「真の○○」の「真」とは何か
- 2020年4月11日
- 読書会だより
第31回読書会だより
今『働くものから見るものへ』所収の「内部知覚について」を読んでいます。今日は旧全集版で131頁6行目から132頁13行目まで読みましたね。この部分のプロトコル(議事録)は私の方で作成しておきます。アップは4月18日です。また最初のオン・ラインでの読書会で扱う範囲を、一部重なりますが131頁6行目から133頁8行目までとしますので、皆さんはその部分をお読みください。私もその間にその個所の解釈案をプロトコルと合わせて18日までにアップします。合わせてテキスト読解のための「哲学的問い」も掲載します。皆さんはその解釈案をお読みになり、まあ、ちょっとした感想を、「佐野、ここが分からんぞ」とか、好きなことを佐野までメールしていただければよいわけです。そうしていただくとありがたい。質問でもいいです。さらに「哲学的問い」をお考えになって、メールしていただければさらにありがたい。そうしたやり取りを編集して25日までにはこの「読書会だより」で皆さんに紹介したいと思います。それと同時に次回扱うテキストの箇所を提示します。皆さんはその個所をお読みになり、私は解釈案を作成します。5月2日までにはその解釈案と哲学的問いをアップします。これの繰り返しです。ご理解いただけましたか?それではテキストに入ります。
本日の哲学的問は「「真の」という表現はよく見かけるが、この「真」とは何か」です。
それでは早速始めましょう。
宮沢賢治の「本当の、本当の」というのと同じだと思います。
それでは何も分かりませんよ。西田の文脈ではどうなるでしょうか。
テキストに「真の認識主観」とありますね。対象化しない仕方で認識するということですね。物自体と対象化された物の違いというか。
どういうことですか。
物自体は見ることができない。真の「物」です。「純粋」というのもそうです。表現不可能です。主観のフィルターを通していない。座禅で見えてくる真の自分のようなものです。絶対とも言いますが、それは相対を超えた、比較を超えた絶対です。
私もそう思います。「真の」とは言葉にできないものです。西田の文脈では「現在」です。
そうですね。西田の文脈では「真の」とは主客を超えたもの、直観というようなものを想定していると思います。
普通の会話でも「真の」という言葉を使いますが、その場合、誰が見てもそうだ、という意味で使っていると思いますが、これが人によって違っている。これを超えた「真の」ってあるんだろうか。どうも軽々しく使われているような気がします。
変わらないもの、人によって違わないものってあります。ね。
ね、といわれても・・・
答えを出しちゃダメなんです。救われてもダメ。分からないというように答えを出してもダメ。それが「真の」です。
堀辰雄も最後は宗教から離れた。遠藤周作はキリスト教信者だったけれど葛藤し続けた。だぶだぶの服を着てみて自分に合わないことを悩み続けた、宗教が問いを与えるということもあるんです。
西田の場合「宗教」と言ってもキリスト教とかいうような一定の宗教ではないですね。
はい。だんだん面白くなってきましたが、今日はこの辺りにしておきましょう。ここで次回からのこの読書会の在り方を説明しておきます。新型コロナウィルスの影響で、この読書会も皆さんにお集まりいただき、この空間を共有する仕方での開催はしばらくお休みということにしたいと思います。ですが哲学を通じてのつながりは休止することなく続けたいと思います。この空間をオン・ラインでの空間に移します。
(第31回)