いかにして一般は個になるか
- 2024年3月16日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落287頁7行目から288頁5行目までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する。主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものものであろう」(287,15-288,3)でした。そうして「考えたことないし問い」は「働くもの・変ずるものを判断するには、主語面において「個体」、述語面において「個体」について述語となる「最後の種」を考える必要がある。西田はその両面をも「述語として限定することのできない何物」即ち「一般概念」が「自己自身を限定する」ことと考えている。また、働くものを判断するには「述語面が主語面を包むものでなければならない」とされる。「一般概念」の述語面の自己限定が如何にその主語面の自己限定を包むか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
「働くもの・変ずるもの」を理解や判断のレベルで考えるのではなく、何かが生まれる時に興味があります。
テキストでは「変ずるものを意識するには」(287,7-8)とありますね。意識するためには、主語面(対象面)が述語面(意識面)に附着して、しかも両者が単に一つになるというのではなく、述語面が主語面を包むものでなければならない、そのように書かれています。つねに「意識」や「判断」から考えられています。
その「単に一つになってしまえば、働くものもなく、判断するものもない」というところ、否定的に読むのではなく、そこに直観が残る、というようには読めないですか?
そこはやはり「単に」という言葉があるから否定的に〈判断が成り立たない〉というように読むべきじゃないかと思います。この「単に一つ」というのは、意識を失ったような状態とか赤ちゃんのような状態ではないでしょうか?
だから「述語面が主語面を包むものでなければならない」と言われるのだと思います。両者が同じ範囲で重なる(同値)ではなく、述語面が主語面より広いということです。そうでなければ変ずるものを見たり、判断したりできない、そういうことだと思います。ただ主語面での自己限定と述語面が主語面を包むということがどう関わるかが分かりません。
その場合、主語面と述語面を分けて考えていますね。「変ずるもの」を考える場合には「述語として限定できない何物か」がなければならないと言われる場合、この「何物か」は主語面と述語面を分けて考えることのできないものだと思います。「変ずるもの」ですから、一方に「変ぜざるもの」があって、他方でそれが「変ずるもの」として変ずる、そうでないと「変ずるもの」を考えられない、ということです。しかも両面は分けて考えられないということです。
まだよく分からないのですが。
個(個物)ということもそうですが、変化・動ということに西洋哲学は苦しんできたと思います。人間は言葉で考えます。言葉はつねに一般です。「個」、例えば「これ」と言っても言葉にすると、どれも「これ」になってしまう。これに対して「そうじゃない、一般としての個ではなく、個としての個だ」と言い張っても、どれもそうした個です。それで例えば「質料」というようなものをもって来る。「質料」を「個体化の原理」として考える。三角形自体にこの三角形もあの三角形もない。しかしそれをペンで書くと、紙とインクという質料によってこの三角形やあの三角形になる。とても分かりやすいですが、じゃあなぜ「質料」によって一般が個になるのか、と言えばやはりよく分からない。こうして我々は一方に一般の領域を置き、他方に個の領域を置いて、それを形相と質料で説明した気になっていますが、結局はすべてを言葉によって一般的に説明しているにすぎない。
なるほど。
同じことは変化にも言えて、言葉によって変化を説明することは難しい。例えば「ある」と「ない」。言葉の意味からすれば「ある」は「ある」、「ない」は「ない」で、両者は対立します。しかし「ある」が「ない」に行くことが「消える」、「ない」が「ある」に行くことが「生ずる」で、両者合わせて「変化」です。我々はこの「ある」と「ない」の間に時間差を設けて変化を説明した気になっていますが、変化の瞬間を問題にすればそんなに簡単に説明はできないことになります。また「変ずるもの」を考える場合は、その根底に「変ぜざるもの」がなければ考えることができない。形相と質料は先程の場合は「一般」と「個(特殊)」を説明するものでしたが、それを「現実態」と「可能態」に重ねることで、現実態が変化や動の原因と考えられ、質料がそれがそこにおいてある「基体」と考えられ、こうして運動や変化が考えられることになる。こうしたこともすべて「変ぜざる」言葉による説明です。そこを西田は問題にしようとした、一般と特殊(個)、「変ぜざるもの」と「変ずるもの」を「矛盾」ということで考えようとしたのではないか、そう思われるのです。そのように矛盾した「述語として限定することのできない何物か」が一方で主語として「変ずるもの」として、〈この緑〉や〈この赤〉という「個物」になり、他方で述語として〈この木の葉の色〉という「最後の種」になる、そのように考えるべきだと思うのです。
その「変化せざるもの」ですが、一方では変化を考えるには「変化せざるもの」のような物差しがなければならない、ということと、他方では同一の基体が存続している、ということの両方の意味があると思います。そうして変化は言葉で捉えられないということでしたが、言葉もそんなにカチッとしているわけではなく、巾があるのではないでしょうか?例えば赤の中にも朱色もあるというように。
そのように一般を限定していって〈この緑〉だとか〈この赤〉に到達するでしょうか?〈この緑〉は今ここにしかない色で、同じものが二つとないもののことです。我々の言葉や意識はそうした個には到達できないと思います。ですが我々はそのように判断している、そこから出発しているのだと思います。
「最後の種」から「個」に至るには一種の超越が必要ということですね。
「最後の種」は個ではないのですか?
いえ。類を限定して種になりますが、それが最後の種になっても、種は種で、一般です。そこと個の間には断絶があります。
それならなおさら、個やそうした個の変化というものは意識や判断には捉えられないものになるのではないですか?
西田は変ずるものの意識や判断から出発していますが、それが可能となるためには何がなければならないかを問題にします。こうしてようやく「述語面の自己限定はいかにして可能か、述語面はいかにして主語面を包むか」Rさんの問いに到達することになります。これはいかにして一般は個になるか、という問いでもありますね。西田はどう考えているでしょうか(これは次回考えましょう)。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りたいと思いますが、最後の3行の考察がまだでしたね。Bさん、お願いします。
読む(288頁1行目~3行目)
ここは少しおかしな文章になっていますね。その前の文章では「主語的に云えば」と「述語的に云えば」と対になっていたのに、ここでは「述語面から云えば」はあっても「主語面から云えば」という句がない。「述語が主語を包むという考から云えば」という句はありますが、これは「主語面から云えば」とは言えない。そこでこの句は両面にかかるものと考えてみたらどうかと思うのです。つまり「述語が主語を包むという考から云えば、〔一方で主語面から云えば〕主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えるということであり、〔他方で〕述語面から云えば、述語面が自己自身を限定することであり、即ち判断することである」というように読んでみては、と思うのです。そうすると、「述語が主語を包むという考から云えば」、包摂的判断で考える、ということですね。その場合、「主語が無限に述語に近づく」とは、主語面と述語面が区別されていて、それが近づいていくということではなくて、主語面と述語面が附着している一つの面を考えて、その上で主語、つまり〈この木の葉の色〉が〈この緑〉になったり、〈この赤〉になったり、無限に動くんです。もちろん、〈この木の葉の色〉の範囲内ですから、ピンクにはなりませんが。そのように〈個〉が無限に働いて〈この木の葉の色〉という「最後の種」に近づくことになります。「述語面から云えば」どうなるでしょうか。それは「述語面」の自己限定であり、それが「判断する」ことだ、ということになります。今日は先に進めませんでしたが、有意義な議論が行われたと思います。ここまでとしましょう。
(第74回)