「考究の出立点」は出立点たりうるか
- 2019年11月2日
- 読書会だより
本日の哲学的問は先週に引き続き「『善の研究』における「考究の出立点」は出立点たりうるか」です。
西田は『善の研究』第2編第1章の「考究の出立点」で、「純粋経験がある」ということを疑い様もない、としています。しかし「純粋経験がある」というのは紛れもない判断です。判断ならば疑いえます。西田の「考究の出立点」は失敗しているのではないか、こういう質問です。
出立点の疑い様がないところにはどこまでも行き着けないということではないでしょうか。
それでは最初から躓いているということですか。
初めから統一が成り立っている、発展しようのないものが与えられている、ということだと思います。これに対しカントは感性的にしか直観できない感覚の多様が与えられていて、悟性(統覚)がこれを統一していく。ここに西洋と異なる日本の特殊性があると思います。
その通りだと思います。根本的直観力は風土に根ざすんです。日本は特殊です。世界のひな型とも言えます。これを強調すると危険ですが。
大いなる他力とも言いますね。
それでは我々は日本的なものの信仰から始めなければならない、それが疑いようのない出立点になるのですか。
哲学はそのもとを疑っていきます。ですが調和が与えられているんです。それを見つけることはできないけれども与えられているんです。
見つけられないけど与えられているってどういうことですか。
私は座禅はしませんが、西田は座禅をした。その時の実感のようなものです。
ですからそのようなものを疑い様のない出立点としてよいのか、ということです。実感があるというのも判断です。
「純粋経験というものがある」のか「純粋経験という概念がある」のか、どちらでしょうか。
ものでも概念でもなくて、例えば今ペンを見ているならペンを見ているという意識現象がある、ということです。それを見ていることとそのことに気づいているということとが一つであるという。ですがそのように「意識現象がある」と言ってしまうと判断なんです。
西田は書物にしなければならなかったんだと思います。そうでなければ救われなかった。
説明できない、「有る」ことは確かだけれど言語化できない。そういうところを西田は苦しみながらもよく頑張っていると思います。。出立点たりうるとは思いますが、言葉にすると出立点たりえない…
西田はこれを重い病気の子供を看病しながら書いているんです。結局死んでしまうのですけれど。そうして子供が初めて光を見た時は光そのものだって書いている。決して失敗していないと思います。そもそも私は西田に疑いを持っていません。
これは出立点でもあり、目標でもあるんじゃないでしょうか。疑っていく働きの中で出立点の判断するものではないものを感じ取っていくというような。
出立点は暫定的なもので、出立点が出立点であることは最後に分かるということですか。
モーツァルトは曲を作る時に、初めから最後まで分かっていたと言いますね。それと同じで、最初にすべてが直観されているんです。最初から答えがあるんです。すべてが分かった、そこから西田は書いているんです。
本を書く時にそんな風に書くんでしょうか。初めは何か書きたいことがぼんやりとあって、それを文章にするのではないですか。
初めからすべてがあるんです。胎児でも、いや初生児だったかな、すべてがあるんです。そのままでは何も始まらない。始まるにはそこにズレのようなものがある。そのズレが考究の出立点になるんです。
それはよく分かります。しかしそこにズレがあるならば、出立点はありのままということを取り逃がしていることにはなりませんか。面白くなってきましたね。ですがこのくらいにしておきましょう。
(第23回)