新カント学派
- 2024年7月13日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」の第2段落(300頁の級下げ部分)「私は対象化せられた心理的意志を判断主観の上に置くのでもなく」から「四」の第1段落301頁8行目「斯くしてこそ構成的思惟としてのカントの純粋統覚の意味は徹底し得ると思ふ」まで講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「コーへンは――(中略)――遂に感覚をも思惟によって要求せられるものとして、オンに対するメー・オンと考へた」(301頁6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「コーエンの考える純粋統覚も西田の自覚もメー・オン(非存在)としてあり、感覚のような直接経験と思惟の結合を認める点で共通しているという理解でよいか」(72字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
「考えたことないし問い」の前半では、コーヘンの純粋統覚と西田の自覚がメー・オンとなっていますが、「キーセンテンス」の方では、「コーヘンは感覚をも…メー・オンと考えた」となっていますね。つまり感覚がメー・オンではないでしょうか?
純粋統覚が思惟ですか?
「ich denke(私は考える)」が純粋統覚ですから、思惟です。
そうすると純粋統覚と自覚がオン(存在)の側に来て、感覚がメー・オン(非存在)の側に来る、ということですね。
だと思います。後半はその通りだと思いますが、感覚を直接経験としたところは面白いですね。今回読むテキストによれば、新カント学派のリッケルトは直接経験を直接に与えられたものと考えているようです(14巻48,9)。「考えたことないし問い」の質問は、この理解でよいか、ということでしたが、前半を修正すれば、つまり「コーエンの考える純粋統覚も西田の考える自覚もオン(存在)としてあり、感覚のような直接経験(メー・オン)と思惟(オン)との結合を認める点で共通しているという理解でよいか」というようにすれば、「よい」ということになると思います。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。今回よりしばらく旧全集第14巻所収の「現代に於ける理想主義の哲学」という題で大正五年の秋に京大学生課主催で行われた一般学生向けの特別講義を、山内得立が筆記したもののうち、第五講「新カント学派」を数回に分けてエクスクルスとして読みたいと思います。第4巻の「左右田博士に答う」の読解の基礎となると思われるからです。これは大変読みやすいものですから、読書会だよりでは特にご紹介はしません。今回は第14巻48頁から52頁15行目まで講読しました。プロトコルはKさんです。よろしくお願いします。
(第82回)