具体的一般者(その3つのレベル)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第1段落から第3段落までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「具体的一般者は自己自身に同一にして自己の内容を与えるといふ意味に於いて直覚的であるが、自己自身の内容を含み之について述語するといふ意味において一般概念的でなければならぬ」(340頁10行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「変ずるものの根柢にある一般的なるものは、抽象的概念を越えて自己の内に所与の原理を蔵し、自己の内容を与える具体的一般者であるが、ここに二つの個物があるとき、個物1と個物2の根柢にある一般的なるものは具体的一般者1と具体的一般者2になるのではないか。個物1と個物2が(ひいては森羅万象が)、そのまま、ありのままに無限の広がりを持つものと関係するとしたら、それはこの論理においてどのように説明されるか」(197字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

S

「具体的一般者」が森羅万象で、すべてがその自己限定だとすると、自己限定できない一般者が初めから刷り込まれているのではないか、つまりは「自己限定って何だ?」という問いです。
佐野
面白いですね。一般者とその自己限定とは、ハイデッガーの有(存在)と有るもの(存在者)の関係のようですね。有は有るものを開くと同時に自らを匿う(隠す)のですから。この問題はハイデッガーにおいても有の真性(存在の真理)と非真性(非真理)、あるいはそうした真性が起ることとしての「性起(ereignis)」と「非性起」の関係を問う問題として、最も深いところにある難問だとされます。西田にもそうした側面がありそうですね。テキストでも西田は矛盾したことを言っています。一方で本日のキーセンテンスにあるように、直覚的なものは「一般概念的でなければならぬ」、つまり哲学的な説明が可能でなければならない、と述べる。しかし他方で、例えば「一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」(342,10-11)と判断的知識を越えた直観の領域を認めています。これを具体的一般者そのものとその自己限定の関係に当てはめて考えてよいかどうか。

Y

その場合でも、西田は「ありのまま」の直覚はあり得ると考えていたと思います。
佐野
ハイデッガーの場合には、こちら側の認識能力の問題ではなくて、有(存在)が自らを隠してしまうので、人間に顕わになると言っても、隠されている、という仕方で顕わになることになると思います。それに対して西田の場合は隠れるということも含めて、すべてが顕わになっている(「露堂々」)と。

Y

ええ。そうして西田はそうした直覚が哲学的な説明になり得ると考えていたと思います。そうでなければ一般はその自己限定(特殊)に対立する抽象的な一般者になると思います。

A

李禹煥という美術家がいますが、彼は石と銅板といった「関係項」を通じて「関係」そのものをどう感じるかを作品化しています。ハイデッガーの有(存在)と有るもの(存在者)、あるいは西田の一般者とその自己限定にも通じるかも知れません。頭だけでは理解できないものを、身体と頭で掴んでいく。そうしたものが作品を作る際にヒントになっているようです。座禅の際の半眼、これは如来像もそうですが、こうした半眼のコツをつかむことが重要だと思います。
佐野
Sさんのプロトコルではもう一つ問いがありましたね。

S

個物1と個物2に対応して具体的一般者1と具体的一般者2があるのではないか、という問いです。「そんなものはない」と言われるかもしれませんが。
佐野
テキストを読む限り、そんなものはない、と思われる方が多いのでは。西田が個物と個物の相互関係を考えるようになるのは、後に「世界」を弁証法的に考えるようになってからです。因みに既に『善の研究』でも、個物と個物の関係が弁証法的に考えられていました。しかしここではそうした「学者」風の説明に立ち入らずに、何故個物が一つなのか、目下のテキストだけで考えて見たいと思います。何故個物が一つだけなのか。それはおそらく出発点が包摂的判断だからです。一般が特殊を包む。この特殊化をどこまでも推し進めても、一般性を脱することはできません(330,1)。個物に達するには「主語となって述語とならないと云うこと」が附加されなければならない(同)。「富士山!」ですね。こうして個物という尖端に到達する。こういう考察方法では個物は一つとならざるを得ないと思います。

S

なるほど。そうした個物と森羅万象とはどうつながるのでしょうか?
佐野
包摂的判断から個物の先端に到達する時に超越があるのですが、この時に何が起こっているか、が問題になると思います。その場合尖端の個物が特殊化(主語)の方向の方向に見出されるものだとすれば、一般化(述語)の方向に見出されるものが絶対の無ですが、「述語とならない(無)」にとどまれば、個物の世界は直観の世界という外ないことになります。しかし西田はそれが同時に「述語」できるもの、哲学的に説明可能なものでなければならないと考え、その論理を探ります。西田によればここに「転換」があるというのです。まず個物(「富士山!」)は「自己自身に同一なるもの」ですから、これを判断にもたらしても「同一判断(「富士山は富士山である)」にしかならないはずですが、これが無意義な同語反復でないとすれば、そこに「一般者の自己限定」がなければならないと考えます。

S

それはどのようにして、ですか?
佐野
まず個物が質料などの抽象的一般性を拭い去って真の特殊(例えば「個色」)となる時、同時に一般性も特殊と対立する、それ自身特殊であるような、そうした特殊性を拭い去って真の一般となる。そうなるとこの一般者は真の無となると同時に真の特殊(個)を包むことになります。これが具体的一般者です。「富士山!」とか「富士山は富士山である!」という叫びにおいては、絶対無の無限の深みから個物が立ち上がっているのですが、それは同時に絶対無からの無限の自己限定の尖端として、具体的一般者の自己限定として、具体的一般者に包まれつつ立ち上がっている、ということです。一即一切、一切即一と言ってもいいかもしれません。Sさんの言う、森羅万象も個物と個物の相互関係も具体的一般者において生起していて、その自己限定として個物(真の特殊)が成立している、そのように考えて見てはいかがでしょうか。

S

そうした直観からどのように哲学が可能になるのですか?
佐野
すみません。ここで先程でてきた「転換」が問題になります。「自己自身に同一なるもの」(「富士山!」)ないし「同一判断」(「富士山は富士山である」)と言うことで主語と述語が転換可能となり、それを通じて主語(「富士山」)と述語(絶対無・無限な述語・森羅万象)が転換し得る、と言うのです。そうしてこの新たな主語が一般概念的なもの(説明的言語)を含むことによって概念的知識、つまり哲学的な説明が可能になると考えているようです。

S

ありがとうございます。
佐野
プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(341頁1行目~342頁6行目)
佐野
この第4段落全体が「経験的知識」に関するものとなっていますね。「具体的一般者」も本来の知的直観におけるものから、数学や経験的知識における一般者まで拡張した意味において用いられています。「経験的知識」の場合、「直覚的方面」(経験的直観(見る)の内容・主語的方面・客観)は外から与えられなければならず、「概念的方面」(考える・述語的方面・主観)と分裂することになりますが、経験的知識として成立するために両方面が総合されなければならないとすれば、概念的方面としての抽象的一般者を一種の「具体的一般者」(「一つの具体的概念」)と考えてもよい、と言おうとしています。次に「上にも云った如く」とありますが、この「上」とはどこですか?

A

340頁1行目の「所謂抽象的概念といえども一方に所与の原理がなければならない」でしょうか?
佐野
そうですね。「所与の原理」とはこの場合、経験的直観の内容が外から与えられなければならない、という意味ですから、「元来直覚的なるもの(経験的直観)との関係なくして成立することはできぬ」と重なりますね。次に「唯、単なる包摂的関係をもってしては〔抽象的概念は〕直覚的なるものに結合することはできない」とは一般の特殊化という仕方でどこまで考えても、経験的直観には結びつかないということです。しかし「特殊と一般との包摂的関係に判断の主語と述語との関係を含めて考えれば」、また出て来ましたね。「主語となって述語とならない」というアリストテレスから学んだ実体概念を西田が独自に解釈したものです。これを付け加えれば、抽象的概念も「直覚的なるものに結合できることができる」、そのように述べます。こうなると、例えば「色の概念」という抽象的概念も、最後の所で(後で出て来ますが)「これは青い」という仕方で、「判断の主語(これ)と述語(青い)との関係を含めた包摂的関係(「これは青い」)を包む一般概念と考えることができ、「具体的概念の一面」と考えることができる、ただ「不完全なもの」だ、そのように述べます。

A

「これは青い」が出て来ると、どうして抽象的概念が具体的概念になるのですか?
佐野
「これは青い」は主語と述語が同一の「自同的判断」です。実際「これ」と「青い」は同一です。「これはAさんです」というのと同じですね。どちらも個(物)です。経験的判断も最後の所でこうした同一判断を抱えている、したがって主述の転換が可能となって、「これ」という語り尽くせないものについて「青い」という仕方で述語づけることができる、そのように述べようとしていると思われます。

A

何故「不完全」なのですか?
佐野
経験内容が外から与えられなければならないからだと思いますが、他にも理由がありそうです。外から与えられた、というように、内外、主客の区別を前提すると、色や青といった抽象的概念(言葉)が破られないままに、与えられたものを主観の側から概念的に「青」というように捉えに行ってしまう、ということが起ります。この場合には直覚との結びつきは不完全なものとなり、さらにはそれを含む一般概念も具体的概念としては不完全なものになります。

A

子供に12色の色鉛筆を与えて色を教えることにも弊害がありそうですね。日本の教育はそこで終わっている場合が多いですが、それで終わりとすれば害があると思います。
佐野
そうですね。ただ言葉がないと、人間は認識もできませんから、そういう言葉と同時に絶えず言葉では言い表すことのできないものに目を向けさせることが大切なんでしょう。次に行きましょう。何と書いてありますか?

A

「直覚的方面と概念的方面とを統一して一つの具体的概念が成立するには、両面を結合する自同的判断がなければならぬ。自同的判断によって直覚的なるものと概念的なるものとが内面的に結合せられるのである。自同的判断の成立するかぎり、具体的一般者が成り立つのである」とあります。
佐野
ありがとうございます。西田は「具体的一般者」に3つのレベルを考えていて、①知的直観と概念との結合によるもの、②数学におけるような、純粋直観と概念の結合によるもの、③経験的知識におけるような、経験的直観と概念との結合によるもの、がそれですが、ここではまず一般的に述べていますね。どの場合にも「自同的判断」が必要だと。①の場合は何度も出て来た「富士山は富士山である!」という絶句体験から発した自同的判断、②の場合には「一般概念なるものが直に直覚的である」という仕方で、数自身、空間自身がすでに「自己自身に同一なるもの」であるため、ことさらに自同的判断をもち出さなくても「自己自身について述語する」ことができる場合、③の場合は「これは青い」という経験的知識における自同的判断です。まずは②から述べられています。空間のようなものについて「我々は容易に之を具体的一般者と考えることができる」とありますが、そうは言ってもこの「具体的一般者」は本来のものではなく、あくまでも限定された一般者、その意味で抽象的一般者です。それに続けて③の場合が述べられます。何と書いてありますか?

A

「之に反し所謂経験的知識という如きものに於ては、我々は空間の場合に於ての如く一般的なるものの直覚(純粋直観)を有つと考えることはできぬ、併し最後の種を越えた個物に於て自己自身に同一なるものの(経験的)直覚を有つのである、(経験的に)直覚的なるものに直接するのである」とあります。
佐野
ありがとうございます。そうしてその例が次に出て来る「これは青い」ですね。そうしてこの「判断が経験的事実(「これ」)を主語として成立するかぎり、その述語は一般的青ではなくして、個色的青でなければならぬ、唯一の青でなければならぬ」と述べられます。経験的な一般概念も最後の所で直覚的な自同的判断に基づいているということですが、この直覚が「経験的直観」として主客の分裂を前提にしている限り、この一般概念は「不完全」なものであることについては、さきほど考察しました。次に「斯く唯一なるものの判断的知識が成立する(言葉にならない直覚について述語できる)かぎり、それ自身に於て直覚的ならずとも之を包む一般者が考えられねばならぬ」とありますが、「之」とは?

A

「直覚的(なもの)」でしょうか?
佐野
そうですね。直覚的なものを包む一般者、つまり「一つの具体的一般者」ですね。そうして「単なる包摂的関係から見れば(直覚的なるもの・経験的直観)は概念的関係の外に出ると考えられるであろう。しかし(主述の)判断的関係を含めた包摂的関係から云えば、(直覚的なるものは)、尚述語的一般者(概念的なもの)に於てあると考えることができる」と述べられます。このように直覚的なるものを包む「述語的一般者」が「具体的一般者」で、「これは青い」という場合には、主語と述語が転換して、この「述語的一般者」が主語(これ)となって、それについて述語する、という形を取ります。これは「一般者の自己限定」ですから、「これは青い」という「自同的判断が単なる同語反復にあらざるかぎり、一般者の自己限定でなければならぬ」と述べられることになります。今日はここまでとしましょう。
(第108回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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