無から有を作る

お久しぶりです。「読書会だより」を再開しました。架空対談の形で今後の読書会の在り方を考えて見たいと思います。
佐野
読書会では毎回前回の講座を思い出すために「プロトコル」をメンバーが当番で作成していましたが、いろいろ問題が生じてきました。

A

どういう問題ですか?
佐野
まずテキストが超難解で作成が困難だということ、したがって当番の成り手が少なくなってしまったこと、が挙げられます。

B

まったく成り手がいないというわけではないのでしょう?
佐野
ええ。しかし 勇気をもって引き受けていただいた場合でも、内容が難しいために、プロトコルの紹介で読書会の時間の多くをとられ、必然的に本来の読書会の時間が少なくなってしまうんです。そこで仕方なく佐野がプロトコルを作成するケースが増えてきたわけです。

C

それだと参加者が自ら時間をかけてテキストを読み込む機会を奪うことになりませんか?
佐野
そうです。結局佐野の講義みたいになってしまう。それはこの読書会の理念とする在り方とは違います。読書会はあくまで「共に読み、共に考える」ことを理念としています。参加者が主体です。

C

困りましたね。どうするんですか?
佐野
今回「共に読み、共に考える」時間を確保し、しかもプロトコルをできるだけ輪番に近い形にするために、工夫をすることにしました。まず「プロトコル」は「キーワード」ないし「キーセンテンス」を挙げ、それについて「考えたこと」あるいは「分からないこと」を200字程度で報告していただき、次回はそれをもとに紹介を含め、30分以内で議論する、という方式をとろうと思います。

A

それだと輪番でもできそうですね。
佐野
そう言っていただけるとありがたいです。

B

でも、これまでのプロトコルのような記録はやめにしてしまうということですか?
佐野
たしかにそれはもったいない気がしますが、一番大切なことは、どんなに難しくても、まずは自分で解釈してみることだと思います。初めての楽譜を音にするみたいにね。初めての楽譜を音にする時って、曲にもよるけれど、何をやっているか分からないことが少なくない。しかし繰り返し、もちろん考えながらですが、音にしていると、いろいろな発見がある。音楽になって来る。この過程がとても大切だと思うのです。

B

そうですが、専門家でもない人が、西田の難しい文章を一人で読むことはやはり難しいと思います。
佐野
ええ。だから「共に読み、共に考える」。

B

そうはおっしゃっても、読書会の時間内では結局分からないまま、次に進む形になっていますよ。少なくとも私はそうです。
佐野
分かっても分からなくて続けることが一番大切なのですが、西田の「場所」論文のようなものの場合、極端に難しいですから、かなりの苦痛になるだろうと思います。そうかといって私が、分かったような顔をして教えを垂れ、参加者が私に教わるという形にはしたくない。私が読書会のために準備してきた解釈は一つの解釈でしかありません。皆さんと共に考えることで、それは変わっていくものです。

B

結局、どうするんですか?
佐野
やはり、「共に読み、共に考える」時間を確保したいと思います。私も準備はしてきますが、そのことは一応横に置いておいて、皆さんと一緒に考えます。

B

それだと結局、分からないまま次へ進むことになりませんか?
佐野
そうなりますね。ですがそれを持ち帰って考えることはできますね。それは私も同じです。そこで読書会を終えた後、ポイントとなるところ、面白そうなところ、あるいは難しいところなど、思いついたことをこの「読書会だより」のスペースを利用してアップし、それを皆さんと共有したいと思います。皆さんはそれをヒントにして、自らこの難曲を音にしていくわけです。

A

やって見ないとわかりませんが、とにかくやって見ましょう。

D

今回の講読箇所について何かコメントはありませんか? 今回は旧全集版247頁1行目から248頁13行目まででしたね。
佐野
まず「我々に真に直接なるもの」を「純粋性質」と呼んでいますね。これは「真の無の場所」に「於てあるもの」です。そこでは「物」も「作用」も消え失せる、とされています。「物」(本体)も「作用」(働き)も消え失せるから「性質」と呼ばれていると考えられます。

D

『善の研究』の純粋経験を思わせますね。
佐野
そうですね。「物心の独立的存在」を否定しているところ、「色を見、音を聞く刹那」に「外物の作用」や「我がこれを感じて居る」といった作用を否定しているところなどにそれを感じさせますね。このように物や作用が否定された、だからそこに見えるのは「すべてが影像」ということになります。しかしそれは「判断の立場から云えば」ということです。

D

続いて「真に無の立場に於ては所謂無其者もなくなるが故に、すべて有るものはそのままに有るものでなければならぬ」とありますね。
佐野
ここには立場の転換がありますね。

D

しかしさらに続けて「有るものがそのままに有であるということは、有るがままに無であると云うことである、即ちすべて影像である」とありますよ。また「判断の立場」に転換するということですか?
佐野
「判断の立場」そのものは「すべては影像」とは考えないでしょう。「すべては実在」と考えています。ですから「すべては影像」と言い得た「判断の立場」は立場としてはすでに破れています。そうした破れた「判断の立場」においてはじめて「すべては影像」ということが受け入れられるのです。そのことと「有るものがそのままに有るものである」と言い得る「真の無の立場」が同時だということです。「AはAでない、それ故にAである」という即非の論理を思わせますね。

D

続いて「有るものを斯く見るということが、物を内在的に見ることである」とありますね。これは?
佐野
「斯く」とは「有るものが有るがままに無である」ことが直ちに「有るものがそのままに有るものである」と見ることですね。それは同時に自らが無になって物となって見ることです。西田はこれを「無から有を作る」と言おうとしていると思います。だから「作るというのは…見ることである」と言われます。ただそのためには「判断の立場」が破られる、という契機が決定的に重要であり、さらに言えば絶対的な他者との出会いが不可欠ですが、その点はここではあまり述べられていないように思われます。今回はここまでにしましょう。
(第37回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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