自分とは何か?自分は存在するか
- 2020年2月22日
- 読書会だより
第29回読書会だより
本日の哲学的問は「自分とは何か?自分とは存在するものなのか」です。
まず質問の意図を説明していただきましょう。家庭で冷たくされたとか(笑い)。
西田のテキストには「自己」という言葉が何度も出てきます。しかし他者が出てきません。自分は対象化できないから、自分のことは分かりませんが、そうした部分を他者から見た自分が包んでいて、それを我として受け入れているのではないかと思いました。
自分とは存在するものなのか?についてはどうですか。
それも自分自身は対象化できませんから、本来は存在するとも言えないと思います。
そうすると、これも他者によって存在していると認められることで自分の存在がたしかめられる、ということでよろしいでしょうか。確かに人間は他者に存在を認められないと、自分の存在に不安を感じますね。さあ、皆さん。それでは哲学してください。
私はマルクスの「社会的諸関係の存在」という言葉が好きです。これは他者論ともいうべきもので、自分という者は関係の中の網の目の中の一つであって、殻があってその内にあるという面もあると思いますが、それはもう少し柔らかい殻で、他人と関わりつながるものだともいます。(沈黙が続く)
皆さん、その通り、といった感じですね。これに対する反論はありませんか。
ではあえて。唯識というのがありますね。その考えからすれば自分が知らなければ他人は存在しません。気がついたら意識が現われている。そこに全てがある、という考え方です。そうしてそれがある日突然なくなる。
その意識はどのように目覚めますか。他者によって呼び覚まされるということはないですか。例えば自分の意志で眼を覚ますということはないでしょう?
自然に起きているんです。他者によって目覚めさせられているというのは後付けです。意識はすべて後付けです。
自分の世界は自分で作っているんです。そのエゴを滅却すると自分も変わり他者も変わるんです。アーラヤ識も人間が作っているんです。そこから真我に帰るんです。
真我に帰るなんてことは何千年もかけて接近して行くものです。ちょっと坐ったからといって分かるもんじゃありません。
直線的な時間も、そうでない円環的な時間も全て後付けです。
その後付けだと言われる意識は〈意識された意識〉ですよね。
見られた自己を見る自己がいる。それをさらに見ている第三の自己がいる。それをいると言うと、そう言っている自分が出て来る。そうして無限後退します。その究極に究極的な自己がいる、と思いたい。
「思いたい」ですね。どこまでも〈意識された意識〉ですね。どこまでも自己には出会えない。そうした反省のあり方が破れるということが、今テキストで問題となっていると思います。それではテキストに入りましょう。
(第29回)