美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている
- 2020年8月1日
- 読書会だより
本日の「哲学的問い」は「『美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている』(マルセル・プルースト『サント=ブーヴに反論する』)とは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが好んで使った言葉である。この言葉を踏まえる時、哲学書のテキスト解釈とは、どのように考えるべきであろうか」でした。
どういう質問ですか?
人間は自分の知識で書物を読みます。この知識が枠になっているのです。テキストに「ニュートンの絶対時」が出て来ましたが、これがどういうものか知らないと、繰り返しの利かない「唯一時」というものが理解できません。このように人によって知識が異なるわけですから、解釈も人によって違うことになります。それなら唯一の正しい解釈はないのか、そういうことです。
「外国語で書かれている」というのは、文学のテキストにおける異化作用の問題ですね。文学を読む場合は日常言語の理解では間に合わない、ということです。哲学の書を読む場合にも哲学の常識を踏まえた読み方をしなければ読めません。伝統を踏まえた読み方のトレーニングが必要です。その意味で哲学の書は真実に向かって積み上げていく営みですから、哲学のテキストは誤読を許しません。
それなら私は哲学の書が読めません。
私は誤読しかないと思います。哲学は誤読と誤読のコミュニケーションであり、読者は独善的だと思います。ただ宇宙の真理を目指しているという点ではBさんと同じだと思います。
誤読と誤読でどうやってコミュニケーションをとるのですか。
ディスコミュニケーションです。(会場笑)けんかという愛し方というか。小林秀雄が言うように、西田の文章は言語体系を壊している。ですがそれが快感で、離れられない。
私は感じるだけでいいと思います。自分の人生を重ねて読むというか。それは文学的なテキストでも哲学的なテキストでも同じです。
問題となっているのは「美しい書物」がそれ自身として存在しているかどうかということだと思います。読み手がゼロでも。
美しい書物は「つんどく」だけでも美しいのです。
確かに分からないけれど美しいということはあると思います。
しかし誤読だったというのは違うパラダイムにおいて初めてわかることだし、そういうプロセス自体が真理の探究ということを前提していると思います。
しかし正解はない。
正解がない、って言ってしまうとそれが正解になってしまいます。
それでもそこに歴史の中で伝えられてきた哲学書がそこに在るから、求めようとするんじゃないですか。お経は分からないけれどあるだけでありがたいというような。
それでも結局「本当の本当」にはたどり着けないと思います。
公文書というのがあって、これは誤読のないように書かれてあるんですね。ところが最終的には役人の解釈や、裁判所、学者の解釈に委ねられてしまう。
この読書会では「テキストに忠実に」ということがモットーになっていますが、これはどういうことですか。
テキストに忠実に、とかテキストに向き合って、よく言いますが、難しいですね。ほしいままの意志(恣意)を持ち込まないように、テキストを文脈において読む。分からないところはそのままにして、何度も読む。その内テキストの中にいろんなつながりが見えてきます。最初に出題者が人間が携えている枠についてお話してくださいましたが、確かに我々はいくら注意したところで、そうした前提を携えて読むしかない。しかしそれでは読めない、ということになる。その意味でそれは外国語ですが、その中で我々の前提が破れてテキストの方から聞こえてくるものがある。歴史的に読み継がれてきたテキストにはこうした我々の呼びかけに応えてくれるものがあります。それではテキストに入りましょう。
(第36回)