誰でも良心の声が聞こえるのか
- 2019年5月25日
- 読書会だより
今回の哲学的問いは「誰でも良心の声が聞こえるのか。人間にはその声に従うか従わないかを決める自由があるか」でした。
良心の声には道徳の制約、つまり文化的制約があるんじゃないですか。
でも埋葬は全ての文化に共通していると思います。
そんなことはないですよ。鳥葬だって風葬だってあります。
でも死者へのいたわりの心は共通だと思います。
キリスト教は死体には全く関心がないから、宗教によって違うのでは。そもそもこれは良心の問題とは異なると思います。
良心の声は従わざるを得ないものだと思います。体が自然に動くというか。迷うことは有りません。
そうです。真の高次的な統一に常に身を置いている者は迷う必要は有りません。
ずいぶん極端というか、特色のある良心の声だと思いますが、他の方はどうですか。
西田のテキストを読んでいると転換が問題になりますよね。窮した状況で。そうしたどうしようもない状況で良心の声は聞こえて来るのでは。
その場合、従う従わないの自由はありますか。
選択肢はあり得ない。
それでもそれでよいのか、という声は聞こえてきませんか。それが良心の声だと思うのですが。
それでも自分で決めた時には人間はエゴでしかありえない。直観で見た、聞いた、動いたと言う時は良心の声に従ったと言えるけど、それを判断したらもうエゴ。
この問いには背景があるんです。良き「サマリア人の喩」というのが新約聖書にあって、ボコボコにされたユダヤ人を同じユダヤ人の偉い聖職者が見てみぬふりをしたのに、当時ユダヤ人とは血で血を洗う争いをしていたサマリア人が「かわいそうに思って」介抱した、という話です。それを解説している人が、このサマリア人は神の促しに自由な決断によって従った、従ってみたらその決断も神の働きであったことが分かる、そのように言うんです。
そんな自由はありませんよ。
この場合良心の声は「かわいそうに思って」という神の促しになっていますね。はじめに良心の声は文化的な制約があるという話がありましたが、良心の声は「善をなせ」とだけ言って来ます。(もっと言うと、人間は善も愛も直観的に知っています。だから人間は真の人間関係や無償の愛の理念を決して手放しません。知っているから命令になります)。ですが具体的な内容は何ひとつ言って来ない。言ってこないものだからそのつど自分で解釈しなければならない。だけど人間は不安を抱えているものだから、どうしてもエゴを捨て切らない。その意味では自由に選んでいるつもりでも、根本に不安があり、エゴがある。それに縛られているから自由はない、ということになります。こうした行為に対して良心の声は「それでいいのか」と呼びかけてきます。それでもエゴを捨て切らない。どうにもならない。そこに身が頷く所で自分へのこだわりから少し解放される。そこで聞こえて来るものがある、それが「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」あるいは「既に我生けるにあらず基督我にありて生けるなり」、つまり「生かされて生きる」という在り方への転換ですね。