この花は本当に赤いのか
- 2019年4月20日
- 読書会だより
今回の哲学的問いは「この花は本当に赤いのか」でした。これは西田が、カント学派の人々に対する批判として、「この花は赤い」という知識に客観性・確実性を与えるものは「直接経験の内容」だと言ったことを受けています。
赤いと言ったら、赤くないし、花と言ったら花じゃありません。
どういうこと?
言葉にしたら純粋経験ではないという意味です。
言葉にしたらもう取り逃がしている、×だと。
文化的背景として言葉があることが分かっていない点、色が万人に同じように見えていることを前提にしている点でここでの西田の議論は失敗していると思います。
虹が七色なのはそれに対応する言葉が七つしかないから、ということですね。
この「赤」は普遍的な赤じゃないのでは?各人が見ている特有な赤だと思います。
難しいね。面白いことに西田も『純粋経験に関する断章』の中で「具体的な赤」と「抽象的な赤」を区別しようとしている箇所がある(「単なるdas Rote(赤) がそのkonkrete Wirklichkeit(具体的現実)ではすべてのaspectに関係をもって居ると思う。抽象的のdas Roteとは全く異なったものである」16,551)。また「赤」がもっと細かく分かれる可能性についても言及している(「若し吾人の意識が更に精細となり今日の赤色の中種々の差別を意識する様になったならば今日の赤の意識は抽象的といわれるであろう。概念と言い感覚というは相対的であると考える」16,444)。さらに西田はこうした「知識的説明」のほかに「情意的説明」というものも考えている。意識は知情意から成るからね。それで「この花は赤い」という「知識的説明」の他に「これはキリストの涙である」と言ってもいいわけだ。そこで問題になるのは知識の「客観性」や「確実性」はどうなるか、ということだ。
マルセル番号で定義された赤の波形と波長のものを「赤」とすればよい。客観的だ。
それもアナログの連続からデジタルで取り出したものですよね。
それにその番号の「赤」が当人にどのように見えているかは分かりませんね。
ええ。
同一を同一にするものが同一のイデアだったように、赤を赤にするのも赤のイデアじゃないですか。
イデアが知識の客観性を与えると。
知識の客観性や確実性を求める必要はないんじゃないですか。
西田はそれを与えるのが直接経験の事実だと言おうとしている。そこでは意識現象とそれを意識することがピタッと一つになっている。だから真実であり、確実だと。そうしてそれを分けたものが判断だ。例えば「走る馬」のような意識現象についての知を分解して「馬が走る」という判断になると考えている。
だったらそこを離れると取り逃がすということですね。
離れずに言葉にすることが問題だと。純粋経験はもともと言語に言い表すべきものではありません。ということは純粋経験自体に無限の表現の可能性が秘められているわけです。それを言葉にしていく。それを外から判断すると取り逃がす・・・でも人間は気づいたら外に出ているからなあ。分からない・・・。テキストに行きましょう。