市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 8(最終回)

第7段落

最後の段落です。ここでは知識および意志の根柢における知的直観として宗教的覚悟が扱われています。少しずつ読んでいきましょう。

真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また盲目的感情でもない、知識および意志の根柢に横たわれる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。

第6段落の最後で知と意を超越しつつ、両者の根本となる直覚において知と意の合一が見出されました。宗教的覚悟はこの知と意の根柢に横たわる統一そのものを直覚するということです。しかし偉大な美術家や思想家、道徳家も偉大な宗教家同様、その直覚するところのものは知識および意志の根柢に横たわれる深遠なる統一、深き生命でしょう。

故に如何なる論理の刃もこれに向うことはできず、如何なる欲求もこれを動かすことはできぬ、すべての真理及び満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、すべての宗教の本にはこの根本的直覚がならぬと思う。

どんな宗教でもこうした根本的直覚を本にしなければならない、これも頷ける話です。しかし最後の一文はどうでしょうか。

学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれによりて成立するのである。

この一文はどうにも不可解です。これまではずっと学問、美術、道徳、宗教は同列に扱われてきました。偉大な学者、美術家、道徳家、宗教家も皆同列に知的直観の極致の位置づけを与えられてきました。しかるにここでは学問道徳の根本に宗教が置かれています。しかも美術が抜けています。美術の根本に宗教は不要なのでしょうか。ここにも大きな問いがあります。

おわりに

以上で「知的直観」の章を一応読み終えたことにします。分からない部分が幾分分かりやすくなったというのであれば私にとって大きな喜びです。しかし同時に分からない部分が正反対の意味で分かってきた、つまりこの章が深くて難しい問いを抱えているということが一層明らかになったとすれば、これは上の喜びに増してこの上ない喜びです。この問いにどう答えていくか、9月24日の会で皆さんと一緒に哲学しながらじっくり考えたいと思います。その結果はまたご報告したいと思います。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 7

第6段落

ここから第6段落です。ここでは意志の根柢に知的直観があることが示されます。西田は次のように簡潔に述べます。

我々が或ることを意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚によりて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根柢には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。

この箇所は我々の普通の意志について言っているように見えますが、大道徳家の意志の場合にも適用可能な記述になっています。まずは普通の意志の線で考えて見ましょう。

意志が起るためには、意志を起こす力が必要です。これが「動機」とよばれ、意識にとっては「衝動」ないし「欲求」という仕方で現れます。この「衝動」ないし「欲求」はどこまでも説明のできない「直接経験の事実」だとされます(第3編第4章第4段落)。我々はよく〈食べるのは生きるためだ〉と言いますが、西田によればこの〈生きるため〉というのは後から加えた説明であり、我々は食べるために食べるのだと考えます。この食欲は「説明しうべからざる、与えられたる事実」で、性欲も同様です。子供が欲しくて性欲が起こるわけではありません。とはいえ人間の場合は本能(衝動)のままに行動することはありません。必ずそれにピッタリとした言葉(観念)を与えます。言葉にしなければ自分が何をしたいのかも分かりません。「食べたい」も立派な言葉です。この言葉(観念)が上の引用文の「主客合一の状態」すなわち「結果の観念」です。これには必ず「快」の感情が伴います。過去の経験が結び付いているからです。そうしてこの「結果の観念」が「目的観念」となるのです。快が必然的に伴うからと言って快そのものを目的にしているというわけではありません(快楽を唯一の目的と考えるのが快楽主義ですが、西田はこの立場をとりません)。このように我々の欲求は常に言葉(観念)を介したものですから、我々の欲望は常に「観念的欲望」です。つまり「如何なる人も何らかの理想を抱いている」ということになるのです。「守銭奴の利を貪るのも一種の理想より来るのである」、そのように西田は言います。我々の内には様々な観念的欲望が渦巻いているわけですが、これを統制しているのが理性で、これが我々一人ひとりの中では人格として働いている、このように考えるのです。

この「人格」については特に注意が必要です。西田は第3編「善」第10章「人格的善」第6段落で次のように述べます。

ここに所謂人格の力とは単に動植物の生活力という如き自然的物力を指すのではない。また本能という如き無意識の能力を指すのではない。本能作用とは有機作用より起る一種の物力である。人格とはこれに反し意識の統一力である。しかしかくいえばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主観的なる種々の希望の如きものを言うのではない。これ等の希望は幾分かその人の人格を現わすものであろうが、反ってこれらの希望を没し自己を忘れたるところに真の人格は現われるのである。

我々人間に対しても本能は衝動という形で働き、これが意志の原因である動機となる、ということは申し上げました。しかし人間はこれに言語を与え、目的観念とするので観念的欲望を持つということも申し上げました。意識はこの観念的な活動を理性によって制御しつつ統一しなければなりませんが、表面的な意識の場合、この目的観念が希望という形をとり、これが中心となって意識が統一されることになります。そうしてこれが我々の普通のあり方です。西田はこうした自我のあり方を「偽我」と呼びます(第3編第13章第5段落)。そうしてこれ等の「希望」を没し、「偽我」を殺し尽した所に、「真の人格」ないし「真の自己」が現われる、そのように考えます。したがってこの人格は唯一実在としての意識の根本的統一力ということになり、人格は「直ちに宇宙統一力の発現(第3編第10章第6段落)」ということになります。

この統一力は意識には「人格の要求」という形で現れますが、当然それは容易ではありません。「自己の知を尽し情を尽した上において始めて真の人格的要求が現われてくる(第3編第11章第4段落)」と言われます。そうしてここでまたしても画家の例が出てきます。

試みに芸術御作品について見よ。画家の真の人格即ちオリジナリティは如何なる場合に現われるか。画家が意識の上において種々の企図をなしている間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随う所に至って始めてこれを見ることができるのである。(同)

「多年苦心の結果」です。そうしてそれは道徳の場合も同じだというのです。すなわち、

道徳上における人格の発現も之と変わらぬのである。人格を発現するのは一時の情欲に従うのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従うのである。放縦惰弱とは正反対であって反って艱難辛苦の事業である。(同)

ここでも「艱難辛苦の事業」とあります。ここに至って普通の意志は極致にまで発展して大道徳家の境地に至ることになります。

大道徳家の例として『倫理学草案』では文天祥がよく登場します。『善の研究』ではソクラテスが大道徳家の例と見ることができます。第3編「善」第3章は「意志の自由」と題されていますが、そこでソクラテスは「自由の人」として登場します。彼は自分が刑死することを已むを得ぬ必然ということを知りつつ、しかもそのことを自らの根柢たる「理想」が自らを実現する一過程にすぎないと見ていたからこそ自由だ、と西田は考えるのです。芸術家が銅像の内に美を直観するのと同様に、道徳家は自らを死に至らしめるような必然の法則の内に善を直観するのです。芸術家が直観する美も道徳家が直観する善も唯一の実在の統一力としての理想に他なりません。

注意しなければならないのはこれが極致の例だということです。我々の意識には通常このような人格的要求は現われて来ないということが重要です。もちろん我々はそのつど目的観念ないし希望を中心に自らの意識を統一していますが、それは表面的意識ないし偽我による統一にすぎません。我々の意識を根底から統一している人格ないし真の自己の働きは、我々にとってはどこまでも分からないものです。

ところでここにも普通の意志が自らの直観を発展させ、もちろん才能があればの話ですが、大道徳家の直観という極致に至るといった図式を認めることができます。

解説が長くなりました。もう一度問題となっているテキストを引用します。

我々が或ることを意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚によりて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根柢には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。

すでに申しました通り、この箇所は我々の普通の意志と大道徳家の意志の両方をカヴァーするものとなっています。その場合直覚している「主客合一の状態」に雲泥の差があります。普通の意志が直覚しているのはそのつどの「結果の観念」すなわち目的です。これに対し大道徳家の目的とする所は人格ですが、西田は個人のみならず、家族、国家、人類社会にも人格を認めます(第3編第12章)。それらを貫いて唯一実在の統一力が働いているからです。当然のことながらその究極目的はこの「統一力」つまり「主客合一の力を自得する」こと、すなわち「真の自己を知ること」です。ですから人格の要求とは〈真の自己を知れ〉という要求に他なりません。「我々の真の自己は宇宙の本体」ですから、「真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合する」(以上第3編13章第5段落)ことになるのです。大道徳家は真の自己を直覚し、これを目的としているのです。

ですから上の引用文は普通の意志でしたら、例えば〈水を飲もう〉と意志した場合、その意志は〈水を飲む〉ということに局限されているわけです。ところが大道徳家の場合はそうではない。〈毒を飲もう〉という意志が、そのまま「真の自己」が自らを実現せんとする意志になるわけです。普通の意志でしたら〈水を飲み終わった状態〉が「主客合一の状態」で、これに快の感情が伴っている、とこういうことになるのです。普通の意志はこの状態を直覚することで成り立っています。そうしてこの目的観念に対して、コップを取り出す、冷蔵庫のペットボトルを取り出す等の手段を設定しながら、そのつどその運動表象に注意を向けていきます(第1編第3章第2段落参照)。これが「意志の進行」で、それが完成した時が飲み終わって〈あー、うまかった〉となった時で、「意志の実現」の時です。この間、始終〈水を飲み終わった状態〉の直覚が働いて、この進行を導いています。

モーツァルトの例がありましたね。モーツァルトはいわば出来上がった曲の方から作曲している、そんな話でした。これと同じことが普通の意志でも起こっていることになります。私は小学生のころはとても野球、と言ってもソフトボールでしたが、大好きでした。ところが中学の頃、突然ボールが投げられなくなってしまったのです。ボールが指を離れる瞬間、角度などが少しでも狂えば思ったところには投げられないはずだ、などと考えているうちに分からなくなってしまったのです。投げる直前に大変不安になり、結局ボールはとんでもない方向へ。悲惨なものです。今でも克服できていません。しかし他の人が普通にボールを投げる時はそうではないのですね。相手がボールを受け取ったところからボールを投げているのです。一種の知的直観です。

大道徳家の場合は〈真の自己を知り、宇宙の本体と融合し神意と冥合した状態〉が「主客合一の状態」となります。大道徳家にとってはこの状態が目的観念となって、この目的(理想)を直覚することで意志が成立します。〈毒を飲む〉という観念はこの目的に対しては手段となります。この手段の観念が運動表象の体系を占領することによって実際に毒を飲むことになります。しかし大道徳家にとっては、毒を飲むという行為はそれだけにとどまるのではなく、神意である理想の実現ということになります。しかもそれが同時に真の自己の意志の発現ですから、自由ということになるのです。テキストでは次のように述べられます。

我々が意志において自己が活動すると思うのはこの直覚あるのゆえである。自己と言っても別にあるのではない。真の自己とはこの統一的直覚を言うのである。

「真の自己」が出てきますね。ですからここは美術家や道徳家の「極致」の話と解釈してもよいのですが、思惟の根柢に働く知的直観の場合もそうだったように、意志の根柢に働く知的直観の場合も、大と小、つまり極致と普通の両方をカヴァーできる話として理解すべきでしょう。だとするとこの「真の自己」は「自己と言っても別にあるのではない」を受けたものと理解すべきです。〈別にあると考えられた自己〉に対して「真の自己」。自己が意識を離れて独立に存在するというのは独断ですから、このように誤って考えられた自己に対して「真の自己」と言っていると理解した方がよいと思います。

普通の意志でも、我々は自己が活動していると思っていますよね。もちろんこの自己は先程の話では「偽我」「表面的意識」です。それでも自己が活動していると思えるのは目的観念の直覚があるからだということになります。この直覚が意識を統一しているのです。極致の意志ではこの自己が神意と冥合しているような「真の自己」となるわけです。テキストは次のように続きます。

それで古人も「終日為して而も行せず」と言ったが、この直覚より見れば動中に静あり、為して而も為さずと言うことができる。

何故そんなことが言えるのか。行為の最初から最後まで目的観念の直覚が動いていないからです。目的観念の直覚が自己だということでした。ですから自己は動いていません。何も為していません。しかしそれが行為の全てを導いています。「動中に静あり、為して而も為さず」などということは、普通の意志ではそのつどの目的の間だけしか成立しません。しかし美術家や道徳家の極致ではいつでも究極の理想を見ているということになりますから、「終日為して而も行せず」などということが可能となるわけです。テキストでは次の一文でこの段落が締めくくられています。

また知と意とを超越し、しかもこの二者の根本となる直覚において知と意の合一を見出すこともできる。

これは第5段落と第6段落の結論を受けて言われています。第5段落では知的直観は思惟(知)の根柢に働いていました。第6段落では知的直観は意志(意)の根柢に働いていました。知と意の根柢がともに直覚であるから、この直覚において知と意の合一を見出すこともできる、こう言っているのです。思惟と意志、あるいは知と意の合一については『善の研究』の様々なところで扱われています。第1編「純粋経験」第3章「意志」は殆どその叙述に費やされています。また第3編「善」第1章「行為上」の第5段落にもそうした叙述が見られます。どちらにも「知行合一」と言う語が見られるのが印象的です。

ここでは第1編第3章第8段落に見られる例を用いて、上に引用した部分が理解できる程度に簡単に説明しておきます。西田は次のように書き起こします。

例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である。

厳密に言えば「ここに一本のペンがある」というのは判断ですからすでに知識的です。ですから厳密に言えばその前、判断以前のところで見ているものが問題なのです。それは純粋経験の事実として「ただ一個の現実」であり、これを統一しているところのもの(統一的或者)を見ることが「直覚」ないし「知的直観」です。しかしそれはまだ可能的含蓄的であり展開されたものではありません。

これについて種々の聯想が起こり、意識の中心が推移し、前の意識が対象視された時、前意識は単に知識的となる。

上で述べた「ここに一本のペンがある」という判断がこの段階に該当します。ここではすでに知と意が区別されています。根本にあるのが意志であることは変わりがないのですが、その意志が知識的表象の体系へと注意を向けているのです。

これに反し、このペンは文字を書くべきものだというような聯想が起こる。…この聯想的意識が独立に傾く時、すなわち意識中心がこれに映ろうとしたときは欲求の状態となる。

ここでも知と意は区別されています。意志は今度は運動表象の体系へと注意を向けています。西田は次のように言います。「知と意の区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一を失った場合に生ずるのである。意志における欲求も知識における思想も共に理想と事実と離れた不統一の状態である(第1編第3章第6段落)」。不統一の状態と言われるのは、直覚が「理想」を直覚しているのに、「事実」としてはそれがまだ実現していないからです。

西田は「ここに一本のペンがある」というような一般的抽象的な真理は反って真理と遠ざかったものであると考えます。「真理の極致は種々の方面を総合する最も具体的なる直接の事実そのものである(同)」と言います。「欲求」が不満足の状態であり、不統一だというのはその通りでしょう。

而してこの聯想的意識が愈々独立の現実となった時が意志であり、かねてまた真にこれを知ったというのである。

最初の「独立の事実」が戻ってきました。知も直接の事実として完成していますし、意志の欲求も充足しています。状態としてはペンを使うことにおいてペンを忘れてしまった状態です。この時にペンを真に知ったことになる、そのように西田は言うのです。ここにおいて最初に直覚されていた一般的な直覚が限定され個体的な事実となっています。これは最初に直覚されていたものが知においても意においても根柢として働いていたからです。つまり直覚において知も意ももともと合一されており、それが知と意に分かれてもその根柢に両者の合一としての直覚は働いており、そうして最後にまた知と意が「独立の事実」において合一されるのです。

ペンを知る、ペンを使う、こんな日常的なことでもその内に何を直覚するかによって超凡的極致的直覚にもなれば、普通の直覚にもなるというのが西田の考えだと思います。判断以前の直接経験の事実、ただ一個の事実は同時に我々にとっては衝動として現われます。我々はこの衝動を解釈して言葉を与えます。「ペンを知りたい」「ペンを使おう」、これが目的観念となります。しかしそこに止まってしまってその先を見ようとしません。それは「モナリザ」を見て単に「画だ」「女の人だ」と言っているのと同じです。こうして理想(目的観念)は表面的意識、つまり偽我の抱く希望となってしまうのでしょう。

しかし西田は普通の意志でもその根柢には知的直観が働いており、その理想的要素をどこまでも豊富、深遠とすることによって、もちろん才能があればですが、極致に達し大道徳家の意志の如きものになる、ここでもそのように考えているようです。

次回は第7段落についてお話しします。更新は15日を予定しています。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 6

第5段落

ここから第5段落です。第5段落では思惟の根柢に知的直観があることが述べられます。思惟とは「表象間の関係を定めこれを統一する作用(第1編第2章第1段落)」のことですが、この関係の本にどこまでも説明のできない、神秘的或者の直覚がある、と西田は言います。それは小にしては主語述語の関係としての判断の根柢に働く直覚であり、大にしてはプラトンやスピノザの如き体系的思想の背後に働く大なる直覚となります。

小の場合から考えていきましょう。「馬が走っている」でも「カルタの一束が机上にある」でもいいですが、そういう判断が起こる本に説明のできない直覚があるわけです。それにピッタリとした言葉を与えようとしてまず主語から語り起こす。しかしその時すでに客語が暗に含まれており、その客語が発せられた時にも、そこに主語が暗に含まれているということになります。こうして語り終えた時、ようやく自分が何を言いたかったかが顕わになります。先程の言葉で言えば、一般的なるものが個体となるわけですが、それはピッタリとした言葉を与え、過不足なく説明し尽くしているにもかかわらず、どこまでも説明のできないものの説明という性格を帯びます。

この点は大なる場合も同様ですし、芸術作品でも同様でしょう。「芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わす」と西田は述べていますが、どこまでも形にできないものを形にできないままに形にしているということだと思います。「画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない」、とありますから画の精神は個々の事物と一つでありながら、それとはあくまで異なるのです。こうして語られた「思想の根柢にはいつでも神秘的或者が潜んでいる」「我々が如何に縦横に思想を馳せるとも、根本的直覚を超出することはできぬ、思想はこの上に成立する」などと言われることになります。しかも芸術家の場合同様、この神秘的或者が我々の「思惟の力」となり、我々の思惟と言葉を導くのです。

ここでも大と小、しかもこれまでの叙述からすればプラトンやスピノザ哲学の背後に働いている直覚の大は極大ですが、そうした大と小が区別されつつ、「思想において天才の直覚と言うも、普通の思惟と言うもただ量において異なるので、質において異なるのではない、前者は新たにして深遠なる統一にすぎない」というように、大と小の区別が量的差異に還元されています。しかもすでに指摘しましたが、第2段落ではモーツァルトの例が持ち出されて、この違いは単に数量的でなく、性質的だとされています。つまり単に大小の量的差別では済まない、ということです。第2段落の記述と第5段落の記述には明らかに齟齬があるように思われるのです。

つまりここでも凡人の見ているものをどこまでも発展させれば偉大なる思想家の見ているものに行き着く、あるいは大思想家の見ている神秘的或者が凡人の見ているものにまで逆に拡大されて適用されている、というような印象があります。西田は「幾何学の公理の如きものすらこの(神秘的或者:引用者)の一種」と言っています。たとえば〈2点を直線でつなぐことができる〉などという公理は誰でも直観できるでしょう。このような直観が大思想家の直観とどのような仕方で直結していると言えるのでしょうか。

次回は第6段落についてお話しします。更新は13日を予定しています。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 5

第4段落

ここからは第4段落です。これまでの通説は知的直観と普通の知覚は違うということを主張していました。それに対する西田の反論は両者の違いは量的な差にすぎない、というものでした。いろいろ疑問はありますが、基本線はそういうことです。第4段落では知的直観についての通説が、普通の知覚との比較ということでなしに、もっと一般的に扱われています。この通説には三つあって、第一は知的直観が受動的だとする説、第二は主観的作用だとする説、第三は事実を離れた抽象的一般性の直覚だとする説です。

第一の通説は知的直観が普通の知覚同様受動的だとする説ですが、もともと普通の知覚ですらすでに申しました通り構成的です。我々は「モナリザ」を見て、「画」「女の人」という概念(理想)に基づいて、能動的に経験を構成しているのです。ですから知的直観が能動的であるというのは言うまでもないことですが、ここでの西田の反論の仕方が面白く、知的直観のあり方を具体的にイメージしやすいものにしています。西田は次のように言います。

真の知的直観とは純粋経験における統一作用そのものである、生命の捕捉である、すなわち技術の骨の如きもの、一層深く言えば美術の精神の如きものがそれである。たとえば画家の興来り筆自ら動くように複雑なる作用の背後に統一的或者が働いている。この一物の会得が知的直観であって、しかもかかる直覚は独り高尚なる芸術の場合のみではなく、すべて我々の熟練せる行動においても見る所の極めて普通の現象である。

最初の文の「純粋経験における統一作用そのものである」は「生命」にかけて読んだ方がよいと思います。知的直観とは直観として何らかのものの「捕捉」であり、「会得」だからです。またそう読まないと「生命」も漠然としたものになってしまうからです。ここでは「純粋経験における統一作用そのもの」が「生命」であると理解するのが自然だと思われます。それで知的直観とは純粋経験を統一している働きそのもの、純粋経験を生き生きとさせている生命を捕捉していることになります。よく「骨を摑んだ」と言いますが、その時には何かが見えているんですね。それは技術の表面ではなくて技術の本質のようなもの、それが見えているのでしょう。次に「一層深く言えば」と、「極致」の話が出てまいります。「美術の精神の如きもの」。画家の例が出ていますね。興来り筆自ら動くような複雑なる作用の背後に働いている「統一的或者」、この「一物」を会得することが知的直観だと。天才的な彫刻家は大理石の中にすでに完成された像を何らかの仕方で直観しており、後はいらない部分を削って像を取り出すだけだ、などと言われます。第1段落ではこれが「理想的なるもの」の直覚と呼ばれていました。こうして知的直観は普通に経験といっているものの「根柢」ないし「背後」に「理想的なるもの」を見ており、これが経験を統一している、とこういうことになるのです。

しかもこれが高尚なる芸術の場合だけではない、我々の熟練した行動に普通に見られるというのです。「モナリザ」をすぐに「画だ」と見るのも熟練と言えば熟練です。こうなれば何でもかでも知的直観です。だから西田も「極めて普通の現象」だと言うのでしょう。テキストではそれに続いて次のように述べられます。

普通の心理学は単に習慣であるとか、有機的現象であるとか言うであろうが、純粋経験説の立場より見れば、こは実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。

「普通の心理学」と「純粋経験説の立場」が対比されていますね。少し補足をしておきましょう。「心理学」は意識現象を原因結果の関係から考察する「理論的研究」に属します。科学の立場です。『善の研究』第3篇「善」第4章「価値的研究」では心理学が「理論的研究」に属することがはっきりとは述べられていませんが、『倫理学草案第一』でははっきりと心理学は物理学や化学と並んで「説明的学問」に分類されています(第16巻156頁)。「説明的学問」は「理論的研究」と同義と見てよいと思います。『倫理学草案第二』でも生理学、社会学と並んで心理学も「説明的学問」の属するとされていると見てよいと思います(第16巻204-205頁、207-208頁)。ですから心理学は『善の研究』でも「理論的研究」に属していると見てよいでしょう。この「理論的研究」に対し、『善の研究』では意識現象を目的の観点から考察するのが「価値的研究」です。真偽、美醜、善悪をその目的に照らして価値判断する立場で、論理学、美学、倫理学がこれに属するとされています。

目的には統一力が必要ですが、西田にとってこの統一力とは自然と精神とに同一の統一力です。ところで純粋経験を唯一の実在として全てを説明するというのが、「純粋経験(説)の立場」でした。純粋経験を統一的方面から見たのが、主観ないし精神で、統一される方面から見たのが客観ないし自然です。ですから当然自然と精神は同一の統一力によって成り立っている、ということになるのです。難しいでしょうか。西田の挙げている例で少し説明しておきましょう。(第2編第9章第段落)

ここに石があるとします。普通はこの石が自然の力によって存在している、と考えます。しかしこの石を視覚触覚などの感覚の結合と見ることもできます。そうするとそれらを結合しているのは我々の意志の統一力ということになります。しかしこの両面、つまり物体現象と精神現象はもともと純粋経験の事実という同一実在の両方面にすぎません。だとすれば統一力も同一だということになるのです。

こうして物体現象と精神現象は同一実在の両方面ということになったのですが、それを原因結果の観点から考察するのが「理論的研究」、目的すなわち統一力の観点から考察するのが「価値的研究」ということになります。西田のよく使う例で言えば(第3編第3章第5段落等)、ここに一つの銅像があるとします。銅としては物理化学の法則、つまり原因結果の法則に従いますが、それが現わす「理想」、ヘルメスであれ、観音菩薩であれ、それがこの像を統一しています。二つの説明が相犯す筈はなく、このように原因結果と目的の両方面から説明することで、言い換えれば「理論的研究」と「価値的研究」が相俟って実在の完全なる説明ができるというのが、『善の研究』における「純粋経験の立場」です(第3編第4章末、第2編第8章第4段落註の2)。そうして「心理学」はその内の「理論的研究」に属することになります。

ところで今述べたのは西田の考える哲学体系の中での「心理学」です。しかしテキストで問題になっているのは「普通の」心理学です。そのことで西田が念頭に置いているのはおそらく「現今科学の趨勢」に流された心理学のことでしょう。西田は次のように述べています。

現今科学の趨勢はできるだけ客観的ならんことを努めている。それで心理現象は生理的に、生理現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばならぬこととなる。(第2編第8章第2段落)

そうして我々は「普通に純機械的自然を真に客観的実在とな」している、と言うのです(第2編第8章第3段落註)。何度も言いましたが、意識現象を離れてそのような自然が実在するというのは独断です。ですからここで「普通の心理学」ということで西田が念頭に置いているのは独断的な科学的心理学ということになるでしょう。そうした科学的心理学は知的直観を単なる習慣に還元し、さらに生理学的に「有機的作用」に還元する、そういうことを言っているのでしょう。

それに対して西田は「純粋経験説の立場」を対置させます。その立場では酩酊して知らぬ間に家に帰っていたというのも、「実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすでもなく、我が物を動かすでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみ」ということになります。なんか大げさな気もしますが、そういうことになるのです。しかし本当にそれでいいのでしょうか。これも普通の知覚、ないし日常における没頭と、美術家、宗教家の直覚との関係を巡る問題ですね。

第二の通説は知的直観を主観的作用だとする説です。これについては簡単にそれが「主客を超越した状態」であるというように片づけられます。そうして「主客の対立はむしろこの統一によりて成立する」と言っていますが、統一が破れ、我に返った時に主客の対立が成立する、ということでしょう。ここでも「芸術の神来の如きものはみなこの境に達するのである」とあるように、芸術家の直観が念頭に置かれています。西田はこの「知的直観」の章では軸足を美術家、宗教家の直覚に置いたうえで、それを普通の知覚にまで拡大しているのではないか、そんな気もします。

第三の通説は知的直観が「事実を離れたる抽象的一般性の直覚」だとする説です。事実を離れて神や絶対者、イデアなどを直観するという立場が念頭に置かれているのかもしれません。西田は画の例を挙げて明快に説明しています。

画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない。

『純粋経験に関する断章』にも同趣旨の記述がありますので紹介しておきます。

知的直覚は理想の直覚である。或人は理想のような形而上の者は直覚することができないというであろう。併し真に形而上実在である理想は抽象的概念とは異なって居る。理想は具体的事実を離れて孤立して居るのではない。具体的に事実の統一力である。吾人が音楽を聞いて種々なる音の変化の上一種統括的意義をかんずる、これが理想である。精細に考えて見れば通常の概念というのも此種の作用である。我々が概念を思い浮かべる時は単に語の聴覚心像を想起するか、さなくば具体的事実を想起して此の全体の上の統一を直覚するのである。要するに、知的直覚は知覚の発展したる者である。この発展は無限であって、遂に神の直覚に至ってとどまる。(旧岩波全集版第16巻324頁)

「理想」は具体的事実の「統一力」だということです。西田はこうした統一力を美術や音楽などの理想だけでなく「通常の概念」においても認めている点、知覚が無限に発展する点、そうして神の直覚に至ってその極致に達するという点、この三点に注意しておきたいと思います。『倫理学草案第一』にも「理想界」という項目が有ります。これも紹介しておきましょう。

右に云った様に世界の根本は精神であって、吾人が日常経験するこの感覚界の外に空間、時間の関係を離れ機 械的因果律の外に超然たる形而上的理想界なるものがある。この理想界なる者が凡ての哲学、美術、宗教、道徳の基礎となるのであって、感覚界と同じく客観的実在であるのみならず反って之より深き永久的実在である。例之此処に一つの塑像ありとせよ。之を作り居る材料は物体として機械的因果律によりて成立するものである。此の像は単なる土石にあらずして或る無形なる作家の理想を顕わし居るのである。而して此の理想は又見る人の精神を直覚的に動かす力を有するのである。此の塑像に於いては理想が本体であって此の材料は仮現であると見てよろしいのである。之と同じく此の自然界人類界に於いて其千変万化する中に於いて此等の現象が無意義なる変化ではなくて理想的意義を有することを読み得るのである。昔プラトーが唱道せし如く此の世は理想の仮現と見ることができる。此の理想的実在は数理の何處にても変わらざるが如く人情の古今に一貫せるが如く永久に新たなる実在である。理性を本体とせる吾人の意志は実にこの理想界の法則に従うのであって物体の如く機械的因果律に従うのでない。(同178-179頁)

この記述によって「理想」とはイデアでもあることが分かります。しかしこの「理想」は静的なものではなく、動的なものです。『善の研究』第3篇「善」第3章「意志の自由」にも「理想」が出てまいります。見ておきましょう。

意識の根柢たる理想の方より見れば、この現実は理想の特殊なる一例に過ぎない。すなわち理想がおのれ自身を実現する一過程にすぎない。(第3篇第3章第7段落)

この「理想」は「我々は普通に思惟によりて一般的なものを知り、経験によりて個体的なものを知ると思うておる。併し個体を離れて一般的なものがあるのではない、真に一般的なるものは個体的実現の背後における潜勢力である、個体の中にありてこれを発現せしむる力である、例えば植物の種子の如きものである(第1編第2章第8段落)」における「一般的なるもの」と同じものです。知的直観における「理想的なるもの」とは個体的実現の背後における潜勢力としての「一般的なるもの」のことです。この「一般的なるものが発展の極処に至ったところが個体(同)」なのです。「知的直観」のテキストではこの箇所を受けて次のように述べられています。

嘗て云った様に、真の一般と個性は相反するものではない、個性的限定によりて反って真の一般を現わすことができる、芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わすが為である。

「一般的なるもの」が芸術家の一刀一筆によって次第に限定され個体としての作品に仕上がっていく様が目に浮かびます。逆に言えば芸術家はこの「一般的なるもの」を直観しつつ、これを作品にすべく一刀一筆を揮っているのでしょう。

この「一般的なるもの」はさらに「独立自全なる真実在の成立する方式」、すなわち「まず全体が含蓄的implicitに現われる、それよりその内容が分化発展する、しかしてこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つのものが自分自身にて発展完成するのである」(第2編第4章第2段落)における「全体」ないし「一つのもの」のことです。この「一つのもの」が「統一的或物」と呼ばれ、その会得が「知的直観」と呼ばれているのです。

さてこの段落における西田の通説に対する反論を通じて、第1段落で提示された知的直観の定義、すなわち「いわゆる理想的なるものの直覚」、「普通に経験以上と言っているものの直覚」の意味がさらに具体的に理解できたことになります。「普通に経験以上と言っているもの」が「理想的なるもの」に他ならず、それは「純粋経験における統一作用そのもの」であり、「一般的なるもの」だということになります。いまだ経験されておらず、具体的実現に至っていない理想、一般的なもの、経験を統一しているものを直覚する、ということです。いわば実現された全体を暗に(含蓄的に)直覚するということで、ある意味で実現された結果の方から見る、と言ってもいいでしょう。モーツァルトの例が分かりやすいと思います。

それともう一つ確認しておきたいのは、西田がこの段落で知的直観の例として挙げているのは何よりもまず、芸術家の直観であり、それを極めて普通の経験や知覚にまで拡大している、という点です。普通の経験や知覚からすれば、つまり向上面から考えるならば、その内に含まれる理想的要素を無限に発展させて最後に(もちろん才能があればの話ですが)美術家、宗教家の直覚という極致に至る、ということになり、向下面から考えるならば、美術家や宗教家の直覚がそのまま普通の知覚や経験に拡大されているというように見ることもできます。いずれにしても大変不可解であることに変わりはありません。

次回は第5段落についてお話しします。更新は11日を予定しています。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 4

第3段落

ここからは第3段落です。ここまでの本論の流れとしては、通説の第一、すなわち知的直観が「一種独特の神秘的能力」である、あるいは「空想」であるとする通説を批判して、知的直観が普通の知覚と同一種であって、両者の間にはっきりとした分界線を引くことはできない、真の直覚と空想の間にもはっきりとした分界線を引くことはできないということを示した、とこういうことになると思います。

これまでの議論は基本的に天才にせよ凡人にせよ、個人の中の直観に限られていました。その上で経験が進むと言えば時間が、他への効果と言えば空間が前提されていたと言えるでしょう。このように個人、時間、空間を前提とした議論ではどうしても相対的とならざるを得ません。どこまでが天才で、どこまでが凡人なのかははっきりしませんし、誰の言っていることが真の直覚で、誰の言っていることが空想なのかがはっきりしないのは当然と言えます。これに対し、あるいはこれまでの議論を受けてのことでしょうか、第3段落で扱われる第二の通説はもっとはっきりした基準を提示します。それは「知的直観がその時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直観する点において普通の知覚とその類を異にする」という説です。

例えば美しい音楽に心を奪われている状態を考えて見ましょう。そこでは時間が忘れ去られています。天地が音楽でいっぱいになっていますから空間も忘れ去られています。自分が聴いているということも忘れ去られています。ここで直観されているのは美そのものであって、ただの音ではありません。その意味で普通の知覚とは異なっています。そうしてこの美そのものこそがこの音楽において真にある(実在)と言えるものです。このような経験は今述べた「時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直観する点において普通の知覚とその類を異にする」「知的直観」の例に該当すると考えられます。

ところが実はこの音楽の例を西田は「純粋経験」の例として挙げています(第2編第3章第3段落)。「純粋経験」ということであれば、どのような経験も純粋経験の形をとり得る、ということになります。「一生懸命に断崖を攀ずる場合(第1編第1章第3段落)」のように、何かに没頭していればよい、我に返ってその経験について判断していなければよい、ということになります。これは極めて普通の知覚においても起こりえます。時間や空間を意識し、個人を意識するのは常にそうした経験から我に返った時です。そうであるならば我々が純粋経験の内にある時、それがどのような純粋経験であれ、それは同時に知的直観であることになります。普通の知覚でも知的直観でありうるのです。だから時間、空間、個人を超越しているという基準で知的直観が普通の知覚とは違う、とは言えないことになります。

テキストでの西田の反論は次のようになっています。反対論者は(1)知的直観が時間、空間、個人を超越している点において、また(2)実在の真相を直視する点において、普通の知覚と異なると主張していますので、西田の反論も二段構えになっています。まず第一の点について。

しかし前にも云った様に、厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、これ等の差別は反ってこれらを超越せる直覚によりて成立するものである。

「前にも云った様に」とあるのは、例えば第1編「純粋経験」第2章「思惟」第8~9段落のことを言っていると思われます。引用しておきます。

純粋経験の立脚地より見れば、経験を比較するにはその内容を以てすべき者である。時間空間という如きもののかかる内容に基づいてこれを統一するひとつの形式にすぎないのである。(第1編第2章第8段落)

経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのでなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。(第1編第2章第9段落)

難しいですね。少しずつ説明します。まず「純粋経験の立場より見れば」とか「純粋経験の立脚地より見れば」という表現が見られますが、それは「純粋経験を唯一の実在として凡てを説明する(序)」立場のことです。先程美しい音楽に心を奪われている状態を例に挙げて、純粋経験を具体的にイメージしていただきましたが、西田はこの純粋経験だけが真にあると言えるものであって、ここからすべてを説明しようとします。これは第2編「実在」第1章「考究の出立点」の内容となりますが、簡単に触れておきましょう。

西田は真にある(真の実在)と言えるものは「疑うにも疑いようのない直接の知識(第2編第1章第3段落)」であるとし、哲学はここから出立しなければならないと考えます。では「疑うにも疑いようのない直接の知識」とは何でしょうか。それが純粋経験です。音楽を夢中に聴いている時は聴いている自分も、聴かれている対象である音楽も意識されません。鳴っている音楽という「事実」ないし「意識現象」と、それを聴くという「知」とが一つになっています。「事実と認識の間に一毫の間隙もない。真に疑うに疑いようがない(同)」、西田はこのように言います。こうして西田は純粋経験を「考究の出立点」として、「純粋経験を唯一の実在として全てを説明」しようとするのです。これが「純粋経験の立場」ないし「純粋経験の立脚地」です。

一つだけ注意しておきたいことがあります。それは「純粋経験の立場」が「純粋経験」に立つ立場とイコールではない、「純粋経験の立脚地」が「純粋経験」そのものを立脚地にしているのではない、ということです。純粋経験の中にいる間は自分が純粋経験の中にいることすら気づかれません。ですから純粋経験に立っている限り、それについて何も語ることはできません。純粋経験について何かを語ろうとすれば、純粋経験の外に出てこれを対象化しなければなりません。また西田は純粋経験が自得すべきものであって、言語に言い表すべきものではないことを繰返し注意しますが、西田の立場は純粋経験が言語に言い表せないものである、という所に止まる立場でもありません。西田は「純粋経験はある」とはっきりと主張し、そこから我々のすべての差別的知識の成立を説明しようとします。これが「純粋経験を唯一の実在として全てを説明する」立場であり、「純粋経験の立場」です。それは対象化できないものを対象化し、言葉にならないものを言葉にしていくといったいわば矛盾した立場であり、この矛盾は人間存在に根差した矛盾と言えるでしょう。

本論に戻ります。知的直観が普通の知覚と異なることを主張する者は第一に知的直観が時間、空間、個人を超越していることを根拠に持ち出しますが、西田は通常の純粋経験がすでに時間、空間、個人を超えていることを純粋経験の立場から反論します。そうして時間空間は経験内容を比較しつつ統一する形式にすぎず、経験がこのような時間、空間、個人を知っているが故に経験は時間、空間、個人以上であると言います。普通の知覚ですら経験内容を統一的に直覚する際に、時間、空間、個人という形式を直覚していると言うのです。

これも我々の常識と大きく異なっていますので説明が必要でしょう。まず時間と空間について。我々は時間というものがまずあって、その上に様々な出来事が起こる、あるいは空間というものがまずあって、その中に様々な物が存在している、とこう考えるわけですが、それは時間や空間というものを独断的に設定している、と西田は批判するのです。そうして純粋経験の立場に帰って考えなさい、ということになるのです。「純粋経験の立場」とは「経験がある」ということは疑いたくても疑えないだろう、そこから出発すればいいんだよ、そうした立場です。そうした立場からすれば経験に先立って何かが存在するというのは独断ということになるのです。何しろ我々は決して経験(意識)の外に出られないのですから。時間、空間もそうです。経験に先立って時間や空間が実在としてあるというのは独断だということになります。純粋経験の立場からすれば、時間や空間は経験の内容を整頓する形式にすぎない、ということになります。私はよくあるのですが、お酒を飲みすぎると前後不覚になりますね。よろよろする。しっかりと前後や左右を確認しないと危ない。素面の時はこの作業を無意識のうちにちゃんとやっているのです。経験をしっかりと整頓しているのです。また酩酊すると時間的な前後も怪しくなります。このように考えると時間や空間は我々の経験の内容を整頓する形式であることが分かります。時間について西田は次のように述べています。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考えの起るには意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。しからざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用によって成立するのである。(第2編第6章第3段落)

時間が成り立つためにはまず経験の内容の統一ということがなくてはならない、ということです。この統一の形式、仕方の一つが時間というわけです。空間も同様です。

次に個人について。これも我々の常識とは大きく異なっています。我々の常識では意識というのは身体の内に、もっと言えば脳の中にあると思っています。そうしてその意識を所有しているのは心だと思っています。ところが西田は純粋経験の立場から、こうした常識を覆します。意識が脳の中にあるというのは、意識を離れて物(この場合は脳)が存在することを認める立場です。我々は決して意識の外に出ることはできませんから、意識を離れた物を仮定するのは独断だということになります。心も同様です。物や心が意識から独立に存在しているというのはそう考えた方が整合的だ、辻褄が合うというにすぎません。ですから物(身体)にせよ心にせよ、そのようなものが個人としてまずあって、その個人が経験する、と考えることは、それがどれほど常識的に見えようとも、哲学的には独断だということになります。少なくとも西田はそう考えます。それで西田は「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と言うのです。実際純粋経験において個人は意識されません。個人は純粋経験から我に返った時に意識されます。もっともこの個人性の概念は『善の研究』では両義的で、一方で先の引用にも見られたように、「特殊なる一小範囲」とされながら、他方で「完全なる真理は個人的(第1編第3章第6段落)」とされていて、これも容易ならない概念であることが分かります。我々は特殊な個人的な意識であることをどこまでもやめることはできないにもかかわらず、そうした個人性が最終的には一般的なもの、つまり神の発展の一部となる(第4篇第4章第4段落)のみならず、そうした一般的なるものの発展の極致と考えられてもいる(第1編第2章第8段落)のです。この点は措いておくとして、以上の説明で経験が時間、空間、個人を超えたものであることはご理解いただけたと思います。

さて、反対論者の第二の論点は、知的直観が実在の真相を直視している点で普通の知覚と異なる、というものでした。これに対する西田の反論は以下の通りです。

また実在を直視するというも、すべて純粋経験の状態に於いては主客の区別はない、実在と面々相対するのである、一人知的直観の場合に限ったわけではない。

そうしてシェリングの同一性やショーペンハウエルの純粋統覚の例を持ち出して、「天真爛漫なる嬰児の直覚は全てこの種に属するのである」とまで言います。

美術家が直覚しているのは美という理想です。普通の知覚が直覚しているのはそのつどの概念(画、女の人等)です。しかし言葉を知らぬ嬰児が見ているものはおそらくそのつどの概念ではありません。西田はこれ等のいずれをも純粋経験であるとし、どれも実在と直面していると考えます。たしかにこれ等のいずれも我に返った時に、自分が見たものを「本当にある」と言うでしょうから、当人にとっては実在ということになるのでしょうが、この三者の実在を同等に扱っていいのか、疑問が残ります。しかしこの点も残しておきましょう。

こうして嬰児の直覚も普通の知覚も美術家の直覚も同様に実在と面々相対している知的直観ということになるのですが、西田はやはりこれらの間に量的差異を設けようとして次のように言います。

それで知的直観とは我々の純粋経験の状態を一層大きくしたものにすぎない、すなわち意識体系の発展上における大なる統一の発現を言うのである。

それに先程「極致」とされた知的直観の記述が続きます。

学者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を得るのも、美術家の新理想を得るのも、宗教家の新覚醒を得るのもすべてかかる統一の発現に基づくのである[故にすべて神秘的直覚に基づくのである]。

嬰児の直覚から始まり、普通の知覚を経て、理想的要素が次第に量的に豊富深遠となり、ついに学者、道徳家、美術家、宗教家の直覚に至ってその頂点に達する、そんなイメージです。そうして次の文章を以てこの段落が締めくくられます。

我々の意識が単に感官的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態に止まるのであろう、しかし理想的なる精神は無限の統一を求める、しかしてこの統一はいわゆる知的直観の形において与えられたのである。知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である。

ここに至って第2段落を考察した際の疑問は一層明確な形をとることになります。第一に理想的なる精神が無限なる統一を求めるのならば、これで終わりということはないはずです。どこまでも豊富深遠となるはずです。だのになぜ「この統一はいわゆる知的直観の形において与えられた」と言えるのでしょうか。美術にせよ、学問にせよ、これで終わりということはありません。絶えずより大なる統一を求めます。これで頂点に達した、などというのはそれこそ妄想ではないか、そのように考えられます。以上が第一の疑問です。

引用文中の「知的直観」は脈絡から言って美術家などの極致の知的直観でしょう。最後の一文「知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である」の言わんとしていることは何でしょうか。「最も統一せる状態である」というようなことはここでとくに言う必要はありません。だとすればここでの主眼は神秘的な知的直観と知覚が同じだ、ということです。先程の言葉で言えば、どちらも「実在と面々相対している」ということが言いたいのだと思われます。そうだとすれば嬰児の直覚と普通の知覚と神秘的直覚は理想的要素の豊富さ、深遠さに関して量的に異なるとされながら、どれもが実在の直覚だということになります。ところで西田には意識統一の頂点が同時に意識本来の状態でもあるとする考えがあります(第4編第1章第4段落)。もともといたところに帰りたいと思う、と言うようなことです。これによりますと嬰児の直覚と美術家の直覚は同一ということになります。これ自体がとても不可解なことですが、仮にそうだとしますと極致でもあり本来でもある直覚と、普通の知覚における直覚の関係が問題になります。両者が区別されながらどちらも実在の直覚だというのは一体どういうことなのでしょうか。これが第二の疑問です。両者の区別をなくしてしまうならば、美術家や宗教家の直覚も、凡人がゲームに夢中になったり、孫の運動会の応援に我を忘れたりすることも、それどころか夢中で人殺しをするのも皆同じことになってしまいかねません。本当にそうなのでしょうか。知的直観と知覚との関係、言い換えるなら美術家や宗教家の直覚と我々の日常生活での没頭との関係はどのように考えたらよいのでしょうか。これが第二の疑問です。

もう一つ気になることがあります。ここでは学者、道徳家、美術家、宗教家の直覚が同列に扱われているのに、この章の終りには「学問道徳の本には宗教がなければならぬ」とされていることです。ここには明白な齟齬があるように見えますが、これをどのように考えたらよいのでしょうか。これが第三の疑問です。謎は深まるばかりです。

次回は第4段落についてお話しします。更新は9日を予定しています。

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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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