知覚作用と判断作用

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 265頁11行目「思惟の矛盾は」から266頁6行目「主観の破壊が入って来るのである」までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーセンテンスは「一般概念の構成作用、所謂抽象作用には意志の立場が加はらねばならぬ。」(266.4-5)で、キーワードは「意志の立場」(266.4)でした。そうして「考えたことないし問い」は「一般概念の構成作用には「意志の立場」が加わらなければならないと西田は言う。ここには、主観による対象の破壊が入って来る。このことは、「悪いことをした」と私が思うときを例にすると、どのように考えられるか。自分を悪だと判断する私(主観)が、判断される私(対象)を破壊しているのか、あるいは、その行為を「悪」だとみなす私(主観)が「悪」(対象)を破壊しているのか。さらに、ここに「意志作用」(自由意志の立場)を考えるならば、「意志作用」は「意志の立場」を破壊するといえるだろうか(235字)」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
難解ですね。まずキーセンテンスから確認しましょう。「一般概念の構成作用」とは我々の日常的な在り方ですね。我々の経験が一般概念を前提にして、それによって構成されているということです。そうした一般概念が真の無の場所から切り離されると「所謂抽象的一般概念」となります。判断はこれによって構成されます。日常性における構成作用も、判断における構成作用も、じつは意志の作用によって成り立っているのですが、そのことは意志の立場(真の無の場所)に立ってみないと分からない。一般概念や判断が破れないと分からないということです。そうした立場に立ってみると、判断というのは主観による破壊(「主観の破壊」)であることが分かる、ということです。その上で改めて「悪いことをした」と「私が思う」時に何が起こっているかを考えてみましょう。まず「判断する私」が「判断される私」、これは〈善だと思っていた私〉のことですね、それを「破壊している」。これは何となく分かります。次の「悪だとみなす私」が「悪」を「破壊している」とはどういうことですか?

O

「悪」を取り逃がす、悪という「理念」を破壊している、ということです。
佐野
自分を「悪」だと判断する(みなす)私は、悪ではありませんね。だから「悪」という理念を破壊していると。

A

先日のOさんの例で行くとどうなりますか?「悪いことをしたなあ」ということの中で何が起こっていますか?

O

大学院に進学することがよいことだ、ということに揺らぎがあるということです。「何か」が「破壊」しているんです。この「何か」が「意志の立場」ということなのかなあ、と。
佐野
「悪いことをしたなあ」というのは「判断」の立場ですか?

O

「判断」とも取れるし、「破壊」とも取れます。「判断」の場合は主語が立ちますが、「破壊」の場合は主語が立ちません。「他者」が関わることで「破壊」が起ります。

A

だけどそれは、大学院進学は普通だったらいいことなのに、間違っているのでは、というように判断が揺らいでいるのであって、新しい判断をそこでしているわけではないのでは?

O

普通に就職していれば親に迷惑もかけないわけですから、悪いなあとずっと悩んではいたのですが、やはり自分のやりたいことをしてしまうんです。
佐野
Aさんの例では、そういう「揺らぎ」ではなく、「とてつもなく悪いことをしている」という気分に襲われていますね。この場合は何が起こっていますか?

A

山口にいることを100%悪いとは思ってはいなくて、善いと決断せざるを得ない、そう思っていたんです。ところが「ある時」、こうしたことのすべてがいいわけで、「とてつもなく悪いことをしている」と感じたのです。何かによって「否定されている感じ」ですが、その「何か」とは具体的な「他者」、例えば父とか他人ではありません。父から言われたわけでもないし、他人から言われても〈うるさい〉と思うだけです。
佐野
その「何か」は少なくとも「自分」ではないですね。自分で自分を否定することはできませんから。「自分」が立つと「判断」の立場になりますが、「何かに否定されている感じ」はそうした「判断」以前の出来事、ということになりますね。

B

判断すること、破壊すること、これらはどうしようもないジレンマを抱えていると思います。ありのままの古墳の石室内部を見たい、でも内部を見ようとすればありのままではなくなる、変質してしまう、というような感じです。どこまでもいたちごっこを繰り返すほかはないような気がするのですが。
佐野
Oさんの「考えたこと」の最後にある「さらに、ここに「意志作用」(自由意志の立場)を考えるならば、「意志作用」は「意志の立場」を破壊するといえるだろうか」も難解ですね。どういう意味ですか?

O

「意志の立場」とは「判断」の立場ではなく、「経験的にどうしようもなく悪である」という体験の立場です。まだ言語化されていない在り方です。「意志作用」はそうした体験をも「破壊する」という意味です。
佐野
「どうしようもなく悪である」という体験を破壊し、〈赦し〉とか〈救い〉につながるような作用のことをお考えですか?(「意志の立場」は矛盾の立場で、生が死、死が生、有が無、無が有ということでしたから、善が悪、悪が善となる立場となるはずですから)

O

そうではありません。訳が分からなくなるようなものです。

B

そこから再構築が行われるというようにダイナミックに考える必要があると思います。
佐野
ありがとうございました。プロトコルはここまでにしましょう。それではテキストを講読しましょう。今日は266頁6行目から267頁5行目まで講読します。今日の所も大変な難所です。Cさん、お願いします。

C

読む(266頁6行目から8行目まで)

D

「フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定せられた場所に過ぎない」というのがよくわかりません。
佐野
これは初期フッサールに対する批判ですね。261頁2-4行目に「フッサールの云う如く知覚の水平面は何處までも遠く広がるであろう。併しそれは概念的思惟と平行して広がるのである、之を越えて広がるのではない、何處までも之によって囲まれて居るのである」とあり、また259頁9-11行目には「知覚の意識面を限定する境界線をなすものは、知覚一般の概念でなければならぬ。知覚的直覚というのは斯くして限定せられた場所である。我々が知覚的直覚に於てあると考える時、我々は一般概念によって限定せられた直覚に於てあるのである、限定せられた場所に於てあるのである」とはっきりと書かれています。要するに、我々が知覚している時ですら、知覚とは何かの一般概念の中で知覚しているということです。これでよろしいですか?

D

はい。
佐野
フッサールの知覚的直覚が有の場所であるのに対し、「真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に満ちたものでなければならぬ。私はかかる直覚を真の無の場所に於てあると考えるのである」とありますね。ここでベルグソンの「純粋持続」について高坂正顕著『西洋哲学史』604-607頁を参考のために読んでおきたいと思います。

F

読む
佐野
それではテキストに戻りましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(267頁5行目まで)
佐野
どこか分からないところはありませんか?と言われてもどこも強烈に難しいですね。どこでもいいです。そこから皆さんと一緒に考えましょう。

H

「述語的なるものが主語の位置に立つことによって働くものが見られるのである」(266頁12-13行目)の意味が分かりません。
佐野
「述語的なるもの」とは「一般概念」のことです。例えば「知覚」とは何かの一般概念を我々は携えて知覚しているんですが、こうした一般概念や知覚作用は、実際に知覚している時には意識されません。それに没入していますから。この没入が破られ一般概念が真の無の場所に映し出されます。それが「考えらえる」ことによって対象化されると、それが「主語の位置に立つ」ことになります。そうするとそれは「知覚作用」という「働くもの」として見られることになります。こんな感じでよろしいでしょうか。

H

はい。

J

267頁の最初の文からが難しくてよく理解できません。
佐野
私もこれをはじめ読んだ時にはまったく分からず、解釈にずいぶん手間取りました。ここで皆さんに私の解釈を述べますので、皆さんで検討してください。まず「併し単に有を超越し有が之に於てあると考えられる否定的無は尚真の無ではない」とあります。「之」とは「否定的無」のことですね。ついで「真の無に於ては、かかる対立的無も之に於てあるのである」と来ます。「かかる対立的無」とは前文の「否定的無」を指していますね。そうした対立的無も、「之」すなわち「真の無」に於てある、ということです。次の文章ではもう一度有の場所から解き起こします。すなわち「限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ、かかる無が更に無に於てあると考えられる時、判断作用が成立するのである」となっています。「かかる無」とは何ですか?

K

「真の無」ではないでしょうか?
佐野
しかしそうだとすれば、「真の無」が「更に無に於てある」ことになりますね。

K

それは変ですね。
佐野
ええ。それで「かかる無」とは「直に真の無に於てあると考えられ」た時の無、つまり〈考えられた真の無〉で、これは「対立的無」である、こう解釈してみたのです。

K

たしかに真の無が「考えられる」というのは変ですね。
佐野
ええ。今日講読した箇所には「考えられる」という語が頻出しています。西田は意識して用いていると思います。今読んだところの後半ですが「かかる無が更に無に於てあると考えられる時」とありますが、正しくは「かかる無が更に[直に真の]無の場所に於てあると考えられる時」と言うべきで、テキストはこのカッコ部分を省略したものと考えられます。するとこの箇所はどう読めるか。まず「限定せられた有」(有の場所)が破られて、「直に真の無に於てある」、真の無の場所に映し出される、それがそのように「考えられる」ことでそこに「対立的無」(否定的無)が成立し、そこに於てある「有の場所」「知覚作用」が成立します。しかしそのように〈考えられた真の無〉(対立的無)も破られて、「更に[直に真の]無の場所」に映し出されます。それがそのよう真の無の場所に於てあると「考えられる」ことで、そこにまた「対立的無」が成立し、そこに於てある「判断作用」が成立する、こう読んで見たのです。そうして次に「すべて作用というのは一つの場所が直に真の無の場所に於てあると見られる場合に現れるのである」と来ますね。「すべて作用」ということで「知覚作用」と「判断作用」を総括しているのだと思います。それらはどちらも「一つの場所が直に真の場所に於てあると見られる場合に現れる」のだ、このように述べていると思われます。これは何も「知覚作用」に限られません。265頁でスコトゥスに言及されていたことが何よりの証拠です。我々は善という一般概念によって構成された世界を通常生きています。人間はよいと思ったことしかしません。悪いと思っていてもそれをするということは本当に悪いとは思っていないからです。しかしそれがある時、突如破られる。これは自分の力ではできません。この時真の無に一般概念が映し出されている。それと同時にそうでない可能性、選択意志の自由がそこに開け、つねに決断を迫られている自己の在り方にも目覚めることになります。それと同時に善を意志し、決断するという「意志作用」が意識されます。この時には場所はすでに「対立的無の場所」になっています。しかしこうした〈作用としての意志〉の立場に躓き、こうした立場が破れることで、それが真の無に映し出されて、根源悪に目覚めると同時に根源悪のままに善に転じられ(悔い改め、回心)、「善のみ実在」という世界が現出するというのが矛盾の立場たる「意志の立場」とも言えると思います。

I

「すべて作用というのは一つの場所が」という時、この「一つ」とは知覚作用の場合も判断作用の場合も、同じ一つの場所が、という意味でしょうか?
佐野
いいえ、そうではなく、「すべて作用というのは[どちらも]」という、everyの意味だと思います。さて以上の箇所を今述べたように解釈することで266頁9行目以降の「知覚的直覚というものが考えられる時、知覚作用というものが考えられねばならぬ。作用というものが考えられるには私の所謂「作用の作用」の立場(自覚の立場のことですね:佐野)から作用自身が反省せられねばならぬ(判断の領域です:佐野)」などもよく理解できると思います。今日はここまでとしましょう。
(第56回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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