矛盾的統一から具体的一般へ
- 2025年10月11日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落336頁2行目「勿論一般が特殊を含み特殊が一般に於てある」から337頁6行目「具体的一般に転ずるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる。是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」(337頁5~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「包摂的関係」とは、「一般が特殊を含む」ような「抽象的一般」である。この「特殊化の方向」に「主語と述語との関係を結びつけて考えるなら」、その「先端」において「一般と特殊」が「特殊と一般」との関係に「転換し得る」とともに、 両者の立場は「同等」にして「種差を含む」という「矛盾的統一」となる。その上で、「主語的なるものが却って一般的として述語的なるものを包む」。即ち、《特殊がむしろ一般を包み込む》ところの「具体的一般に転ずる」と解してよいか」(219字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
論理的にとても明晰に整理されていますね。こうした整理はかなり読み込まないと出て来ないと思います。抽象的一般(一般・述語>特殊・主語)―矛盾的統一(一般・述語=特殊・主語)―具体的一般(特殊・主語>一般・述語)という3項から成る推理式で、「矛盾的統一」が媒介項となっていますね。皆さん、何か質問がありますか?
Y
その場合、転換を成しうる理由は何ですか?
N
同じであって違うといった矛盾、即非の論理と言ってもよいが、説明できない論理です。
Y
私は転換の論理はまさに「AはAである」という「同一律」だと思います。それによって一般と特殊、述語と主語が転換しうるのですから。
N
いや、A(主語)とA(述語)は違うとも言っている。異なるのに同一だと言っている。これは矛盾で、これを論拠にするのは不完全な論理と言わざるを得ない。
R
抽象的な論理で統一できる矛盾は真の矛盾ではないと思います。ここでは真の矛盾を捉える東洋的な論理が問題になっていると思います。
S
我々が包摂的関係という抽象的な論理でしか考えられない以上、その論理を個物にまで突き詰めていけば、「これはこれだ」としか言えなくなる。これは抽象的な論理からすれば矛盾で、具体的一般への移行は避けられないのでは。ここで問題なのは、このことで西田が何を言おうとしているのか、指示しているものはなにか、といった「効果」だと思います。
そのためには、抽象的論理にせよ、即非の論理にせよ、そういった論理を予め携えて事柄に当たるのではなく、まずは「転換」という事実そのものに目を向けることが肝要だと思います。我々は通常、〈富士山は山である〉、というような抽象的な判断(包摂的関係)の中で考えています。もう一段階一般的にすると、〈山は地形である〉、という判断が考えられます。その場合、地形が一般で山は特殊になります。地形は山や平地などの特殊(種差)を可能性として矛盾的に含んでいますが、このうち山を取ると、今度は山を一般とした判断が成立することになります。たとえば〈富士山は山である〉がそれです。この場合、富士山は個物ですが、この判断自体は包摂判断です。西田はここをもう一歩先に進めようとします。それが「主語となって述語とならない」です。それによって個物の領域に超越すると言うのです。こうなると〈富士山は〇〇である〉とはもう言えない。どれほど言っても言い尽くせない個物としての〈富士山〉が立ち現れる絶句の瞬間です。その時の我々の言葉が〈富士山は富士山だ〉ということになります。しかしこの言葉はそれだけ取り出せば、何も言っていない。同語反復です。絶句の時の言葉とはこうした無意味な言葉でしかありえない(美しさの原因を美しさそのものに求めて「美しさによって美しいのだ(美しいから美しいのだ)と愚直にも述べたイデア論にも通じるものがあると思います)。しかしそれは個物としての〈富士山〉が立ち現れた感動の言葉です。そこで何が起こっているのか、西田はそこを考えようとしているのだと思います。ここまで、いかがですか?
N
続けてください。
富士山が〈富士山〉として立ち現れるのは、世界(全体)とともに立ち現れる時です。抽象的な判断が破れて、抽象的な思考の言葉が黙る時、特殊(個)と一般の抽象的な対立も、特殊(個)と他の特殊(個)の抽象的な対立もありませんから、〈富士山〉はそうしたすべてのものとともに、それらと同一でありながら、同時にそれらの否定として立ち現れていることになります。〈即非の論理〉を用いて言えば、〈富士山は富士山でない(富士山でないすべてのものと同一である)、それ故に富士山である〉となります。こうした論理は事実的な経験に基づいたもので、外から当てはめるような論理ではありません。富士山が他のすべてのものに支えられながら、それらの否定として現成している、ということの表現としては、「述語的なものが主語となる」ということになるのでしょう。
N
それは一般者が主語となり、それが自己限定するという意味ですか?そうなると後の〈永遠の今の自己限定〉にも通じそうですね。
そうですね。一般者の自己限定です。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(337頁7行目~338頁9行目)
また「変ずるもの」が出て来ましたね。334頁1行目で「変ずるものの根柢にある変ぜざるものとは此の如き一般者でなければならぬ」とあったのに、「例えば」と来て、急に「個色」が話題になったように、ここでもずっと「個色」を例とする非質料的(非実体的)な個物が問題になっていたのに、突然「変ずるもの」と「その背後に横たわる一般的なるもの」に話題が移っています。「変ずるもの」と「個色」は事柄としては一応別物ですが、西田においては切り離せないもののようです。ここからは解釈になりますが、「個色」のような、非質料的(非実体的)な個物は徹底した変化(生成消滅・流転)の中でしか立ち上がらないからでしょう。
B
〈富士山〉が四季を通じていろいろな姿を見せることで、〈富士山は富士山だ〉、ということでしょうか?
いえ。それでは〈富士山〉という「物」をもち込んでいます。「物」という質料的・実体的なものを「変ぜざるもの」として、その上で変化を考えています。西田はこうした質料的なものを持ち込んでは、真に変ずるものも、真の個というものも成立しないと言おうとしていると思います。〈BさんがBさんである〉ということは、〈Bさん〉そのものが生成消滅する、つまり死ぬということを含んで初めて言えることだと思います。〈Bさん〉が永遠に死なないとしたら、他のものに替えることのできない〈Bさん〉は立ち上がらないでしょう。テキストに戻ります。「変ずるものの背後に横たわる一般的なるもの」とは前段落末にありますように、「具体的一般」です。それが「単なる包摂的関係に於て考えられる一般者」、つまりこれも前段落末の表現を用いれば「抽象的一般」ですが、そうした一般者と「如何なる関係に於て立つかを瞥見し得る」とありますね。どういう関係だと瞥見しますか?
B
「転ずる」という関係でしょうか?
そうですね。そう書いてあります。「最後の種それ自身の矛盾的統一によって抽象的一般から転じて具体的一般に入る時」とあります。
B
「最後の種それ自身の矛盾的統一によって」というのがよく分かりません。
〈富士山は山である〉は包摂判断ですね。〈富士山〉は個(特殊)で、〈山〉が一般です。この〈山〉がこの場合「最後の種」になります。〈山〉は〈富士山〉も〈富士山でない山〉も同時に可能性として含んでいますが、これが「最後の種それ自身の矛盾的統一」です。〈5は数である〉という包摂判断の場合には、〈5〉(特殊)がそのまま〈数〉(一般)であることが言われていて、ここに矛盾があるのですが、〈5〉は個物ではありません。〈5〉は〈5〉であって、〈この5〉ということがないからです。したがって矛盾は一般概念内の矛盾です。この矛盾は〈5〉がすべての他の数と同一でありながら、それらの否定として成り立っている、というところにあります。この場合は〈数〉が「最後の種」になっています。ここまではいかがですか?
B
大丈夫です。
ところが〈富士山は山である〉という経験的な包摂判断になると事情が異なってきます。〈富士山〉は個物です。〈山〉は一般概念ですから、両者の間に間隙があります。我々はそこに質料というものを持ち込んで、これを個体化の原理とし、この判断に何の矛盾もないように考えます。〈山〉という一般概念(形相)と質料とが一緒になって、個々の山、例えば〈富士山〉が成り立つと考えるのです。しかしこの捉え方は個を個として捉えてはいません。個を一般の方から一般的に捉えているにすぎません。その場合は個も一般概念です。「このもの」といってもどれもみな「このもの」ということになります。こうした抽象的な包摂判断である〈富士山は山である〉を破るのが、「主語となって述語とならない」個物としての〈富士山〉に触れる時です。その時には如何なる述語も成り立たちません。そこで我々は〈富士山は富士山だ〉と、無意味な叫びを発するのですが、そうした叫びのうちに、じつは他のすべての山との同一と同時にそれらの否定として他ならぬ〈富士山〉が立ち現れている、というのはすでに述べた通りです。これはすでに「具体的一般」の領域の話ですが、じつは〈山〉という経験的な一般概念においても、すでに〈富士山〉であることと、〈富士山でない他のすべての山〉という種差が矛盾的に統一されている、と考えるのです。これがテキストでいう所の「最後の種の矛盾的統一」です。「山」という抽象的一般がすでにそうした矛盾を含んでおり、そうしたもともとあるのに気がつかなかった矛盾によって具体的一般へと転じる、そのように言っていると思います。
B
ありがとうございます。さらに考えて見たいと思います。
テキストに戻ります。「最後の種それ自身の矛盾的統一によって抽象的一般から転じて具体的一般に入る時、かかる一般者の最後の種に当るもの、すなわち最初の具体的というべきものが主語となって述語となることなき個物である」とありますが、読みにくいですね。まず「かかる一般者」とはどの一般者ですか?
C
迷いますが文脈からすれば「抽象的一般」だと思います。
そうですね。そうすると抽象的一般の最後の種に当るものが、「即ち最初の具体的なもの、であり「個物」だと言っていることになりますが、これはどういうことですか?抽象的一般の最後の種がそのまま個物だということですか?
C
いえ、「当るもの」といっていますから、「そのまま」ではなく、それに相当するものという意味だと思います。
なるほど。あくまでアナロジーだということですね。抽象的一般の最後の種にすでに矛盾的統一があったが、それはまだ隠れていた。それが最初の具体的なもの、これは具体的一般ですね。そういう仕方で矛盾的統一が顕わになる。そうしてこれが「主語となって述語となることなき個物」だと。ここも難しいですね。
C
具体的一般の自己限定が個物として立ち現れているということではないでしょうか。
面白いと思います。次を読んで見ましょう。「之より主語と述語とは転換する」とありますね。「之」とは「抽象的一般から転じて具体的一般に入る時」の「時」のことでしょう。そこでは「主語と述語とは転換」し、「包摂的関係は逆になる」、「述語的なるものが主語となる」とあります。どういうことか。さらに次を読んで見ましょう。「斯く包摂的関係を逆にして一般的なるものが主語となる時、かかる一般的なるものが限定し得らるるかぎり、個物は連続的統一となる。連続的なるものも個物である、単に自己同一というより尚一層個物的と考えることもできるが、連続的統一とは内に無限なる特殊化を含んだ一般者でなければならぬ、無限なる包摂的関係をその一般的根元に還って見た時、連続的なるものが考えられるのである」と一気に述べられます。
D
全然イメージできませんが。
少し前に(357,1)同じ脈絡で「概念の外延」というのがありましたが、それが参考になるかもしれません。〈犬は動物である〉というのは通常の包摂判断ですが、この主語と述語をひっくり返すと、〈動物は犬である〉となりますが、動物は犬だけではありませんから、〈動物は、犬であり、猫であり、猿であり…〉となります。これを個物のレヴェルで考えるのです。〈山は富士山であり、愛鷹山であり、箱根山であり、…〉となりますが、この場合の「山」が個物を含む「具体的一般」です。〈富士山は山である〉というような包摂判断や〈富士山は富士山である〉といった抽象的な同一判断を破るような体験をした時、西田はまず全体が立ち現れると考えているようです。これが「具体的一般」であり、「連続的統一」ないし「矛盾的統一」です。これが「単に自己同一というより尚一層個物的と考えることもできる」とありますが、当たり前のように(単に)〈富士山は富士山である〉と言っているより、「一層個物的」な〈富士山〉が立ち現れている、という意味でしょう。さらにこれは「内に無限なる特殊化を含んだ一般者」とありますから、〈山は富士山であり、愛鷹山であり、箱根山であり、…〉といった「山」に限ったことではなく、その中には川や海や空も含んでいることになります。要するに端的な全体です。抽象的な包摂判断や同一判断が破れた時、まず立ち上がるのはそうした全体です。無にして全体。絶句の瞬間ですね。それをあえて言葉にすれば〈富士山は山ならず〉、〈富士山は(当たり前のように考えられてきた)富士山にあらず〉ということになるでしょう。そうして今度はこの具体的一般が主語となって、個物が述語となります。個物が全体を含んで(他のすべてのものに支えられながら、それらを否定する形で)立ち現れます。その時の言葉が〈富士山は富士山である〉という根源的な同一判断です。これは〈山は山ならず、それ故に山である〉といった即非の論理ですね。西田はこうした矛盾した論理が、こうした個物の領域における根源的な経験のみならず、我々の抽象的な包摂判断や同一判断(同一律)の根本にもあると考えているようです。
E
これを本当に理解して自分の言葉で語るのは相当難しいと思います。
それが読者の目指すべきところだと思います。同時にどこまで行っても十分に表現できない、というところがあり、その点は西田も同じだろうと思います。次へ参りましょう。もう一度Fさん、次の一文を読んでみて下さい。
F
「併しかかる還源的方向を何處までも進めて行って、主語となって述語とならないものと反対に、述語となって主語とならないという意味に於て包摂的関係を超越した述語面に撞着した時、かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」。
ありがとうございます。「主語となって述語とならないもの」はさしあたり「個物」ですね。それに対し、「述語となって主語とならないもの」は「包摂的関係を超越した述語面」とも呼ばれていますが、これは絶対無ないし真の無の場所ですね。さしあたりそのように言える。しかしそうした個物、絶対無の場所に「撞着」すると、主述の転換が起る、というのがこれまで言われてきたことです。そこにおいて真の個に出会う、そういう脈絡でした。ところがここでは「かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」とあります。「かかる場所」とは?
F
「包摂的関係を超越した述語面」です。
そうですね。ここで見られるものは個物ではなく、「変ずるもの」です。「撞着した時」とありますから、まだ主述の転換が起る以前、真の個物が立ち上がる以前ということになるのかもしれません。あるいはさらに「内に無限なる特殊化を含んだ一般者」としての具体的一般(これが「全体」です)が立ち上がる以前の「無」としての具体的一般、即ち「絶対無の場所」における話ということになるのかもしれません。次に「如何にしても積極的に限定することのできない唯否定的にのみ限定し得る具体的一般者」とあり、これは絶対無の場所だと考えられますから、そうも考えられますが、このように具体的一般を「全体」と「無」とに分けて考えるべきではないでしょう。無即全体、全体即無、具体的一般はそのように考えるべきでしょうね。そうすると真の個がそこにおいて成り立つ具体的一般において、同時に「変ずるもの」が見られると言われていることになります。
G
「如何にしても積極的に限定することのできない唯否定的にのみ限定し得る具体的一般者」をそのように無即全体、全体即無の具体的一般者と考えるにしても、その「種」とはどういうことでしょうか?
「種」とは「類」に対するもので、「一般」に対する「特殊」のことでしょう。ここでは個と同義です。だとすれば、「具体的一般者の種」とは「具体的一般者に於てあるもの」と同義と見てよいと思います。
G
ありがとうございます。無と全(一切)と一の三つが相即する感じですね。
H
先ほどのお話ですが、真の個が見られることと、変ずるものが見られることとは別のことではないでしょうか?
事柄としては別ですが、事柄として両者は切り離せない、というのが西田の主張ではないでしょうか。事実、真の個は徹底した変化、生成消滅、流転の中でのみ立ち現れるものだと言えます。逆に真に変ずるものが見られるのは、質料を含め、抽象的な一般、「個色」で言えば、質料的・物的実体や、色一般といった抽象的な一般をさしはさまずに、真の個を問題にする時のみだ、そのように西田は考えているようです。「変ずるものはその反対に変じて行き、相反するものの根柢には両者を包む一般者がなければならぬと考えられるが」、これは西田の主張でもありますね。「かかる一般者が抽象的であって中間的なものを容れる間は変ずるものは成立しない」とあります。「中間的なもの」とは直接的には「質料」のことだと考えられます。
I
どういうことですか?
これまでも何度か西田は質料のことを「中間的なもの」と呼んでいますが、例えばヘルメスとアテナは形相で、大理石は質料で、大理石はヘルメスでもアテナでもない「中間的なもの」という意味です。
I
分かりました。
ここでは「抽象的」な「一般者」として「中間的なものを容れる」場合だけを考えていますが、例えば「この色」に対する「色」一般のような抽象的一般者を考えても、そこから変ずるものは説明できませんから、そうした抽象的一般者も入れて考えた方がよいと思います。西田は変ずるものの根柢にある「一般者」を、そうした「物(質料)」とか「抽象的一般者」ではなく、「具体的一般者」ないし「場所」だと考えようとします。「それ(一般者)に於て反対は同時に矛盾でなければならぬ」。物における「相異」(色と形など)ではなく、物や抽象的一般(色一般など)における、「時」を入れた「対立」における変化ではなく、そうした「物」や「抽象的一般」を取り払った変化の刹那の「矛盾」を考えようとします。それはまさに有即無、生即死の矛盾です。「それは質料なき形相でなければならぬ、矛盾を含む一般者でなければならない、矛盾的統一の背後に考えられた一般者でなければならぬ。無質料として有と無とが一つの概念となる時、矛盾の統一として変ずるものとなるのである」と述べられます。「背後」とありますが、これは矛盾を統一する何らかの実体としての一般者という意味ではないでしょう。それではまたしても質料的な物を容れることになってしまうでしょうから。矛盾的統一そのものとしての一般者という意味だと思います。
J
形相が変ずるものだということですか?
形相自体は変ずるものではないのですが、それらが相互に矛盾するために変ずるものとなる、ということだと思いますが、ここにはどうしても「時」という概念が入って来なければならないと思います。それについては「三」で考察されます。今日はここまでとしましょう。
(第106回)

