時に於いてあるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」より前文と「一」の第2段落326頁3行目「意味するのである」までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「所謂知的作用は却って意識作用の一種と考えることができるであろう」(324頁最終行)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「知的作用」とは所謂「意識作用」であり、「狭義」には「判断」や「認識作用」等が該当するが、「之に反し広く云えば」、知がいわば知情意全体の「意識作用」を含むようにもなる。しかも、それが前掲文の「却って」云々という独特の書法で強調されている。一体これはどういう事態であるのか?」(136字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。

R

「却って」が「独特の書法で強調されている」とありますが、どういうことですか?

N

一つには、通常、知と情意は別だと思われているが、実は一つであること、もう一つは情意も知に入るという、知性の専制主義がそこにある、ということです。つまり知が情意を仕切っているのです。この知は西田の言う知で、『善の研究』で言う、「夜の見方」に対する「昼の見方」です。夜の見方とは自然科学的な見方ですが、これを克服して事物をありのままに見るには西洋的な知を転換しなければならない。直観的な知ですが、抽象的な知をもそこに含めようとした、それが西田の言う知です。

Y

「知性の専制主義」が西田の立場だということですか?

N

そうです。この知は直観、自覚、反省すべてを仕切るものです。

Y

体験・経験が重視されていない、ということですか?

N

それも直観される、ということです。

T

知が上にある、ということですか?

N

そうです。

T

(西田の場合、知よりも情意を上に置く傾向があると思うので)ここではそうした上下ではなく、広い意味の知とはすべてが「意識される」という意味で知である、という範囲の問題ではないですか?

N

いや、知が上から、かつ底からという意味で「知性の専制主義」です。知を意識と言い換えて「意識の専制主義」と言ってもよいが、その場合無意識をも意識化しようという気合があります。物自体をも認識するくらいの気合です。
佐野
「知性の専制主義」に対するアンチテーゼは何ですか?

N

一つにはヒュームが「知性は情念の奴隷である」と言ったように、「懐疑主義」があります。もう一つは知性で表現できないものとして、夢や神話、恋心などを重視した「ロマン主義」があります。もう一つ付け加えるならば、「支離滅裂」です。私はこれを先日の「3.11.のマーラー」で経験しました。ここにはベートーヴェン的な、最後は歓喜と言ったようなものは一切ない。
佐野
西田哲学には最後の所で歓喜がある、ということですか?

N

救い・歓喜があります。

W

私は最近「我を忘れる」という事態をどう考えたらよいか、考えているのですが。

N

そこにも知性が働いている、というのが西田の「知性の専制主義」ですが、同時に西田の知性は、悩み、考え、組み替え、それを読者にぶつけるという仕方で真理を明らかにしようとする、謙虚な専制主義です。

T

だとすると、先ほど挙げられた「懐疑主義」、「ロマン主義」、「支離滅裂」といったアンチテーゼも知性に取り込まれてしまいませんか?

N

西田は取り込んでいると思っていたかもしれない。懐疑主義における懐疑も、懐疑のための懐疑ではなく、そこには真理を知りたいということがある。ロマン主義にしても、デカダンスにしても、その根底にはやはり真理を知りたい、ということがある。
佐野
そうなると改めて「知性の専制主義」に対するアンチテーゼが何か、が問題になりますね。

N

中原中也のような。
佐野
芸術ですか?

N

そうです。芸術です。
佐野
哲学に対するものとして、芸術とならんで宗教も挙げられますが。

N

宗教は(現実的な勢力としては)いかさまが多い。金を集める、票にするといったことを目的とする側面があるので、私は「知性の専制主義」に対するアンチテーゼとしては、宗教は留保したい。
佐野
しかし、それはさておいても、哲学、芸術、宗教というように分けるのも、またしても知性(哲学)だということになってしまいそうですね。プロトコルはここまでとして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(326頁3~10行目)
佐野
ここでは「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」(325,3-4)が問題になっています。物理現象から(生命現象を経て)意識現象がどのように成立するかを論じているように見えますが、そうだとすれば難しい(無理だという)感じがしますね。それはともかく、まず「右の如くに考え得る」とあるのは「論理的に」(325,15)ということですね。つまり判断論的・言語的ということです。その場合には「時に於てあるもの」と「時の関係」がなければならないことになりますが、そうすると「時に於てあるもの」が「意味を含むと云うことはできない」とされます。この「意味」というのが何を意味するかは文脈で考えるほかないのですが、とりあえず例えば「仏像」を物理現象として見るか価値(信仰の対象、鑑賞の対象)と見るかに違いがあるとすれば、意味とはこうした価値のことである、としておいて読み進めてみようと思います。ここまでで質問はありますか?

A

大丈夫です。
佐野
「時の関係」とは前後・同時ということですが、ここには意味(価値)は含まれない、ということですね。そこに「於てあるもの」つまり「物」には赤とか青という「性質」はあるだろうが、これもそれだけ取ってみれば意味(価値)を含んでいない、と述べられます。時の関係(前後・同時)を「物に附けて先在性、後在性、同時性といえば、意味ではなくその物の属性となる」とありますね。

A

人間を物のように考えれば、兄か弟か双子か、ということですね。
佐野
そうですね。人間の場合は意味が出て来てしまいますが、物の属性としての先在性・後在性・同時性などには意味はない、ということです。最後の「時に於てあるものが意味を含むと云うことができないとすれば、時以外の関係に於て〔意味を含むと〕云うのであるか、又は時の関係其者に属すると考えるの外ないであろう」というのは読みにくいですが、ここでの問いが「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」であることを考えると、「時以外の関係」に意味を含むと言っても問いに答えたことにならないだろうし、「時の関係其者」に意味が属するなどと言えば不合理なことを言うことになるだろう、ということでどちらも〈ありえない〉ということだと思います。次をBさん、お願いします。

B

読む(326頁11~15行目)
佐野
今度は「時に於ける変化が意味を含むと云うことができるであろうか」と来ますが、何かこれも無理そうな感じがしますね。しかしまあ読んで見ましょう。まず「変ずるものの根柢には変ぜざるものがなければならぬ」とされます。「変ぜざるもの」は「時の背後」になければならないことになりますが、その例が「物」だとされます。しかし「物」は「性質」をもつことはできても、「意味を含む」とは言われない。また「物は既に時の外にあるもの」であるから、仮に意味を含むとしても、上の問いに答えることはできません。結局「時の背後」の「物」は却下です。次をCさん、お願いします。

C

読む(327頁1~4行目)
佐野
今度は「時の背後」ではなく、「時に於て現れる連続的要素」つまり「変ずるもの」そのものの「中に」「不変なるもの」がないか、が考察されます。例えば木の葉が青から赤に変わったとして、「木の葉」を置くのは先の「物」を置く立場ですが、今度のはそういうものを置かずに、青から赤に変わった、というところだけ見る。そうするとそこにおける「不変なるもの」とは「色」だということになる。しかし「色」は「木の葉」が「物」という主語的(それが様々な色を担うという意味で)一般者だとすれば、「述語的一般者」だということになりますが、これは「類概念的統一」で、こうした統一をしているのは主観ということで、「主観的統一」に過ぎない、ということになってこれも却下です。次をDさん、お願いします。

D

読む(327頁4~7行目)
佐野
以上は「物」関連です。その前半が物・主語で後半が性質・述語です。それに対し今度は「力」です。「力」を「時の背後」に置けば「物」と一緒ですし、「変ずるもの」の中に、例えばf=mαのように、「時間空間質量の数学的函数」を置けば、これらはみな概念ですから、この函数もやはり「主観的統一」ということになって、「力」も却下。次をEさん、お願いします。

E

読む(327頁7行目~328頁11行目)
佐野
今度は「時に於て変ずるもの其者」において「不変的なるもの」を求める場合です。「物」を外に置かずに、「性質的一般者が内に時の変化を包む」と考える場合です。

E

この「性質的一般者」というのは先程出てきた「述語的一般者」と同じと見ていいですか?
佐野
私もそうではないか、と思っています。皆さん、いい感じで文脈の中で考えておられますね。

E

そうでないと読めませんから。
佐野
それはともかく、もう一つの考え方がありますね。

E

「時其者を性質的と見て性質時というものを考える」場合です。
佐野
そうですね。前者が主観的なものから客観的な変化が出て来ないかを論ずるもの、後者が客観的な、「不変的なるもの=性質時」から変化が出て来ないかを論ずるものです。これは、「時其者」を不変な「物」のように考え、それが「性質」をもつことによって変化を説明する、という立場です。前者から見て行きましょう。まず「性質的一般者」が「類概念的なるもの」と言い換えられていますね。主観的だということです。

E

類概念がどうして主観的だということになるのですか。
佐野
これも文脈で考えるとそうなるということです。深く考えればいろいろ考えられると思いますが、まずは文脈に沿って相手の言うことを理解しましょう。今の場合、例えばこの犬やあの犬は客観的で、歩いていますが、類概念である犬一般は歩いていませんね。その程度の意味だと思います。次に行きますが、テキストではそれ(「類概念的なるもの」)は「時を離れたもの」、「意味に属するもの」でなければならない、とされています。

E

この「類概念」は「時」に関するものですから、「価値」とは異なるように思いますが。
佐野
そうですね。しかし西田は概念(言葉)に関するものはすべて価値を志向している、と考えていて、その価値は善美のみならず、真(真理)をも含むと考えればどうでしょう?

E

考えて見ます。
佐野
類概念的な時は「意味」に属するもので、客観的な時を離れているが、これがどのようにして時そのもの、あるいは時に於てあるもの(個物:この〇〇)に到達するか、これが問題になっています。「類概念的統一は述語的統一である」と述べられていますね。ここでは主語=客観的、述語=主観的という図式で考えられていますから、「述語的統一」は「主観的統一」と同義です。そうして「一般概念を如何に分化していっても個物に達することはできない、即ち時に於てあるものに到達することはできない」とされます。「最後の種」もなお「一般的」であると。個物、あるいは時そのものに達するには超越・飛躍が必要みたいですね。ここまでで質問はありますか?

E

大丈夫です。
佐野
次ははじめに「〔一般〕概念を」を補うと読みやすいと思います。直前に「最後の種」と出て来ましたが、そこからどのようにして個物に至るかを考える場合に、「概念自身の中に矛盾発展を含む」と考えたらどうか、というわけです。概念が特殊と一般の矛盾を含む場合、それは「特殊は一般である」という矛盾にまで発展しますが、これが判断だというのです。その場合この「特殊」は「個」になりますから(「ソクラテスは人間である」)、こうして個物にまで達するではないか、というわけです。しかしこれはなお「判断的関係」であって「判断作用」ではない、そう西田は言います。

E

「判断作用にまで達することはできない」とはどういうことですか?
佐野
「判断的関係」は時間の中にありません。例えば「ソクラテスは人間である」は時間を超えて成り立つ真理です。これに対し「判断作用」は時間のうちに生滅する出来事です。

E

分かりました。
佐野
ここまでが「変ずるもの其者」において「性質的一般者」を「不変的なるもの」と見る見方ですが、これでは「変ずるもの」が出て来ない、ということでこれも却下です。ここからは「時其者」を「物」のように考えて、それが「性質を有つ」と考えるやり方(「性質時」)です。ここも、我々は通常そのように時間を見ていない、ということで通常の見方としては却下されます。「性質時」を考えるためには、「時其者」を主語として、そこに「一度的と考えられる時」を性質的に区別・述語する、ということが成り立たなければならないけれども実際にはそうなっていない。どうしているかと言えば、まず「時の種々なる差別」を包む「時の類概念」という「単に性質的一般者」を「時の背後に置いて見ている」のであって、その時には「時其者を主語として居る」のではなく、「唯種々なる変化を考えて居る」のだとされます。どういうことかというと、「時其者の性質」の区別としては長短と前後(・同時)が考えられるけれども、まずは「長短」が取り上げられています。その場合「時に於てあるもの」を「同質的」と見て、それによって「時の長短を比較」しているというのです。どういうことでしょう?

E

例えば、地球の自転公転ではないでしょうか?
佐野
そうですね。まさに「時に於てあるもの(地球)」の「種々なる変化(自転公転)」を考えていることになりますね。その変化を「同質的」と見て、そこから「時の長短を比較し」て、「時の類概念(性質的一般者)」という主観的なものを考えて、これを「時の背後」に置く、ということでしょう。これは「時其者」を主語として考えているのではない、ということになります。次いで時の前後に関して、「時其者を考える」場合が論じられています。その場合、「時を固定」して見ている、というのです。時の空間化ですね。つまり「時を固定せる要素から成り立つものとして、その要素を比較する」というのです。これも主観的な時ですね。こうして「いづれにしても長短とか前後とかいうことは時の変化其者を主語とするのでない」と結論付けられます。通常の見方では時其者を主語として見る見方は出てきそうもありませんね。今日はここまでとしましょう。
(第99回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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