作用自身を知る」)ことであると考える。
佐野
ですから、「物を知る」と「知ることを知る」の二つはカントと西田に共通と言えます。ただ「知る」の意味が両者で異なっていると考えられるのです。カントが「物を知る」という場合の「知」は経験的な知です。また「知ることを知る」という自己意識は単に意識可能でなければならないというにとどまっていて、自己を知的に直観できるという意味では決してない、ということです。これに対し、西田の「知る」は物を知る場合でも「自己」を知る場合でも知的な直観です。

C

「直観的知識」とは、「意識統一」を成立させる自覚の根底にある「超意識的統一」によって成立する。「直観的知識」において、「統一の形式」として「繰返すことのできない「時」の系列が成り立」つ、即ち不可逆的な時間の形式が成立する。同時に、感覚の内容を包摂し統一し、感覚の意識を成立させ、思惟の内容は、この時間の形式によって、感覚の内容と結合することで、実在を直接的に成立させる。
佐野
「直接的知識」つまり知的直観によって、「時」が成立し、それによって実在も実在として(=直接的)、つまり現象としてでなく成立する、ということですね。それはそういうことになると思います。

C

以上、カントの「判断的知識」では、時間の形式を媒介として、感覚の内容から思惟の内容を間接的に成立させるが、西田の「直観的知識」では、時間を成立させるとともに、感覚の内容を包摂することで、思惟の内容を直接的に成立させると考える。
佐野
そういうことになりますね。論理的です。

C

よって、カントの「判断的知識」に対して、西田の「直観的知識」は、より統一的で、基底的であると思料する。
佐野
さて、この帰結ですが、どうでしょう。西田の立場に共感する者はすんなりと納得するでしょうが、カントの立場に共感する者はおそらく抵抗を覚えるでしょう。我々の認識できるのは経験的実在性に過ぎない、言い換えれば我々にとっての「現象」にすぎない、物そのもの(物自体)や自我そのもの(自我自体)を知ることができるというのは越権行為であり、身の程を知らぬ僭越を犯すことだ、ということになると思います。あるいはそのように物自体や自我自体を知ることができるというのも、すでに反省的な判断に過ぎないとも言えると思います。たしかに「物自体」や「自我自体」を知ることができることで、それらが「有る」とすることができるならば、それは我々が知ることのできるのは現象だけだ、というよりも 我々に救いと安心を与えるでしょう。しかしそうだとすれば、それらは我々の願いが生み出した仮象に過ぎないことになります。西田は甘い!という批判も成り立ちうるのです。ただ私としてはそうした批判に耐えうる西田解釈もありうるのではないか、と考えています。

C

理解できてない部分が多いので、解釈が誤っているかと思いますが、よろしくお願いいたします。
佐野
それはお互い様です。ご批判いただければと思います。

C

当方拙文につきまして、懇切なる御教授をして頂きまして、大変ありがとうございます。佐野先生の仰られる、西田解釈の可能性につき、興味を抱きながら筆を置かさせていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。
(第34回)
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すべての立場を除去した立場

本日の「哲学的問い」は「『すべての立場を除去した立場』というものはあり得るのか」でした。それでは最初の方とのやり取りです。その前に次回で取り扱うテキストの箇所を示しておきましょう。5月16日までに「表現作用」「一」「二」。135頁から141頁3行目までを読んでおいてください。5月16日に「プロトコル」にて佐野の解釈案をアップしたいと思います。後で出て来る「三読法」をお試しください(笑)。

A

133ページ8行目から134ページですが、難しいです。全然分からなくて、どこをどう質問すればいいかも分かりません。
佐野
お元気ですか。入学したばかりなのに、ずいぶん窮屈な思いや寂しい思いをしているんじゃないかな。でも、今じゃなければできないこともあるし、与えられた環境の中でどう生きるかもとても大事なことなんだ。西田のものすごく難しいテキストを手に取ったことは時間の過ごし方としてとても素晴らしいと思う。
学問の仕方を伝授しよう(笑)。「三読法」とでも名付けようか(冗談です)。 私も本当に読むべき本の場合、今もそうしています。
まず、とにかく分かっても分からなくても「読む」。眠くなるかもしれないね。でも我慢して読む。
2回目は鉛筆をもって線を引きながら「読む」。線を引いたところは、何かが君に訴えかけたところだ。あるいはそれは君自身の問(分からない等)があって引っかかったところだ。それから文中にいろんな関係が見えてくる。楽しくなってくる(?)。
3回目は線を引いたところを中心に「読む」。何となく分かってくる。分かった気になる。人間ね、どんな分かんない話でも何回か聞いているとそうなるんです。あるいは分からないところがもっと見えてくる。もっと楽しくなる(?)。
これを「続ける」。すると、突然何かに気づくということが起る。それは新しい世界が開けて、君がその新しい世界の住人になるということだ。これが本当の意味で「学ぶ」ということだ。新しい自分に出会うこと。なんか、怪しい宗教みたいだね。でも、こればかりはやってみないと分からない。
そこで今回のテキストだが、確かに難しい。最初の一文を見てみよう。
「数学的真理の如きものが、自己の内的証明によって立せられると考えられるが」。ここまではどうかな。どう考える?例えば幾何学(図形)の証明の場合、確かに他の科学のように外を観察したり、実験してみるということはないね。だから「自己の内」で証明が完結しているように見える。でも西田は続けてこう言う。
「かかる場合之を証するものは所謂内省的自己ではない」。これはどう?「所謂」とあるから普通に考えていいということだ。「内省的」って何だろう。あの人は内省的だ、なんて言うね。自分が自分の内を省みることだね。自己反省とも言うね。そうじゃない、と西田は言っている。たしかに数学の証明は、自分を反省するのとは違う感じがあるね。数学の証明の中で何が起こっているのだろう。西田は続けて次のように言う。
「却ってかかる自己を超越することによって証せられるのである」。どう? 数学の証明で分かんなくて辛かったことない? 私も辛い思いをしょっちゅうした。予備校の時にね、あんまり分からないから、先生に質問に行った。マンモス予備校だから、あまりそんな学生はいない。質問したら答えてくださるんだけれど、やっぱり分からない。重ねて質問したら「ばか!」と怒鳴られた。東京の電車を橋の上から眺めて涙したことを覚えている。こんな時にやっているのは全部「反省」だ。自分を内に振り返って眺めている。
ところが証明問題を解いている時に分かんない、分かんないといって自己内反省ばかりしているところへ「突然」ひらめきがやってくることがある。君にも経験ないかい? それはもう、跳び上がりたくなるほどうれしい。その「ひらめき」は内省によって得られたものじゃないね。これが「自己を超越」するってことかもしれない。そんな風に読めるね。 そうすると、最初に「三読法」で言ったようなことがここでも起こっていることになる。「新しい世界の住人になる」ということだ。どう?こんな楽しいこと、続けてみない?(いよいよ怪しいなあ:笑)またお便りくださいね。

A

本当に丁寧な説明ありがとうございます。読書の仕方から教えていただきありがたいです。三読法に沿って何度も読み込んで、「学ぶ」ことをしていきたいとおもいます。解説を何回も読んでいるうちになんとなく分かったような気がしてきました。とても楽しいです。西田が書いていることと日常生活は強く繋がっているんですね!西田のテキストを読んで分からない分からないと感じていても何度も読み続けるうちに、突然何かに気づく。これも西田における「自己の超越」なんですね。まだ頭の中がごちゃごちゃしているのでもっと読み込んでいこうと思います。
佐野
はい!またお便りくださいね。それでは次の方です。

B

プロトコルありがとうございました。プロトコルへの疑問です。(第3段落続きの項)下から7行目。「反省にとって対象はどこまでも到達できない客観である。そうした反省が破れるところに現成するのが直観である」ですが、私は、反省を破るのが直観ではないのかと考えるのですが。そのうえで、哲学的立場について。すべての立場を除去した立場とは、純我の世界である。それは、内部知覚を超えた微小な反省も挟まない世界。そしてそれは、純粋経験を超えた世界。すなわち直観によって現成せられた、すべての対象界を合一した(包み込んだ)世界。それは、「宇宙」であり、神である。とかんがえてみたのですが。でも、それが具体的には何か、ということはよくわからない。まとまりませんが、とりあえずの発信です。また、発信させていただきます。
佐野
メール、ありがとうございます。最初のは、反省が破れての直観か、反省を破るのが直観か、という問題ですね。難しい問題だと思います。破れたから見えるともいえますし、見えたから破れるとも言えます。
「驚き」や「気づき」の刹那、何が起こっているかということですが、そこはどこまでも分からない。すべては気づいたところからの反省です。我々はこうして反省を一歩も出ることがないのですが、気づかしめられる。そのとき主語はありません。「驚く」場合もそうですね。初めは主語はない。誰かが驚かした、誰かによって驚かされた、私が驚いた、私が驚かされた、というのはそれからの反省によるものです。
驚かせた主体をあえて主語として設定すると、まだ自他の対立が出て来る以前という意味で「絶対的他者」ということになりますが、もうそれを主語とした能動的な表現、あるいは自分を主語とした受動的な表現になっていますね。反省は主語を立てるという思考方法を止められないのです。
ですが面白いことに、例えばドイツ語でも非人称動詞というのがあって、これは主語がありえないものなんで、仮に英語のitに相当するesを用いるんです。例えばes gibt~というのは「それが与える」ということですが、これで「何々がある」(英語のthere is(are)~)という意味なんです。存在を与える者が「それ」ですね。この「それ」は「自然」とか「神」の概念へと自然につながっていきますね。英語でも気象天候のitがありますね。それに相当します。ですが、それでも我々はesという仕方で主語を立てて考えざるを得ない、その点に注意したいのです。
ですから「直観が」反省を破る、と言ってもよいのですが、直観があらかじめあって、それが主体となって反省を破る、ということではない、少なくとも、そう表現するのは後付けの反省だ、ということになると思います。同じことは「反省が破られて」という表現にも言えて、まず反省があって、それが破られて直観になる、と考えたら、その直観はすでに反省の主体です。
長くなりましたが、要するに、我々は刹那の出来事を説明できない(この言明自体が説明です)が、これを説明しようとするとどうしても反省的表現になる、ということです。西田の、いえ人間の苦悩はそこに在ると思います。
次の質問です。「「すべての立場を除去した立場」というものはあり得るのか」、が哲学的問いでした。それは「純我の世界」であり「神」であると。
こういう問いには落とし穴があります。まともに答えるとはまってしまいます。(もっともどう答えても人間はこの落とし穴にはまらざるを得ないと思いますが)
問題は「すべての立場を除去した立場はこれだ」と言った時に、それが一つの立場になっていないか、ということです。こうした落とし穴を承知の上で、どう考えるか、そこが問われているのだと思います。

B

詳細な御教示、ありがとうございました。反省と直観との関係、文言だけにとらわれていた気がします。というよりも、私自身がまだ哲学的思考にほど遠いような気がしています。それでも、哲学的に考えてみようとしたいと思うのですが…。
佐野
はい。「哲学的に考える」、これがどういうことかも含めて、私もそうしたいと思います。

B

哲学的問いの落とし穴、二―チェ読書会でもニヒリズムを論ずる際によく出てくる問題ですね。
佐野
ニヒリズムがイムズとして立場になるということですね。ですがこれは人間、やめられないと思うんです。そこなんですね。そこですでにふれているものがある。あるいは現前しているものがある、西田の言う自覚とか直観というのはそういうことではないかと思うんです。

B

ところでプロトコル(第3段落続)の項最終行、「対象と一つになったもののみが客観的と言える」について質問です。ここでの「客観的」という言葉は、テキスト134頁5行目「内容そのものが対象として直ちに客観的である」とつながると思うのですが、「客観的」という言葉は、作用と対象が一つになる、作用が対象になりきる、そこでは対象を認識する主観がなくなる、という意味で使われている、という解釈でいいのでしょうか?
佐野
ええ。私もそう解釈しています。

B

さらに、第4段落では、純粋現象学的立場では、「作用が作用自身を見る立場」に進展することを求めています。これは、作用自身を作用の対象とすることを求め、芸術的創造作用では、そのことを求めている(第3段落最終行)のではないか。
佐野
ええ。西田は哲学の方法についても、芸術の創造作用についても同じ立場を要求していますね。

B

どこまでも対象をおいもとめる思考(作用)に対する西田の警鐘なのか。そして、すべての立場を除去した立場はそこに現れるのではないか?そこもまた「立場」かもしれませんが。
佐野
「そこに現れる」の「そこ」とは?これが問題となります。どうでしょうか?

B

改めて、テキストの文言を見直してみました。第4段落では、「真にすべての立場を除去した」立場(世界)を純我の世界と言っています。他方で、純粋現象学を「すべての立場を除去した」立場と言っています。以前議論した「真に」です。第3段落では、「真に対象そのものに合一した」内部知覚の立場を所謂省みられた自己を離れた「立場」といい、この「立場」によってすべての知識の「立場」が統一せられる、といっています。しかし、この内部知覚の立場も、真にすべての立場を除去したものではない。ここが、先生のプロトコルの(内部知覚での)「合一が厳密ではなく微小な反省が挟まる」ということでしょうか。
佐野
ええ。

B

そうするとやはり、「真にすべての立場を除去した」立場は、完全に対象界を自己の中に包み込んだ立場、ということか?
佐野
そうなりますね。

B

そして、この立場に到達することで、自分がわが身である人間であることを認識できるという前回のプロトコルの問いにつながるのだろうか?
佐野
ええ。「映す我」ですね。

B

しかし、ここまで考える自分は、やはり、対象を外に置いていることを認めざるを得ない気がします。まとまりませんが、私の覚書です。
佐野
「映す我」「包む我」を外に置いてしまうということですね。そうしてそれを「すべての立場を除去した」立場、ということはできない、ということですね。すべての立場を除去した立場が「そこ」に現れても、そこがまたひとつの立場になる、前回の問いに繋がりますね。むしろこの「どうにもならない」所が重要なのではないかと思います。どうしても立場を立ててしまう、しかしそこにおまえはすでにいるではないか、こういうことなのではないかと思うんです。フィヒテの事行やロイスの例の英国にいて完璧な地図を描く例のように。
臨済録に「随処に主と作(な)る」という表現が見られます。人間は真理を得るために何かをしようとしますね。修行したり、学問をしたり。ですがそのように目が前に向いていることを臨済は戒めます。そのように前を見ることが自分を何か欠けているものとするのだ、そんなことをしなくても欠けることのない自分がそこにいるではないか、とこういうわけです。
「立場なき立場」は「随処に主と作る」に通じるところがあると思います。「現在」です。そう言うともう現在を取り逃がしていますが、そこにもすでに顕になっている、というわけです。

B

ご教示ありがとうございます。「現在」ですか。確かに、過去、未来を見るのは「現在」からですね。「すべての立場を除去した立場」は自分ではわからないようでいて、案外、どこにでも現れる。それが、「随所に主と作る」。「善の研究」第2編第6章第3段落(文庫99頁)最終行で、「時間の経過とはこの発展に伴う統一的中心点が変じてゆくのである。この中心点がいつでも「今」である。」とあります。ここでの「この発展」は前段からすれば「意識の発展」と考えますが、そうすると、ここで言われている「統一的中心点」が「立場を超えた立場」ということになるのでしょうか?
佐野
ええ。そうなると思いますが、どう言ってもひとつの「立場」になってしまう。どうにもならない、それに対する身の頷きが必要だと思います。それだからこそ、その「立場」の手前に現成している「場所」がある。それに基づいて反省がなされている、ということになると思います。
しかし、私としてはそれをも「反省」による後付けだとも言え、こうした解決を許さない矛盾が重要であると思うのです。「場所」さえも反省によって実体化されるものであり、その意味では「場所」は絶えずその存在を否定されなければならないと考えています。
ですが、こうした言明すらも解決になっている。しかしだからこそ、そこに現状しているものがある。もう、繰り返しですね。もう言葉ではどうしようもありません。ヘーゲルはこれを見る働きを「思弁」と呼んだと思います。

B

ご教示ありがとうございます。「立場」の手前に「場所」が現成されている、その「場所」には我を映し、我が映されている、そのことに身が頷くことで、「場所」から真にすべての立場を除去した「立場」に到達する、ということでしょうか?
佐野
分別的な理解としてはそうなると思います。ただ「到達」というのではなく、足元が開けるというか、以前テキストに「後ろから」というような表現があったと思いますが、もともと立っている場所が開ける、ということですね。

B

身が頷く、ということは、判断、反省が入り込む隙間がない状況ということなのでしょうか? でも、身が頷いた、と言われるときは、そこに判断、反省がある、結局際限がない、ということか?でも、そこまで考える、追及すること自体に意味があるということなのでしょうか? 考えてみたいと思います。
佐野
身が頷く、ということ自体「反省」がなければ明らかになりません。しかしそれを「際限がない」というのは反省による矛盾の解決の仕方だと思います。矛盾の先送りですね。そうではなく、矛盾そのものに留まる。どうしても反省を出ることができない。そこに頷く。
「頷く」というのは自分の力でできるものではありません。頷こうと思っても頷けないのです。しかし何らかの「機縁」によって、頷かしめられる。そこに開けるもの、それが「場所」です。もちろんこういう言い方をすると、我々はそこに原因結果のような「道」を想定し、目標を定めてしまう。これが反省です。やめられないんですね。そこに「頷く」。だから「際限のない」ことを「追及すること自体に意味がある」というのは、すでにこちらから定めた「道」ですね。反省から直観に「到達」する「道」はない、と思います。どうでしょうか。

B

そうなんです。私の理解は「分別的理解」なんですよね。それは、私自身が、西田論文を理解していると思いたくて表現しているのだと思います。そうしないと、不安なんです。でも、大切なことは、そこではない。私たちは、映された我を認めたくない。自分はこんなものでない、と。でもそのときは、実は、我を映した「場所」に私はいる。そして、真にあらゆる立場を除去した立場に立った時、その「場所」にいる自分に「身が頷く」、自分の足元に気づく、ということでしょか? でもこれも分別的な理解ですね。ただ、際限のない繰り返しですが、このような思考を繰り返すことで、肩の力が少しずつ抜けていくような気がするのですが…。
佐野
ありがとうございます。私が言うのもなんですが、もう、だいぶ肩の力が抜けているような。少なくとも、今までとちょっと言い方が違うような感じがします。次の方です。

C

こんにちは。良いお天気です。
佐野
はい。コロナ禍などはまるで関係なく、いい天気ですね。

C

やはり『自覚に於ける直観と反省』はすごく面白いよりはすごく難しいのです。あと一生懸命よんでいるのですが、先生のプロトコルが難しくてわかりません。夢に出てきてうなされました。最後に先生が出てきて「論理的でしょう」とおっしゃるのです。
佐野
それは災難でしたね。でも論理は分かりやすいから論理なんですよ。直観でつかんだものを論理化する作業が哲学の醍醐味(一番美味しい所)だと思うんですが。また夢に出て来そうですね。

C

『内部知覚について』についてが終わりました。よくわからなかったのですが、次の一文は核心ではないかという気がします。
厳密には此花が赤いとも云われない、唯此花の色が赤いのである。(134頁)
「この赤は赤い」というとき、「この赤」が単に符号に過ぎない「赤」を拒むとき、「この赤」は真に主語となって述語となることなき者になるつまりそこに「純なる作用」が生まれると思います。
佐野
ええ。まさに「表現作用」ですね。

C

『内部知覚について』が始まる時、先生は「個物とはなにか」と問われました。その時「個物とはこの赤い花だ」と思いました。どの赤でもない、いや「赤」ともいわれない赤が現在という一点で私と一つになっている。それは「私はわたしである」の「私」が符号にすぎない「わたし」を拒み「溶かされるべきもの」(123頁)になりその「赤」と合一することです。
佐野
ええ。

C

そしてまた「私」「この赤」が真に合一する『現在』という一点を我々は掴むことができない。
佐野
ええ。そうです。この「掴むことができない」が重要です。

C

(ここでの『現在』は『純我の世界』とも言っていいと思います。)しかし、それが「在る」ということを知って居る「自覚」することができるという点で今回の哲学的問である「すべての立場を除去した立場」はあり得るのだと思います。
佐野
ええ。ですがまた「できる」「あり得る」という「可能性」が出て来ました。そうでなく、不可能性、これが重要だと思うんです。不可能性のところ、そこにすでに開けている、気づき、目覚めですね。しかも「目覚めた」とは言わせない(掴ませない)ところが重要なんだと。

C

そうなんです。いくら頑張っても掴めないのです。西田は『現在』について次の様にも言っています。
自己が現在を知ることができないというのは何を意味するか。(86頁)
自己が自己を省みることができぬといふのと同様である。(86頁)
つまり『現在』は「真の自己」であると考えます。
我々は時の流れに従って現在を離れ行くのではない。唯現在の奥深く進みゆくのである。(91頁)
矛盾は思惟すべきものを見ようとする所に潜んでいる。而も此の解き難き矛盾が即ち自己の世界である。(87頁)
『現在』を「真の自己」を掴もうとする。その解き難き矛盾から逃げない。非常に苦しいことです。
きっと今日の夢には先生がでてきて「言葉にするのだ。」とまたうなされることでしょう。
佐野
思わずテキストを取り出しました。ありがとうございます。安心しておやすみなさい。次の方です。

D

こんにちは。お世話になります。読書会では、分からないまま参加だけしておりましたので、短期間では送付頂いた資料を読むだけで精一杯でした。ですので、今回は、4月4日分の資料での復習中心の質問になりますが宜しくお願いします。
「キーネーシス・エネルゲイア・テオーリアー」について。
未だに、自分の身体感覚(経験)に照らし合わせる仕方でしか考えられないのですが、例えば、楽譜通りに弾ける様に練習する事は(=目的を持つ)キーネーシス、音楽に完成はないので(と、私は思っています)どこまでいっても到達できない。けれど、響きの中にいる時、見えない何かを感じている自分はあると思う。勿論、演奏中や聴いている最中は意識はしていないのですが…これはエネルゲイアと考えて良いのでしょうか?
佐野
アリストテレスは「見る」はエネルゲイア、「習う」はキーネーシス、というように動詞で区別していますが、そうでないことを私の大学時代の先生である藤沢令夫先生から教わりました。今の場合「目的」が内在していますから、そういうことになろうかと思います。

D

以前、読書会で、(構成的範疇とは)(1)ある(2)有つ(3)働き(4)知る、と教えて頂きましたが、エネルゲイアは(3)でいいのでしょうか?(ここが、よく分からない)
佐野
そうなると思います。ただ目的に個々の目的と究極的な目的の区別があると思います。湯田温泉まで無心で歩いたとしても、次にはJRに乗って(乗り過ごさないように!)新下関で降りなければなりません。こうした個々の働きを一つにしたところを西田は考えていると思います。

D

(4)がテオーリアー、それが「思惟の思惟」、(1)→(2)が直覚(2)→(3)が反省と考えて良いのなら、何となく掴めている気がしますが、そこから(4)への超越、直観・自覚については、あやふやです。「無限に進み行く行く先は、個々の目的が全て崩落するところに現成し、そこに自由がある」と言う文章に惹かれますが、まだ、頭と身体が一致しない感じです。
佐野
大変難しいところですが、私はすべて同一の直観ないし自覚の4つの層のように解釈しています。(1)は色や空間のようなものですね。その場合にも「色そのものになる」というのは直覚です。さらに色は香と共に「物」においてあるわけですが、物の場合も、「物になる」というのは直覚です。さらに「物」は他の物と共に「働き」においてあるのですが、「働きそのものになる」というのも直覚、最後に、唯一の働きは働かないものにおいてあるのですが、これが知るもの(テオーリア―)です。最後に至って思惟は最内奥で自分自身に出会う。これが思惟の思惟、つまり自覚です。これが4つの層を貫いているわけです。ところが反省はこれらをバラバラにして実体化し、その上で関連付ける、そのように解釈しています。

D

2月の東亜大学の演奏会で今までにない経験をし、未だにそれは何だったのだろうと考える日が続いているのですが、その時から、改めて「純粋経験」とは何なのか?「絶対と相対」、「直観と反省」との差(境界?)は何か?「よく見ればなずな…」の句も、よく見れば…とした瞬間、それは反省?とか、意識すると言う事は、意志があるのだから、それを「生きる」と言うことに置き換えると…と妄想していると更に混乱してきます。
要点を纏める事ができずすみません。相変わらず、私には外国語にしか思えないテキストで、「馴染む事が大事」「分からないまま死んでいくのだ」と言う先生の言葉に縋ってはきましたが、一人で読んでいると休憩ばかりになります(笑)今月から毎週末、「レビィナス勉強会」も感想と近況報告を送信しなければならなくなりました。今後「時間と自由」について勉強していくらしいのですが、今回の資料にも同じ様な言葉が出てきているので、もう少し頑張ってみようかと思います。まだ、明日提出の「レビィナス」が手付かずのままですので、この続きは来週にさせて下さい。長くなりすみません。宜しくお願い致します。
佐野
また郵送しますので、楽しみに(笑)待っててください。

D

お忙しいところ、早速、お返事頂き、ありがとうございます。今、内田樹の通訳?があっても分からぬままのレビィナスを見つめていたのですが、先生のお返事を読み、更に気持ちが萎えてきました。すぐへこむ性格ですが、今から食べて飲んで寝て、明日から又、頑張ってみます…多分。でも、今回、書く事で何が分からないのかが、少しだけ分かった気もします。論文に触れた事も、まともなレポートさえ書いた記憶のない私が、なぜ、こんな事しているのか不思議です。(哲学していると私が何なのかも、どこに存在しているかも、分からなくなり困ります)
普段は、なかなかお伝えできないので、つけ加えさせて頂きます。西田邸、東亜大学の空間は、知らなかった世界や自分を(深く封じ込めていた自分かもしれませんが)見せてくれる場所であり、音楽を目的にする以前の(早くに専門を決めましたので)「ピアノを好きだった私」を取り戻せた場でもあります。とても幸運だったと思っております。
佐野
それでは次の方です。

E

今回の範囲で何回も読んで、ずっと考えています。でも、解ったような、そうじゃないような、モヤモヤした感じです。でも、何も書かないのも愛想がないので、今、僕の中で考えていることを書きます。今、塾の方では、Zoomを使って授業をしているのですが、オンラインのせいかどうかはっきりしないのですが、結構、距離を置いて話せている感じです。そこで、この子どもたちの中に流れている時間を意識するようになりました。と言いいますのは、この子供たちの今に至るまでの時間、意識せざる記憶、そこに触れえたとき、子どもたちの何かを掬いあげることが出来るような気がしています。ぼく自身も、人との関わり、或いは読書によって、無意の記憶を掬いあげられている気がするのです。それが出来るのは、対話においてかなと考えます。その無意の記憶は、それぞれ心の中に流れている時間があるからこそ掬いあげられうるのではないか。そうすると、自分の中に流れている時間を考えず、外の時間に沿ってだけ生きていると、自分が、匿名的な自分になってしまうのではないかと考えます。そこで、悩んで、自分を見つめても、自分の中に流れている時間を喪失していれば、孤独感の中に陥ってしまうのかなと考えました。全然、まとまりませんが、そう思いました。そんなところです。
佐野
ご連絡ありがとうございます。この時間はまさに西田の「現在」ですね。本人にも意識されていない「何か」を対話によって「掬いあげる」というのは、ソクラテスの「産婆術」にも、プラトンの「想起」にもつながるものを感じます。プラトンは教育とは「魂の向け変えの技術」だとしましたが、目を外に向けるのではなく、生きている時間(それは足元にあって我々を支え生かしているものですが、足元であるが故に決して見る音のできないものだと思います)に目を向けさせる、これが教育の最も大切なことであるように改めて感じました。ありがとうございました。
(第33回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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