内在的対象とは何か
- 2023年4月22日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 266頁6行目「前に云った如く」から267頁5行目「此故である」までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーセンテンスは「限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ、かかる無が更に無に於てあると考えられる時、判断作用が成立するのである」(267.2-3)で、キーワードは「真の無に於てあると考えられる」(267.2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「一般概念(「限定せられた有」)がもともと「真の無の場所に於てある」。しかし、一般概念が直に「無の場所に映されたもの」として「考えられる時」、それはすでに「対立的無」場所に於てあるとされる、この時、知覚作用が成立すると言われる。そのことは、真の無に於てある一般概念がすでに「対立的無」場所に映し出され、それ自身が意識されて知覚作用になると考えられるか?もしこう考えられるならば、有の場所が無の場所に包摂され、映された時、一般概念自身の矛盾がそこに見られるのではないか。(232字)」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
「考えたことないし問い」の部分ですが、「もともと」とか「すでに」という言葉が気になります。また原文では「真の無の場所に於てある」の部分が「無の場所に映されたもの」に代わっていることも気になります。後の点について何かわけがあるのですか?
それは私の解釈です。
特に置き換える理由がなければ原文のままの方がいいでしょう。そうすると「考えたことないし問い」の前半はほぼ原文と同じですね。ただやはり「もともと」という語が気になります。
真の無の場所に永遠に於てある、という意味で使いました。真の無の場所は「自ら照らす鏡」(260,1)ですから。ですがそれは体験の言葉で、真の無の立場から言えることだと思いますので、「もともと」というのもその意味では私の解釈です。
なるほど。それではそういうことにして、後半部分の説明をお願いします。
後半部分は二つの問いから成っていて、一つ目はこう解釈してよいかという質問です。
「真の無に於てある一般概念がすでに「対立的無」場所に映し出され」における「すでに」とは、その前の文からすると「考えられる時、すでに」という意味でよいですか? 我々は一般概念の上をそれと知らずにそれに没入して生きています。そうした没入が破れ、一般概念が直に真の無に於てあることになるが、そうした一般概念が考えられる時にすでにそれは対立的無の場所にある、これは分かりやすいですが、こういうことですか?
そうです。
それでは第二の問いに移りましょう。「有の場所が無の場所に包摂され、映された時、一般概念自身の矛盾がそこに見られるのではないか」とありますが、「一般概念自身の矛盾」とは具体的にどういうことですか?
正しいと思って行為していたが、正しくなかった、しかしそう(正しいと思う行為を)せざるを得ない、という仕方で真の無に於る「一般概念」はそれ自身が矛盾している、ということです。
一般概念は無矛盾ではなかったですか?
一般概念の中にいる時には無矛盾でも、それが破れ、真の無の場所に映された時、一般概念自身の矛盾が見えてくるのだと思います。
「もともと」矛盾していたのだ、と。やはり真の無の場所の立場から語っていますね。プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。Bさん、お願いします。ここも強烈に難しいですね。
読む(267,5-10)
いきなり「有が無に於てあるが故に」とありますね。この「無」は「真の無」ですか?それとも「対立的無」ですか?
「対立的無」だと思います。
でも、これまでの文章の続き具合から言えばどうでしょうか。ちょっと前に「すべて作用というのは一つの場所が直に真の無の場所に於てあると見られる場合に現われる」とありますね。「見られる」とは「考えられる」と同じと見てよいと思います。「有が無に於てあるが故に」がそれを受けていると考えるならば、ここも「(限定せられた)有が直に真の無に於てあると考えられるが故に」と補ってみてはどうでしょうか。そのように成立した「作用の根柢にはいつでも一般概念なるもの、述語的なるものが含まれて居る」ということになります。作用の根柢にあるとされる「一般的なるもの」「述語的なるもの」はすでに「対立的無」に映されたものです。「併し」と続きます。「それ」、つまり「一般的なるもの」と「述語的なるもの」ですね、「それは単に対立的無に映されて居るのでなく」と来ます。「直に真の無に於てあるが故に」、ちゃんと「直に真の無に於てある」ことが見て取られている、ちゃんと「真の無」につながっているが故に、「遊離せる抽象的概念ではなくして、内在的対象となる」。
「内在的対象」とは何ですか?
何でしょう?
「内在的対象」と「遊離せる抽象概念」が対になっていますね。
ええ。次に「内在的対象とは真の無の場所に固定せられた一般概念である」とありますね。抽象概念の方が「真の無の場所」から遊離しているのに対し、「内在的対象」は「真の無の場所」にちゃんと「固定」されている、ということでしょうね。この「固定」に悪い意味はないと思います。「真の無の場所」と「内在的対象」の関係は表現するものと表現されたものの差異に通じると思います。
でも266頁3~4行目には「限定せられた場所が無の場所に於て遊離せられて所謂抽象的一般概念となる」とあります。「真の無の場所に於て」となっていて、「真の無の場所」〈から〉とはなっていません。
「真の無の場所に於て」、「真の無の場所」から遊離される、ということではないでしょうか?(逆に言えば、抽象的概念は真の無の場所から遊離されると言っても、どこまでも「真の無の場所」を離れない、「真の無の場所に於て」ある、と言うことができるでしょう。判断は抽象的概念によって構成されます。こうした判断が習慣となって我々の日常生活が成り立つことになります。「物心の独立的存在」(『善の研究』岩波文庫改版65頁)などがその例です。そのように考えた方が行為しやすいからです。それは一見「内在的対象」とは違って、「真の無の場所」から遊離されているように見えるけれども、じつは根柢においてどこまでも「真の無の場所」から離れない、といえると思います。)
この「内在的対象」はベルグソンの「純粋持続」のようなものと考えるべきじゃないでしょうか。
たしかに、266頁8行目にベルグソンの「純粋持続」のような「直覚」が「真の無の場所に於てある」とされていますね。内在的対象も真の無の場所に於てある(と考えられた)ものですね。
ですからこの「内在的対象」も「生命に充ちたもの」と考えた方がよいと思います。
なるほど、面白いですね。「内在的対象」は我々が日常的に対象と言っているものとは異なりますね。日常的に我々は対象が外にあると思っていますから。その意味でこの「内在的対象」は「内部知覚」(76頁)に通じると思います。「内部知覚」は「直接経験」でした(同)。
この「内在的対象」つまり「真の無の場所に固定せられた一般概念」は経験に先立って、経験を可能にするという意味で「先験的(超越論的)」と言ってよろしいでしょうか?
なるほど。我々の判断は真の無の場所から遊離せられた抽象的概念によって構成されていますが、そうした判断が破れた所(意志の立場)では、そうした判断も真の無からは遊離していない一般概念によって構成されている、気づいてみればもともとそうだった、ということはいえるかもしれませんね。
「遊離せられた」というのと「固定せられた」が対になっていますね。「固定せられた」ということは「直に真の無の場所に於てある」ということだと読み取れますが、「直に」とはどういうことでしょうか?
難しいですね。
直接経験という意味ではないでしょうか。つまり思惟や反省以前ということです。
テキストの「と考えられる時」以前ということですね。面白いです。次の「作用は必ず内在的対象を含まねばならぬと考えられるが」とありますが、これは誰の「考え」でしょうか。次に「却って内在的対象に於て作用があるのである」とあり、こちらが西田の主張であることは明らかですから、この「考え」は西田のものではありませんね。これはたぶん初期フッサールでしょう。彼は、意識は何ものかについての意識であるとして、志向作用が志向対象を含む(作用のうちに対象が内在している)と考えていましたから。西田はそうではなく、「内在的対象として限定せられた場所によって作用が見られる」と考えます。この場所は「対立的無の場所」ですね。次を読みましょう。Fさん、お願いします。
読む(267,10-268,3)
ここも難しいですね。これまでさんざん知覚作用と言ってきたのに、ここでは知覚は作用でないと言っている。対立を含んでいないからだと言う。でも後になるとやはり対立を含んでいると言っている。困りますね。どう読んだらよいのか。
「真の無の場所は有と無とが重り合った場所」とは「有が無に於てある」ということですか?
「有が直に真の無に於てある」ということですね。そうだと思います。その場所は矛盾の場所ですね。有が同時に(直に=直接に)無であるということですから。この有と無の矛盾が根本にあるから、「作用の対象は何處までも対立的でなければならぬ」と言っています。
「作用」とは何のことでしょうか?
これまでの所からすれば、知覚作用と判断作用でしょう。
次に出てくる「対立的ならざる対象」とはラスクの「超対立的対象」のことでしょうか?
そう考えることもできますね。つまり判断以前、ということです。そうして「対立的ならざる対象を含むと考えられるもの、例えば知覚の如きものは、厳密なる意味で作用ではない、尚一般概念を以て囲まれたる有の場所たるに過ぎない、未だ場所が直に無に於てあるとは云われない」と来ます。これは解釈ですが、この「知覚」は「作用」として意識されない以前の、有の場所としての知覚だと思います。未だ有の場所が、直に真の無の場所に於てあるというように見られていない。有の場所としての知覚が破られていない、そういう段階の知覚です。我々は知覚しながら、それをことさらに知覚だと意識しませんね。このコップが知覚だとは思わない。だって有る(存在している)と思っているから。そういう段階の知覚、知覚がまだ知覚でないが故に真の知覚そのものであるような段階の知覚、そういうものとして考えみたらどうかと思うのです。そうして次に「唯判断作用の如き」と、知覚作用をすっ飛ばしてまず判断作用を扱います。そうした「判断作用の如きに至っては明にかかる対象の対立性が現れる」。判断対象についてはそうで「有る」「無い」の対立が出てきますね。これは根本に真の無の矛盾があるからだ、ということになります。だから次に「判断のすぐ後に意志がある」と言われています。「意志の立場」が「矛盾其者を見る」立場でした(262,8-9)。そうして「判断意識は有が直に無に於てあることによって現れるのである」とあります。これも「判断作用は、対立的無(判断)としての有が、直に真の無の場所に於てある、と考えられることによって現れる(意識される)」と読むべきでしょう。次にアリストテレスの共通感覚が出てきますね。覚えていらっしゃいますか?
はい。少し前に出てきました。
そうですね。257頁です。アリストテレスが『デ・アニマ』で共通感覚について述べている箇所は二つあって、整合的な解釈は難しいのですが、一応ここでは第一の意味として、運動・静止、数、形、大きさといったすべての感覚に共通に見られうるもの、第二の意味として所謂判断以前の「感覚に附着」した「識別」作用を区別しました。第一の意味について言えば、例えば色にも味にも運動・静止、数、形(種類)、大きさ(強さ)があるということです。第二の意味について言えば、赤は赤でないものから区別されており、色でないもの例えば味からも区別されています。ということはこうした個別の感覚に先立って、個別の感覚を超えた感覚があって、それには識別作用が備わっていることになります。これが共通感覚の第二の意味です。目下の箇所で西田はこうした「アリストテレスの共通感覚」を「知覚」、つまり有の場所に位置づけています。それ「を押し進めてカントの意識一般に至るには、有から無への転換がなければならぬ」とありますから、「カントの意識一般」は先ほど出てきた「判断意識」に位置づけられていることになります。判断の意識とは「私は考える(ich denke)」の意識(自覚)のことで、これが超越論的統覚ないし意識一般です。そこに至るためには「有から無への転換」がなければならない、とありますが、これは知覚(とも意識されていない知覚)が判断意識に、つまり有の場所が対立的無の場所に転換しなければならないことを言っていると考えられます。ただしカントの「意識一般」は統覚(統一作用)としては対立的無の場所に映されたものですが、同時にそれを意識するもの(自覚)としては真の無の立場にあると西田は考えており、意識一般は「対立的無より真の無に転ずる門口」(234,6-7)と位置付けられていました。さて、テキストではそこから作用としての知覚が問題になっています。「無論、知覚といえどもそれが意識と考えられる以上、対立を含んで居るであろう」と来ます。この知覚はもう日常の在り方をしていませんね。日常生活に没頭している時にはわざわざ自分の見ているものが知覚だ、などと意識しません。
没頭と一概に言われますが、例えばピアノを弾く時のように、訓練を経たうえで精神集中しているのと、ぼーっと生きているのとは根本的に違うように思います。
どちらも習慣(前者は修練ですが)の問題ですね。これは大変難しい。『善の研究』における「純粋経験」は心理学者が習慣と呼ぶものをも含意していました(『善の研究』同59頁)。中島敦に『名人伝』という短編があります。弓の名手の話ですが、最高の境地がどう見てもぼけ老人なんです。一度読まれてはいかがですか?
面白そうですね。
それで、知覚を「意識」として、つまり知覚作用として考えると、そこには対立が要るんだ、というのです。「対立によって意識は成立するのである」。私が単調な口調で、まったく分からないことをずっとしゃべっていると、眠くなりますね。意識を保てません。そこに対立がないからです。こうした考えも西田は若いころから心理学から学んで持っていました。そうして「意識の野に於て対象が重り合うと考えられるのも、実は之によるのである」と来る。「之」とは「対立」のことですね。「対象が重り合う」というのは、これまでの例で言えば「音」を挙げることができます。一つの音、例えばドならドはそのまえの音がそこに重なっていますし、これから来るであろう次の音も重なっています。またそれがバイオリンの音であればそこに別のチェロの音が重なっている。こうして一つの音にすべてが重なって来る。イパネマ娘もそこに重なるかもしれないし、人によっては全然無関係に思われる高校の廊下も重なるかもしれない(文学読書会のプロトコル参照)。
そうした重なり合いが対立によるというのは面白いですね。
今日はここまでにしましょう。
(第57回)