自由な意志と悪の問題
- 2023年4月1日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 265頁3行目「限定せられた有の意義を脱しない」から同11行目「考えられねばならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーセンテンスは末尾の「ドゥンス・スコートゥスの如く意志は善の知識にも束縛せられない、至善に対しても意志は尚自由を有すると考へられねばならぬ」で、キーワードは「至善に対しても意志は尚自由を有する」でした。そうして「考えたことないし問い」は「231頁15行に「此世界(=真の無の場所)に於ては広義に於ける善のみ実在である」とあります。また、232頁5行に「絶対的無の場所に於て真の自由意志を見ることができる」とあり、これは「状態としての自由」と読みました。「善のみ実在」であるような善=至善も自由意志も真の無の場所にあり、それなら善=自由意志のはずです。しかしキーワードは善=自由意志とは限らないことを意味します。これが「矛盾」なのしょうか?(195字)」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
とても本質的な問いですので、今回のプロトコルは時間を十分に取りたいと思います。まず問いはどうでしょうか?以前の箇所を含んでいますので、少し整理しておきましょう。「場所」論文の「二」の終わりの方で「此世界に於ては広義に於ける善のみ実在である」とされ、そこにおいて「真の自由意志のみ見ることができる」されていました。この「自由意志」は「状態としての自由」でした。これに対し今回読んだ箇所では「至善に対しても意志は尚自由を有する」とあります。この意志は神の意志をも含意し得る、ということでしたね。つまり神は悪をも意志し得るということです。「真の無の場所」は「意志の立場」であり、「矛盾」を見る立場でした。つまりそこでは善が悪であり、悪が善である、ということになります。Tさんが「これが「矛盾」なのでしょうか?」とおっしゃるとき、このようなことを念頭に置かれているのではないでしょうか?実はこの問題、西田が若いころから抱えていた問題です。『倫理学草案第二』というと、『善の研究』のもととなる講義の前年度の講義ですが、その「宗教論」の末尾に、一方で「世に絶対悪あることなし。吾人の悪とは小善である」(16.266,4)とありながら、他方で「神性の悪(自ら欺く)」ということを言っています。『倫理学草案第二』ではこのまま「Erbsünde原罪」の語を残して中断しています。『善の研究』でも一方で「アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪という者はない」(岩波文庫改版217頁)とされながら、他方で「神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ。」(同254頁)とされています。目下講読中の『働くものから見るものへ』の「場所」では「此世界に於ては広義に於ける善のみ実在」(231,15-232,1)と「至善に対しても意志は尚自由を有する(265,10)の対立でしたから、同じ問題が繰り返されていることが分かります(私見による見通しを述べるならば、この矛盾は最晩年の「宗教論」における「平常底(平常無事、日日是好日)」と「逆対応」との関係になると思います)。Tさん、これでよろしいでしょうか。
はい。
それでは、自由にご発言ください。ただ、こうした言葉をどこまでも体験の言葉として考えるようにしてください。
『倫理学草案第二』では「宗教的の人間のみ真の悪に陥るのである」が重要だと思います。
どういう意味ですか?
宗教的苦悩を抱えた人間のみが自分の悪に目覚める、ということです。
さらにお伺いしなければなりませんね。人間は「自分が悪である」と言っても、そこにはそのように「言う」自分が残っていて、そうした自分はつねに善です。自分を出発点に立てる以上そうなります。「自分が間違っていた」という場合も、そのように「言う」自分は正しい。「自分の力ではどうにもならない」もそうです。「どうにもならない」というところで「どうにかしようとしている」、解決を求めている、それで「善い」と思っていることになります。どこまでも自分の思い(一般概念)を出ることができない。
でも「あ~」という時はあります。
だから、それがどういう時かお尋ねしたいのです。
やはり「自分が悪である」という言葉を体験の言葉として考えるべきだと思います。どういう時に「自分が悪かった」と思ったのか。
それでは例を挙げます。私には年老いた親が遠方にいます。だけど私は山口で暮らしたい。一緒に暮らしても決して良いことにならないことはわかっています。だけれど親の悲しみを知った時、とんでもなく悪いことをしていると思う瞬間があります。これが真の悪の認識かも知れません。だけど、そうだからと言ってもどうしようもない。
「親の悲しみを知った時」という瞬間が決定的に重要ですね。この瞬間に一般概念が破れ、真の無の場所が開けた。そこでこれまではそれ以外にないと思っていたのとは違う選択もあり得るという自由意志の境域が開ける、とも言えますね。人間は自分が善だと思っていることしかできないけれども、実はそのつど自由意志による決断を迫られている、そういうことに気付く、ということになると思います。そうするとそこに善を意志する(人格の要求に従う、でも真の自己を知る、でもよいのですが)ということが問題になって来る。一般概念が破れ、それが真の無の場所に映されたが故に、そこに作用としての意志が意識されるのですが、その時にはすでに「対立的無の場所」に映されたものになり、善という目的を意志する立場に立つ(私見によれば、これが『善の研究』の第3編の立場です)、ということになるのだと思います。これについてはこれから読み進めていく中でも出てくると思います。
私の体験としては3つあります。一つ目。わがままで自分の好きなことをさせてもらっているのに、親に「頑張っているね」と言われると、苦しいこと。二つ目。授業でつまらなさそうにしている子がいる時、あるいは自分でいい授業だったと思っても、他の先生に別の可能性を指摘された時、子どもに「悪いことをしたなあ」と思うこと。三つ目。早朝にゴミ拾いをしている人がいて、何故と聞いたら、徳を積むためだと言われて、気持ち悪かった。人間は善の上に立つことができるのか、と思ったこと、この三つです。
『善の研究』に「悪は実在体系の矛盾衝突より起るのである。而してこの衝突なる者は何から起るかといえば、こは実在の分化作用に基づくもので実在発展の一要件である、実在は矛盾衝突に由りて発展するのである」(256頁)とあります。だからそうした悪の経験も次の発展につながるのだと思います。
HさんとOさん、そのように悪を発展のための一要件に回収してしまってもよいですか?
私はその「実在の分化発展」つまり、「神の分裂」に関心があります。これは「神が自ら欺くこと」だと思います。人間の苦悩はそれを真に理解する者によってしか救われません。だとすれば、神が分裂するということは、神が原罪を負った人間にまで下りてくること、神が原罪をも含めて人間(イエス)となることでなければならないと思います。そうでなければ人間の苦悩を真に理解することはできないと思います。
神が原罪を負っているというのは西田の言葉ですか?
いえ。でもそうでなければならないと思うんです。
東方教父のマクシモス(580頃―662)は、神が「罪のみは除いて」人間として誕生した、と言っているようです(谷隆一郎『証聖者マクシモスの哲学』(190-191頁)。この辺り、やはり使徒の経験に遡って考える必要がありそうですね。神(実在)の分裂、あるいは神性の悪の問題、さらにはそれと「善のみ実在」というのも体験の言葉だと思いますが、それらがどのように関わっているのか、これは大きな問題だと思いますので、今後も引き続き考えていきたいと思います。それではテキストに移りましょう。今日は第三段落の最後まで読みたいと思います。それではDさん、お願いします。
読む(265頁11行目から14行目まで)
「思惟の矛盾は思惟としてはその根柢に達する」とあって、ヘーゲル哲学はこの思惟の根柢以上のものは見ることができないとされていますね。この「思惟の根柢」というのはヘーゲル哲学では「絶対者」「絶対知」「絶対理念」「絶対精神」と呼ばれるものです。どれも同じものを指しており、思惟の体系(円環)がそこから始まり、そこへと終っていく思惟の根柢です。三つの円環があり、「意識(主客対立)」のエレメントにおいて展開されると「精神現象学」となり、その最終章が「絶対知」です。「思惟(主客同一)」のエレメントに展開されるとまず、「論理学」となり、その最終章が「絶対理念」です。「論理学」は創造以前の神の叙述ともイメージされます。ついで「自然哲学・精神哲学」の円環が来て、その最終章が「絶対精神」です。
そうすると、西田からすればヘーゲル哲学は限定せられた有の場所の立場、ということになり、その根柢の「矛盾を見るもの、矛盾を映すもの」を西田は論じている、ということになるのですか?
西田からすればヘーゲルはそれを論じていない、ということになるのでしょうね。たしかに『精神現象学』の最終章である「絶対知」にしても、『大論理学』の最終章である『絶対理念』にしても、そのものについての叙述はありません。ですが学以前とか学以後を敢えて語らないという学(言葉の領域)の立場を弁えた態度にもそれなりの意味はあると思います。次に「ヘーゲルの理念がその自己自身の外に出て自然に移らねばならないのは之に由るのである」とありますね。「理念」とは先程述べた「論理学」の最後の「絶対理念」のことです。そこから「決心(Entschluß =Schluß(推理連結)を断つ(ent)こと)」によって自然の創造がなされて「自然哲学」に移行するのです。西田が「之に由る」という時の「之」とは「矛盾を見るもの、矛盾を映すもの」があることによる、それがなければ移行が成り立たないということです。次に行きましょう。お願いします。
読む(266頁5行目まで)
時間がないので、一つずつ見ていきましょう。「右の如く」とあるのは264頁13行目の「場所と場所とが無限に重り合って居るのである、限なく円が円に於てあるのである」を指していると考えられます。そうして「真の無の場所から之においてある有の場所が見られた時、意志作用が成立する」とありますね。我々は通常「一般概念」の中で判断し、行為しています。そうした「一般概念」が破れる時、ここには断絶と飛躍があるのですが、真の無の場所が開けます。そうすると、一般概念以外の可能性が開け、ここに(自由)意志の立場が開けます。ですがそれが「意志作用」として意識された時にはすでに「対立的無の場所」に映されたものになっています。このことは次を読むことで明らかになると思います。こうして「一般概念とは無の場所に於て限定せられた有の場所の境界線と考えることができる」わけです。意志が限定している、ということが顕わになったのです。「平面に於ける円の点」、円周上の点のことでしょうね。それが「円の内部に属すると見ることができると共に、外部に属すると見ることができる」、これはイメージしやすいですね。それと同じように「(同じ)一つものが感覚に即して限定せられた有の場所と見られる」、これは、感覚的にあると限定されることで、我々の日常的な在り方です。それが何らかの飛躍によって、無の場所が開ける。そうすると限定せられた有の場所は「無の場所に即して一般概念と考えられる」ことになります。この「限定せられた場所が無の場所に於て遊離せられて所謂抽象的一般概念となる」とありますが、この「抽象的一般概念」ということで念頭に置かれているのは範疇(カテゴリー)のことでしょう。我々は通常、一般概念によって構成された世界に生きていますが、そこからの反省によって判断を行います。その場合一般概念は(「無の場所に於て」)一般概念がそこにおいてあった世界(有の場所)から抽象されて、抽象的概念となり、判断を構成することになります。こうしたことが実はすべて意志によってなされている。「一般概念の構成作用、所謂抽象作用には意志の立場が加わらねばならぬ」とはそうしたことを言っているのでしょう。そうして判断においては、主客が分かれていますから、一般概念によって構成されていた対象は破壊されることになります。「ここにラスクの云う如き主観の破壊が入って来る」とはそういうことだと思われます。ここで以前紹介した、ラスクについて要約した文章を挙げておきますね。「ラスクは心理学的でもない、形而上学的でもない、論理学的な領域を「妥当領域」と考え、その最も高次で包括的な「領域範疇」を「妥当範疇」と考えていた。この妥当範疇が感性的直観的な質料一般に向かう時「存在範疇」となり、ここに「妥当領域」は限定されて「存在領域」となる。存在範疇はさらに特殊な質料によって「事物性」「因果性」などの「構成的範疇」となり、ここに「(超対立的)対象領域」が成立することになる。さらにそれは「主観性」を質料とすることによって「同一性」などの「反省的範疇」や「判断形式」などが成立する、とされる。構成的範疇によって「(超対立的)対象領域」が、反省的範疇によって「判断領域」が成立し、前者が「原像」、後者が「影像」であり、前者によって対象は構成され、後者によって対象は破壊されると考えられた(以上、石原悠子「西田幾多郎とエミール・ラスク」(西田哲学会年報11号、76-92頁、2014)参照)」。今日はここまでとしておきましょう。
(第55回)