内在的超越はいかに可能なのか
- 2019年7月13日
- 読書会だより
今回の「哲学的問い」は「反省が破られて、客観・神と一体になった後、意識的構造としての人間は反省・主観的な状態に必ず戻る。人生は無意味の繰り返し・永劫回帰ではないか。その場合、内在的超越はいかに可能なのか」でした。
禅宗では見性、キリスト教では帰依だね。それを得ても何も変わらない。それが絶望にならない。絶望するのは悟っていないから。あるものをあるがままに捉えればよい。
人間には分別がありますよね。どのようにして「あるものをあるがまま受け入れる」ことができるのですか。
「あるがまま」に接すればいい。「どうしよう」は煩悩です。私は真宗門徒ですが、死んだら悟れると言われている。生きている間は悟れない。悩んでいること自体が見性ではないんですよ。
この赤が赤であるということが「悟り」ではないですか。直観の内にあるということが。
「この赤が赤である」というのは判断では?直観の内にある、直観の内にある、悟ったというのも判断では?
出題者の問題意識はとても価値があると思います。これは求道心です。必ず戻るんですが、螺旋を描いて同じところには戻りません。そうしてブレが大きいほど大きく進みます。大きな悪ほど大きな善に触れる機縁となります。
しかしそれは絶えず小を抱え、悪を抱え続けることを意味しませんか。
それが無意味の繰り返しのように思えるんです。
どのように受け入れるかの問題です。真宗のほうでは自然(じねん)といいます。
宮沢賢治は「詩人は苦痛をも享受する」「永遠の未完成これ完成である」と言っています。これは見性できないということだと思います。
プロセス意志、というかベクトルというか、途上にあるんだけれども、その方向性が大切だと思います。これも求道心の問題ですね。
神と一体になることがいいことのように言われていますが、大したものじゃないのでは。一体を目指さなくてもよいのはないか。
神じゃなくてもいいんです。自然といったほうが良ければ自然でもいいです。究極的に安心できるというか、意味を求める必要もないところです。
それなら犬のほうが幸福かもしれませんね。悩むことを人間はやめることができませんから。どうですか?若い人に聞いてみましょうか。人間をやめたいと思いますか?
すべてのしがらみを捨てて山に帰りたいと思うことはあります。
神と一体になって完成するというのだけれど、そのことをだれが直観するのですか?
もちろん自分です。
それは判断の言葉になることによって崩れます。そこに永劫回帰があると思うんです。
これで終わりにしたいですが、最後にちょっと。永劫回帰は無意味な繰り返しですから、人間はこれを直視できません。逃げるようにして何かに飛びつく。それがまた永劫回帰に取り込まれて行きます。どうにもなりませんし、人間はこれをやめることもできません。ですがこのことに「そうだな」と身が頷くことによって、人間はこの「どうにもならなさ」から少し離れることになります。それは同時にそれを少し受け入れることができるようになるということです。そんなことができるのは「どうにもならない」厳粛なもの、どこまでも分からない深いものに触れているからです。