悪の起源はどこにあるか
- 2019年9月28日
- 読書会だより
本日の哲学的問は「直観の有において悪は存在するか。悪の起源はどこにあるか」です。
直観は純粋経験でもいいですか。
ええ。
純粋経験は判断以前ですから、善も悪もありません。判断のないところには悪はありません。
『倫理学草案第二』(『善の研究』の基となる講義の前年度に行われた講義)の「宗教論」の最後が「原罪」で終わっていましたね。
ええ。
それから日記が書かれていないんですよね。でも何かを達観した、見神の事実というか、それで『善の研究』を書くことができた。
純粋経験において悪はあるかという問題はどうなりますか。悪や罪の問題とどうつながるか、そこのところを考えてください。
私はどうも展開が苦手で・・・
最終的なところでは絶対善を認めざるを得ないのではないか。逆に言えば悪を認めることはできないのではないか。
絶対善があるなら絶対悪もあるのでは。原罪を抱えるような人間を創ったのも神ですから。神性の悪って言うんですか。だとすれば神は善も悪も備えていてそれで完全です。
我々の事柄として考えてみましょう。西田は『善の研究』第4編第4章で一方では絶対的な悪はない、この世は絶対的に善だと言いながら、他方で「悔い改められたる罪ほど世に美しいものはない」と言っています。これをどう考えるか。
善と悪は完全に等価です。罪は憎むべきものとさえ言えないと思います。
そうですか。罪は辛いですよ。直視することすらできない。
「罪を知る」という表現もありますね。
私は悪が何であるかが分かりません。やはり純粋経験では善も悪もないのでは。
ええ。悪も善もそこから出て来ます。純粋経験にいられないから。純粋経験は厳然としてあり続けるのに、我々はそれに届かない。これが悪です。
純粋経験は発展する活動です。動的一般者という言葉も次の時期には表れてきます。それを見る立場においてはすべては程度の差になります。善悪もそうです。量的な差にすぎません。
「程度の差」というのは第1編第1章見られる表現ですね。高橋里美がこれを批判した。もともと純粋経験は判断以前だったのに、判断も純粋経験だというのに使われている。そんなことを言ったら純粋経験の概念が曖昧になると。
すべてが相対的だというお話ですが、判断こそが相対的ではないですか。直観においては悪はないと思います。
いえ。純粋経験の内にも矛盾は含まれていると思います。
私も純粋経験はスタティックなものではなくダイナミックなものだと思います。文化や時代によって悪の概念は変わりますが、悪というもの、それが何であるかは分かりませんが、それはあると思います。仏教では不飲酒戒というのがありますが、これは普遍的とは言えない。ですが不殺生戒、つまり人を殺してはいけないというのは普遍的だと思います。
戦争のときは違いますよ。
盛り上がってきましたが、今日はこのくらいにしてテキストに移りましょう。