第6段落
ここから第6段落です。ここでは意志の根柢に知的直観があることが示されます。西田は次のように簡潔に述べます。
我々が或ることを意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚によりて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根柢には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。
この箇所は我々の普通の意志について言っているように見えますが、大道徳家の意志の場合にも適用可能な記述になっています。まずは普通の意志の線で考えて見ましょう。
意志が起るためには、意志を起こす力が必要です。これが「動機」とよばれ、意識にとっては「衝動」ないし「欲求」という仕方で現れます。この「衝動」ないし「欲求」はどこまでも説明のできない「直接経験の事実」だとされます(第3編第4章第4段落)。我々はよく〈食べるのは生きるためだ〉と言いますが、西田によればこの〈生きるため〉というのは後から加えた説明であり、我々は食べるために食べるのだと考えます。この食欲は「説明しうべからざる、与えられたる事実」で、性欲も同様です。子供が欲しくて性欲が起こるわけではありません。とはいえ人間の場合は本能(衝動)のままに行動することはありません。必ずそれにピッタリとした言葉(観念)を与えます。言葉にしなければ自分が何をしたいのかも分かりません。「食べたい」も立派な言葉です。この言葉(観念)が上の引用文の「主客合一の状態」すなわち「結果の観念」です。これには必ず「快」の感情が伴います。過去の経験が結び付いているからです。そうしてこの「結果の観念」が「目的観念」となるのです。快が必然的に伴うからと言って快そのものを目的にしているというわけではありません(快楽を唯一の目的と考えるのが快楽主義ですが、西田はこの立場をとりません)。このように我々の欲求は常に言葉(観念)を介したものですから、我々の欲望は常に「観念的欲望」です。つまり「如何なる人も何らかの理想を抱いている」ということになるのです。「守銭奴の利を貪るのも一種の理想より来るのである」、そのように西田は言います。我々の内には様々な観念的欲望が渦巻いているわけですが、これを統制しているのが理性で、これが我々一人ひとりの中では人格として働いている、このように考えるのです。
この「人格」については特に注意が必要です。西田は第3編「善」第10章「人格的善」第6段落で次のように述べます。
ここに所謂人格の力とは単に動植物の生活力という如き自然的物力を指すのではない。また本能という如き無意識の能力を指すのではない。本能作用とは有機作用より起る一種の物力である。人格とはこれに反し意識の統一力である。しかしかくいえばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主観的なる種々の希望の如きものを言うのではない。これ等の希望は幾分かその人の人格を現わすものであろうが、反ってこれらの希望を没し自己を忘れたるところに真の人格は現われるのである。
我々人間に対しても本能は衝動という形で働き、これが意志の原因である動機となる、ということは申し上げました。しかし人間はこれに言語を与え、目的観念とするので観念的欲望を持つということも申し上げました。意識はこの観念的な活動を理性によって制御しつつ統一しなければなりませんが、表面的な意識の場合、この目的観念が希望という形をとり、これが中心となって意識が統一されることになります。そうしてこれが我々の普通のあり方です。西田はこうした自我のあり方を「偽我」と呼びます(第3編第13章第5段落)。そうしてこれ等の「希望」を没し、「偽我」を殺し尽した所に、「真の人格」ないし「真の自己」が現われる、そのように考えます。したがってこの人格は唯一実在としての意識の根本的統一力ということになり、人格は「直ちに宇宙統一力の発現(第3編第10章第6段落)」ということになります。
この統一力は意識には「人格の要求」という形で現れますが、当然それは容易ではありません。「自己の知を尽し情を尽した上において始めて真の人格的要求が現われてくる(第3編第11章第4段落)」と言われます。そうしてここでまたしても画家の例が出てきます。
試みに芸術御作品について見よ。画家の真の人格即ちオリジナリティは如何なる場合に現われるか。画家が意識の上において種々の企図をなしている間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随う所に至って始めてこれを見ることができるのである。(同)
「多年苦心の結果」です。そうしてそれは道徳の場合も同じだというのです。すなわち、
道徳上における人格の発現も之と変わらぬのである。人格を発現するのは一時の情欲に従うのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従うのである。放縦惰弱とは正反対であって反って艱難辛苦の事業である。(同)
ここでも「艱難辛苦の事業」とあります。ここに至って普通の意志は極致にまで発展して大道徳家の境地に至ることになります。
大道徳家の例として『倫理学草案』では文天祥がよく登場します。『善の研究』ではソクラテスが大道徳家の例と見ることができます。第3編「善」第3章は「意志の自由」と題されていますが、そこでソクラテスは「自由の人」として登場します。彼は自分が刑死することを已むを得ぬ必然ということを知りつつ、しかもそのことを自らの根柢たる「理想」が自らを実現する一過程にすぎないと見ていたからこそ自由だ、と西田は考えるのです。芸術家が銅像の内に美を直観するのと同様に、道徳家は自らを死に至らしめるような必然の法則の内に善を直観するのです。芸術家が直観する美も道徳家が直観する善も唯一の実在の統一力としての理想に他なりません。
注意しなければならないのはこれが極致の例だということです。我々の意識には通常このような人格的要求は現われて来ないということが重要です。もちろん我々はそのつど目的観念ないし希望を中心に自らの意識を統一していますが、それは表面的意識ないし偽我による統一にすぎません。我々の意識を根底から統一している人格ないし真の自己の働きは、我々にとってはどこまでも分からないものです。
ところでここにも普通の意志が自らの直観を発展させ、もちろん才能があればの話ですが、大道徳家の直観という極致に至るといった図式を認めることができます。
解説が長くなりました。もう一度問題となっているテキストを引用します。
我々が或ることを意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚によりて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根柢には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。
すでに申しました通り、この箇所は我々の普通の意志と大道徳家の意志の両方をカヴァーするものとなっています。その場合直覚している「主客合一の状態」に雲泥の差があります。普通の意志が直覚しているのはそのつどの「結果の観念」すなわち目的です。これに対し大道徳家の目的とする所は人格ですが、西田は個人のみならず、家族、国家、人類社会にも人格を認めます(第3編第12章)。それらを貫いて唯一実在の統一力が働いているからです。当然のことながらその究極目的はこの「統一力」つまり「主客合一の力を自得する」こと、すなわち「真の自己を知ること」です。ですから人格の要求とは〈真の自己を知れ〉という要求に他なりません。「我々の真の自己は宇宙の本体」ですから、「真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合する」(以上第3編13章第5段落)ことになるのです。大道徳家は真の自己を直覚し、これを目的としているのです。
ですから上の引用文は普通の意志でしたら、例えば〈水を飲もう〉と意志した場合、その意志は〈水を飲む〉ということに局限されているわけです。ところが大道徳家の場合はそうではない。〈毒を飲もう〉という意志が、そのまま「真の自己」が自らを実現せんとする意志になるわけです。普通の意志でしたら〈水を飲み終わった状態〉が「主客合一の状態」で、これに快の感情が伴っている、とこういうことになるのです。普通の意志はこの状態を直覚することで成り立っています。そうしてこの目的観念に対して、コップを取り出す、冷蔵庫のペットボトルを取り出す等の手段を設定しながら、そのつどその運動表象に注意を向けていきます(第1編第3章第2段落参照)。これが「意志の進行」で、それが完成した時が飲み終わって〈あー、うまかった〉となった時で、「意志の実現」の時です。この間、始終〈水を飲み終わった状態〉の直覚が働いて、この進行を導いています。
モーツァルトの例がありましたね。モーツァルトはいわば出来上がった曲の方から作曲している、そんな話でした。これと同じことが普通の意志でも起こっていることになります。私は小学生のころはとても野球、と言ってもソフトボールでしたが、大好きでした。ところが中学の頃、突然ボールが投げられなくなってしまったのです。ボールが指を離れる瞬間、角度などが少しでも狂えば思ったところには投げられないはずだ、などと考えているうちに分からなくなってしまったのです。投げる直前に大変不安になり、結局ボールはとんでもない方向へ。悲惨なものです。今でも克服できていません。しかし他の人が普通にボールを投げる時はそうではないのですね。相手がボールを受け取ったところからボールを投げているのです。一種の知的直観です。
大道徳家の場合は〈真の自己を知り、宇宙の本体と融合し神意と冥合した状態〉が「主客合一の状態」となります。大道徳家にとってはこの状態が目的観念となって、この目的(理想)を直覚することで意志が成立します。〈毒を飲む〉という観念はこの目的に対しては手段となります。この手段の観念が運動表象の体系を占領することによって実際に毒を飲むことになります。しかし大道徳家にとっては、毒を飲むという行為はそれだけにとどまるのではなく、神意である理想の実現ということになります。しかもそれが同時に真の自己の意志の発現ですから、自由ということになるのです。テキストでは次のように述べられます。
我々が意志において自己が活動すると思うのはこの直覚あるのゆえである。自己と言っても別にあるのではない。真の自己とはこの統一的直覚を言うのである。
「真の自己」が出てきますね。ですからここは美術家や道徳家の「極致」の話と解釈してもよいのですが、思惟の根柢に働く知的直観の場合もそうだったように、意志の根柢に働く知的直観の場合も、大と小、つまり極致と普通の両方をカヴァーできる話として理解すべきでしょう。だとするとこの「真の自己」は「自己と言っても別にあるのではない」を受けたものと理解すべきです。〈別にあると考えられた自己〉に対して「真の自己」。自己が意識を離れて独立に存在するというのは独断ですから、このように誤って考えられた自己に対して「真の自己」と言っていると理解した方がよいと思います。
普通の意志でも、我々は自己が活動していると思っていますよね。もちろんこの自己は先程の話では「偽我」「表面的意識」です。それでも自己が活動していると思えるのは目的観念の直覚があるからだということになります。この直覚が意識を統一しているのです。極致の意志ではこの自己が神意と冥合しているような「真の自己」となるわけです。テキストは次のように続きます。
それで古人も「終日為して而も行せず」と言ったが、この直覚より見れば動中に静あり、為して而も為さずと言うことができる。
何故そんなことが言えるのか。行為の最初から最後まで目的観念の直覚が動いていないからです。目的観念の直覚が自己だということでした。ですから自己は動いていません。何も為していません。しかしそれが行為の全てを導いています。「動中に静あり、為して而も為さず」などということは、普通の意志ではそのつどの目的の間だけしか成立しません。しかし美術家や道徳家の極致ではいつでも究極の理想を見ているということになりますから、「終日為して而も行せず」などということが可能となるわけです。テキストでは次の一文でこの段落が締めくくられています。
また知と意とを超越し、しかもこの二者の根本となる直覚において知と意の合一を見出すこともできる。
これは第5段落と第6段落の結論を受けて言われています。第5段落では知的直観は思惟(知)の根柢に働いていました。第6段落では知的直観は意志(意)の根柢に働いていました。知と意の根柢がともに直覚であるから、この直覚において知と意の合一を見出すこともできる、こう言っているのです。思惟と意志、あるいは知と意の合一については『善の研究』の様々なところで扱われています。第1編「純粋経験」第3章「意志」は殆どその叙述に費やされています。また第3編「善」第1章「行為上」の第5段落にもそうした叙述が見られます。どちらにも「知行合一」と言う語が見られるのが印象的です。
ここでは第1編第3章第8段落に見られる例を用いて、上に引用した部分が理解できる程度に簡単に説明しておきます。西田は次のように書き起こします。
例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である。
厳密に言えば「ここに一本のペンがある」というのは判断ですからすでに知識的です。ですから厳密に言えばその前、判断以前のところで見ているものが問題なのです。それは純粋経験の事実として「ただ一個の現実」であり、これを統一しているところのもの(統一的或者)を見ることが「直覚」ないし「知的直観」です。しかしそれはまだ可能的含蓄的であり展開されたものではありません。
これについて種々の聯想が起こり、意識の中心が推移し、前の意識が対象視された時、前意識は単に知識的となる。
上で述べた「ここに一本のペンがある」という判断がこの段階に該当します。ここではすでに知と意が区別されています。根本にあるのが意志であることは変わりがないのですが、その意志が知識的表象の体系へと注意を向けているのです。
これに反し、このペンは文字を書くべきものだというような聯想が起こる。…この聯想的意識が独立に傾く時、すなわち意識中心がこれに映ろうとしたときは欲求の状態となる。
ここでも知と意は区別されています。意志は今度は運動表象の体系へと注意を向けています。西田は次のように言います。「知と意の区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一を失った場合に生ずるのである。意志における欲求も知識における思想も共に理想と事実と離れた不統一の状態である(第1編第3章第6段落)」。不統一の状態と言われるのは、直覚が「理想」を直覚しているのに、「事実」としてはそれがまだ実現していないからです。
西田は「ここに一本のペンがある」というような一般的抽象的な真理は反って真理と遠ざかったものであると考えます。「真理の極致は種々の方面を総合する最も具体的なる直接の事実そのものである(同)」と言います。「欲求」が不満足の状態であり、不統一だというのはその通りでしょう。
而してこの聯想的意識が愈々独立の現実となった時が意志であり、かねてまた真にこれを知ったというのである。
最初の「独立の事実」が戻ってきました。知も直接の事実として完成していますし、意志の欲求も充足しています。状態としてはペンを使うことにおいてペンを忘れてしまった状態です。この時にペンを真に知ったことになる、そのように西田は言うのです。ここにおいて最初に直覚されていた一般的な直覚が限定され個体的な事実となっています。これは最初に直覚されていたものが知においても意においても根柢として働いていたからです。つまり直覚において知も意ももともと合一されており、それが知と意に分かれてもその根柢に両者の合一としての直覚は働いており、そうして最後にまた知と意が「独立の事実」において合一されるのです。
ペンを知る、ペンを使う、こんな日常的なことでもその内に何を直覚するかによって超凡的極致的直覚にもなれば、普通の直覚にもなるというのが西田の考えだと思います。判断以前の直接経験の事実、ただ一個の事実は同時に我々にとっては衝動として現われます。我々はこの衝動を解釈して言葉を与えます。「ペンを知りたい」「ペンを使おう」、これが目的観念となります。しかしそこに止まってしまってその先を見ようとしません。それは「モナリザ」を見て単に「画だ」「女の人だ」と言っているのと同じです。こうして理想(目的観念)は表面的意識、つまり偽我の抱く希望となってしまうのでしょう。
しかし西田は普通の意志でもその根柢には知的直観が働いており、その理想的要素をどこまでも豊富、深遠とすることによって、もちろん才能があればですが、極致に達し大道徳家の意志の如きものになる、ここでもそのように考えているようです。
次回は第7段落についてお話しします。更新は15日を予定しています。