哲学と方法
- 2024年9月14日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」52頁15行目「自然科学の外に歴史学というものも」から55頁3行目「マールブルグ学派のほうが一層明瞭であるように思われるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「学問の種々なる区別は如何なるアプリオリから客観的実在を統一するかによって生ずる。即ち方法論的範疇によって定まるのである」(53項15行目~16行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「カントが見い出した知識の先天的要素を、リッケルトが方法論的範疇として明確にした、という流れと理解しました。リッケルトによると方法論的範疇は二範疇(一般性の立場=自然科学、個別性の立場=歴史学)に分けられ、「従来凡ゆる学問の上に立った自然科学も歴史学と同列に引き下ろされることになった(53頁3行目)」ということですが、それならば哲学の方法論的範疇とはどんなもので、自然科学とは何が異なるのでしょうか」(198字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
まずTさんにお伺いしましょう。哲学にこれと言う方法が正解としてあると思いますか?
そのようなものはないと思いますが、それは自然科学でも同じことだと思います。ニュートン力学から、相対性理論や量子力学への発展段階で方法論的範疇は変わっていると思います。哲学でもそれは同じではないかと。ただ方向のようなものが違っていて、自然科学の場合は、一旦方法や概念を定めるとそれに乗っかって、突き進んでいきます。それが目指すのは何かに役立つ、ということです。例えば治療とか健康だとか。これに対して、哲学はそうした前提というものをさらに深堀りして行きます。
たしかに哲学はそうした前提を疑い、吟味して行きますね。疑いようもないものから出立しようとしたのが、デカルトであり、純粋経験の哲学を構想していた『善の研究』の西田です。判断の成立を事実として前提し、その可能性の条件を考えて行ったのが、カントや「場所」の論文を書いていたころの西田です。ヘーゲルは、哲学の始まりは無前提のもの、何にも媒介されていない無媒介(直接的)なもの、如何なる規定をももたない無規定なものでなければならない、と考えました。そこから始めて、それ(始まり、始元)がどのように(弁証法的に)運動するかを論じ、最後には最初の無媒介のものも実は最後のものによって媒介されていたことを示す、円環としての学を構想しました。そのヘーゲルですが、哲学は何かの役に立つものではない、というように言います。むしろ生活への関心が差し迫ったものとならなくなったところ、つまり閑(スコレー)ができた所で、はじめて哲学が始まるというように言います。その意味で哲学は何の役にも立たない。何かに役に立つということになると、その何かに奉仕し従属することになるが、そうしたことがない、その意味で自由なのが哲学です。我々の現実生活では、生きるためということが原理になっていますから、思惟はつねに不自由ですが、哲学することは自由な営みです。
自然科学を研究している人の中にも、何に役立つということを度外視して、例えば蝶をただそれが知りたいから、楽しいからといって研究する人がいます。
そうですね。学問というものは元来そうしたところで発展するものなのでしょう。しかし人間の現実生活はそうした学問の成果を利用しようとする。そうして学問に「役に立つことをしろ」と迫ります。こうした傾向は昨今ますます顕著なものになってきていますね。ただ自然科学と哲学との関係について言えば、自然科学の対象は、学問一般の対象としてもいいですが、そうした学問の対象は限定されたものです。蝶を研究する人は蝶だけを対象とする。これに対し、哲学の対象は全体的なもの、根源的なものです。またそうした対象を探究するための方法も、こういう方法でやりたいので認めてください、というようにお願いするのでなく、必然的な方法を考えようとします。その点では、あらゆる学問の根底に、学問の基礎づけとして哲学があるとも言えます。例えば、科学の根本には科学哲学があり、法の根本には法哲学がある、というようにです。
哲学の方法を考えるには、文学や宗教といったものと比較するのがよいと思います。哲学は論理や言葉に信頼を置いて、これを重視していると思います。文学の場合も言葉を重視しますが、哲学とは異なるように思います。宗教では言葉をあまり重視していないような印象があります。
哲学も宗教も文学を含む芸術も対象は同じで、どこまでも分からない何か、です。これを論理(ロゴス)によって言語(ロゴス)化しようとするのが哲学だと思います。その論理にいろいろあり、弁証法論理であったり、即非の論理だったりする。これが「方法」となりますが、その場合でもやはりこうした言葉以前の「何か」の体験は不可欠です。それがなければたんなるつじつま合わせでしかない。宗教はこの「何か」の体験に基づいて、信仰という仕方(方法)で、私(人間)とこの「何か」との関係を探求していく。文学を含む芸術は、同じく形にならないものを、形にする(創作・創造)という方法で探究して行きます。文学の場合は言葉という場で、音楽の場合は音という場でこれを行います。以上はわたしの「哲学」「宗教」「芸術」観にすぎませんが、他の方はどのようにお考えでしょうか。
「超越」が許されている学問は哲学しかないと思います。自然科学には推定はありますが、超越はない。
そうですね。宗教や芸術にはこうした「超越」がないと、宗教や芸術にならない。こちらからの思いが破れるという体験、こういうものは哲学、宗教、芸術に不可欠でしょう。
哲学の方法に二種あって、或る事象(例えば暴力性)を、概念を使ってカテゴリー化してどんな現象(体験)でも説明しよう、それによって問題となる事象を解決しようというのと、概念化できない「これ」としか言いようのないものに直面して、そこから概念を作って行くのとがあると思います。現代の教育哲学は前者ですが、私は後者の哲学の方法の方が好きです。
その場合でも結局既存の概念を当てはめて、概念以前のものを説明することになるのだから、同じことになるのでは?
何かに使おうとしているか否か、に違いがありそうですね。
私は「自己言及的志向」が哲学の特徴だと思います。自己の立場を反省・吟味して、その抽象的な在り方から具体性を取り戻すのが、自己言及ということです。目の前のカップという具体的な存在に立ち返る。
その意味では哲学はつねに私(自己)が問題になっていますね。宗教もそうした側面があると思いますが、そういう点では自然科学より歴史学に近いと言えますね。自然科学は一般性を求め、歴史学は個性を求めるという点で。
己事究明を宗教の特権のように考える向きもありますが、ヘーゲルはこうした個への執着を断つことこそ宗教のしなければならないことだと言います。哲学も、さきほどのSさんのお話はこのカップという個に即しながら、その語りはつねに普遍的でした。哲学も同様で、個に即しながらその語りはつねに普遍的でなければならない。哲学は人生相談ではないのですから。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。今回は最後まで読了しました。読みやすい内容ですので、各自読まれてください。プロトコルのご担当は決めていませんでしたが、Oさんにお願いしました。よろしくお願いいたします。
(第84回)